第六十六滴 決着
生まれてこの方、敗北したことも、何かに怯えたこともない。そんな夏論が、天璃を脅威だと認識した。
初めてとも言える異様な感情に、夏論自身も困惑を滲ませていく。
「負けるっちゅうことを知らん自分には、想像もできへんのやろな」
「……何が言いたい」
「強者やからこそ、視野が狭くなることもあるっちゅう話や」
霊藻が指で示した先には、瓦礫と化した像がある。飛び散った残骸に意識を向けた夏論は、次の瞬間──猛烈な違和感に襲われた。
「領地戦のルールは、相手陣地のキングを破壊することや。せやけどこれは、ルール違反やと思わへんか?」
粉々になったキングの像だが、パズルのピースのように元の形の名残はあった。ふと、散らばった瓦礫の中に盾と思しき欠片を見つけ、夏論が僅かに目を見開く。
「不可侵の領域を犯し、壊してはあかんモンを破壊した。つまりこの試合、うちらの勝ちっちゅうことや」
舞台上の絶対的な守護者。盾を構え、王の前方で敵の進路を塞ぐ役目を持った駒であり、像。
夏論が破壊したのは、キングではなく──クイーンの像だったのだ。
「理解できへんっちゅう顔やな」
「あれは確かにキングの像だった。まさか、私が見間違えたとでも言うつもりか?」
「せや。自分、見間違うたんやで」
あっけらかんとした態度に、夏論の瞳孔が縦に細くなる。鋭い眼光の夏論が、説明しろと言わんばかりに霊藻を睨んだ。
「種明かししてもええが、その前に……」
霊藻の視線が、天璃の方へと向けられた。
とっくに限界を超えているはずだ。話すにしても、天璃の安全を確保してからでなければいけない。
兎々や音夢からも訴えるような視線を送られ、結解が小さく頷いた。
立ち上がった結解が、二年一組の勝利を宣言する。それと同時に、天璃の身体がふらりと斜めに傾いた。
「よく頑張ったね〜」
「……しゅら、ちゃん……?」
「うん。もう大丈夫だから、寝てて良いよ」
天璃を抱きとめた珠羅が、目元を優しく手で覆う。
冷んやりとした体温に心地よさを覚え、天璃はそのまま意識を手放した。
天璃が医務室に運ばれていったことで、周囲の空気がいくらか和らいだ。
霊藻も安堵したのだろう。夏論に向き直ると、事の顛末を語っていく。
「像に関しては単純や。うちの能力で、“キングとクイーンの像が反対に見える”ようにしてん。ほんで、その間に像同士も入れ替えといたっちゅうわけや」
「大層なやり方だな。能力が効かなければ、その時点で終わっていた」
「幻術はうちの十八番やねん。その辺りの能力に関して言うたら、幻想種が相手だろうと問題あらへん」
先祖返りにも向き不向きはある。物理的な力は強い夏論だが、幻術への耐性はそこそこだった。
加えて、霊藻は幻術使いの中でも、最高峰と呼ばれる類の強さを誇っている。
化かし合いに限って言えば、霊藻に勝てる相手はほぼいないということでもあった。
「問題があるとすれば、多人数を取り込むに当たって、距離のある相手には効きにくくなるっちゅう点やな。せやけど、そっちは阿留多伎が何とかする言うてたし、任せることにしてん」
いくら幻術が優れていても、力のある相手を対象に含むほど精度が必要になる。もし未来留が舞台上に残っていれば、像が入れ替わったことに気づかれた可能性も否めなかった。
「そもそも、いつの間に幻術をかけた。貴様は負けを……」
「気ぃついたみたいやな。せや。負けを認める前に、幻術をかけておいてん」
負けを認めたからといって、それまでの効果が消えるわけではない。
針に刺され舞台を降りた朽苑も、巻き込まれ血を流した天璃も。攻撃役のどちらが勝とうと、それまでの傷は癒えることなく残っていた。
「幻術をかけてから、負けを宣言した。それだけの話や。せやかて、敗北を知らへん強者には、思いつきもせん方法やろ?」
夏論は王者だ。誇り高き、空の頂点。
強者だけに興味を持ち、常に頂を狙う夏論が、“負けを利用することで勝つ”という方法に思い至れる訳がない。
「ちなみに、クイーンを斜め前に置いたんは、なるべく視界に入らんようにするためや。まあ、クイーンには目もやらんと思うててんけど、念のためな」
「他のやつらが早々に負けを認めたのも、策の内というわけか」
「攻撃役同士の戦いでは、領地に入られた方が先手を取れるからな。攻めるより守った方が、相手の油断を誘いやすいっちゅうのもあるで」
キングとクイーンの入れ替えについてもそうだ。
一度きりの移動。あの状況で、キングを前方に置くはずがないという思い込みにより、余計に幻術がかかりやすくなっていた。
「そうは言うても、先祖返りにはプライドの高いモンが多いからな。自分から負けを宣言しろなんて、断られてもおかしない提案やったで」
片眉を上げた霊藻が、口の端を緩く吊り上げる。
「梵はともかく、風殿は天璃の頼みやなかったら、引き受けへんかったやろしな」
強者を好む荒牙が、挑みもせず負けを宣言した。つまり、自らの欲求より、天璃の願いを尊重したということだ。
一通り話し終えた霊藻が、正面から夏論を見返す。
「ちゅうわけで、この作戦の大部分は天璃が考えたもんや。弱者と蔑む相手に負けた気分はどうや?」
煽るような問いかけには、友人を傷つけられた怒りと、夏論への冷ややかな感情が含まれている。
初めての敗北は、夏論に味わったことのない感情を与える結果となった。




