第六十七滴 血液
「連れてくるのが遅い。一歩間違えば、死んでてもおかしくなかったぞ」
横たわる天璃を診察していた神領が、ため息をつきながら立ち上がる。入れ替わるように近づいた珠羅は、ベッドの端に腰掛けると、眠る天璃の頬を指でそっと撫ぜた。
「どのくらいで治る?」
「傷が塞がるまで三日。跡がなくなるまで五日。失った血液も含め、体調が戻るまでに三日半ってところだな」
大まかな日数を挙げた神領が、不意に真面目な空気を漂わせる。
「とはいえ、それは以前までの話だ」
少し低められた声が、話の深刻さを表しているようで。珠羅の視線が、自然と神領の方へ向けられた。
「骨折した際の御門は、まだ普通の治癒速度をしていた。人間を基準にするなら、いたって正常な範囲だ」
薬棚から小瓶を取り出した神領が、中を覗くように掲げる。
「この薬には、とある人外の血が混ぜられている。飲んだ者は一時的に驚異的な治癒能力を得るが、同時に、拒絶反応として激痛に襲われる代物だ。だが、御門にはその兆候が全く見られなかった」
人によって多少の差は生まれるものの、本来なら誰にでも現れる症状のはずだ。
静かな医務室に、淡々と語る神領の声が響く。
「恐らく、御門は人外の血に対する適応力が高いタイプだ。医者になってから、稀にそういった者と出会うことはあったが、ここまでの相手には僕も初めて会ったよ」
「ふーん。それで、神領先生は何が知りたいの?」
「この短期間で、御門の身体にはあり得ない程の変化が起こっている。僕が治療するまでもなく、傷がすでに塞がりかけていたんだ。だがな、この薬に……継続した効果はないんだよ」
神領が何を言おうとしているのか、おおよそ察しがついたのだろう。黙って耳を傾けていた珠羅が、面白がるように目を細める。
「阿留多伎、おまえ──御門に何をした?」
この短期間で変化を起こせる者がいるとすれば、それは天璃の傍にいた珠羅だけだ。
核心を突く問いかけに、珠羅はゆるりと笑みを浮かべた。
◆ ◆ ◆ ◆
分厚いカーテンの引かれた部屋に、黒いローブが舞う。
隙間から覗く月明かりを眺めていた男の前で、配下が恭しく膝をついた。
「実験の結果が出たようだね」
「はい。今回の被検体ですが……拒絶反応により、死亡しました」
「そうか。それは残念だったね」
惜しむような声だが、表情に変化はない。沈黙する配下へ、男は「新しい協力者はいるのかな?」と口にした。
「すでに目星はつけております」
「優秀な部下がいて助かるよ」
深く首を垂れた配下に、男が薄く笑みを浮かべる。
「それと、例の生徒については、本土にいる同志も調査を続けているようです」
「ふむ。何か分かったことはあるかい?」
「……いえ、まだ何も。申し訳ありません」
配下の肩に手を置いた男が、何度か優しく叩く。労いの込められた行為に、配下が恐縮した様子で目を伏せた。
「構わないさ。分からなかったということもまた、有用な情報だからね」
去っていく配下から顔を背け、デスクの椅子に腰掛ける。仄かに輝く月明かりが、男の金糸のような髪を照らした。
「神も魔物も妖も……人ならざるモノたちは、全てこの世を去ってしまった。残った純粋な存在は、今や吸血鬼だけだ」
溢れた独り言には、どこか切実さが滲んでいる。
「必ず見つけてみせる。人間を、人外へと至らせる方法を──」
ワイングラスを手に取った男は、中で揺れる真っ赤な液体を見つめ、味わうように口に含んだ。
◆ ◆ ◇ ◇
昔から、感情を読み取るのが得意だった。
特に、目は分かりやすい。言葉でどれだけ偽りを重ねようと、目は絶対に嘘をつかないからだ。
試合を観戦したのは、相手の性格や癖を知るため。先に知略を示したのは、自分への印象を操作するため。
初めから、全ては盤上にて行われた出来事だった。
人でも人外でも関係ない。
感情を持つ存在なら、天璃はたとえ神であっても──相手を盤上へと誘える自信があった。
「……あの、神領先生」
「起きたか。阿留多伎なら表彰式で外してるぞ。迎えが来るまで、そこで休んでおけ」
カーテンを開けた天璃が、ベッドから下りようとするのを留め、神領は丸椅子を天璃の近くまで移動させた。
「調子はどうだ?」
「平気です。傷も痛くないですし、視界もはっきりしてます」
驚くほどいつも通りな身体を見下ろし、天璃が不思議そうに目を瞬かせる。神領はそんな天璃の姿を、何とも言えない表情で見つめていた。
「御門。もし、阿留多伎から逃げたくなったら……僕のところに来い。自由とまではいかないが、それなりの手助けはしてやれる」
「どういう意味でしょうか? 私が珠羅ちゃんから逃げる理由なんて、ないと思いますが」
突然の提案に、天璃がピタリと動きを止める。
濃いクマの張り付いた目を向け、神領は雑に括った髪を後ろへと払った。
「なら聞くが、対抗戦の舞台は場外だったな。さらに言うなら、今日の天気は快晴だ。アルビノのおまえが──いつから日光を浴びても平気になった?」




