第五話 青葉の名(前半)
柔道に続いて始まった剣道の訓練。
竹刀を握った吉川の姿に、繁と晶は思わず息を呑む。
ところが、いざ晶の番になると……。
2027年 10月12日 午後2時40分 訓練道場。
「では、次は剣道だ」
吉川が言った。
繁が目を丸くする。
「剣道?」
「そうだ」
「練馬ではやってませんでしたよね?」
「だからだ」
吉川は笑った。
「同じ訓練ばかりでは、見えるものも限られる」
近藤が記録用紙を確認する。
「確かに、格闘訓練とは異なる能力を見ることができます」
「さすが近藤だな」
「当然です」
即答だった。
繁は苦笑する。
「近藤さん、そこだけは絶対ぶれませんね」
磨き上げられた板張りの床に、五人の姿が映っていた。
「まずは基本からだ」
吉川が竹刀を手に取った。
その瞬間。
空気が変わった。
繁は思わず息を止める。
(……)
さっきまで笑っていた人間とは思えない。
構え。
足の位置。
視線。
すべてが違う。
晶も黙って見ていた。
加藤が小声で言う。
「……吉川さん」
「何だ?」
「何段なんですか?」
吉川は少し考えた。
「まあ……そこそこだ」
繁が首を傾げる。
「そこそこって、どのくらいですか?」
吉川は笑った。
「勝負事はな」
竹刀を構える。
「相手に勝つことより、戦わないことの方が重要だ」
晶がすぐ返す。
「逃げているだけでは?」
一瞬、静かになる。
加藤が吹き出しそうになる。
「晶、お前……」
しかし。
吉川は怒らなかった。
むしろ笑った。
「そう思うか」
「はい」
「なら、見ていれば分かる」
吉川が竹刀を振る。
一歩。
二歩。
無駄がない。
力んでいない。
それなのに、速い。
「……」
繁は目を細める。
加藤も黙った。
近藤は記録する手を止めた。
「……」
吉川が構え直す。
「剣は相手に当てるものじゃない」
晶を見る。
「相手を見るものだ」
晶は真剣に聞いていた。
「分かりました」
「本当に?」
「はい」
晶が竹刀を握る。
「では、黒羽」
晶が前に出た。
「来い」
吉川が構える。
晶は一気に踏み込む。
速い。
だが。
「止まれ」
吉川の声。
晶の動きが止まる。
「力で振るな」
「……」
「剣は相手を壊すためのものではない」
晶は考える。
そして。
「分かりました」
もう一度。
晶は竹刀を振り下ろした。
パァン!
乾いた音が道場に響いた。
折れた竹刀の先が、床に落ちる。
誰も声を出さなかった。
晶は自分の手に残った竹刀を見ている。
「……」
吉川は静かに近づいた。
「黒羽」
「はい」
「今、何をした?」
晶は少し考える。
「力を抜きました」
「どれくらい?」
「かなり」
その答えに、吉川は少し黙った。
「もう一度聞く」
「はい」
「相手を倒すための力を抜いたのか」
晶は答えに詰まった。
「……」
吉川は続ける。
「それとも、竹刀を壊さないために抜いたのか」
晶の表情が変わった。
初めて少し迷う。
「……」
「剣はな」
吉川は新しい竹刀を手に取る。
「強い力を出すことが目的じゃない」
ゆっくり構える。
「必要な力を、必要な場所へ使うものだ」
晶は黙って聞いていた。
「もう一度」
加藤が驚く。
「まだやるんですか?」
吉川は笑う。
「やらないと分からないだろう」
繁が小声で呟く。
「晶が分からないって珍しいな」
「聞こえている」
「聞こえるように言った」
「余計なことを」
二本目。
晶は慎重になった。
構える。
踏み込む。
振る。
パァン!
また音が響いた。
全員が固まる。
晶の手には、また折れた竹刀。
「……」
繁が頭を抱えた。
「晶……」
「今度は本当に力を抜いた」
「だから問題なんだよ!」
加藤が叫ぶ。
「お前の『力を抜いた』の基準がおかしいんだ!」
近藤が記録用紙を見る。
「……」
「どうしました?」
繁が聞く。
近藤は真顔だった。
「計測不能です」
「何が?」
「基準となる対象がありません」
繁は納得した。
「近藤さんでも困ることあるんですね」
「あります」
即答だった。
吉川は折れた竹刀を拾った。
そして、壁に目を向けた。
折れた先端は木の壁に叩きつけられ、床に落ちていた。
一瞬、道場が静まり返った。
晶は首を傾げた。
「……」
「黒羽」
吉川の声が少し低くなる。
「今のは二度とやるな」
晶はすぐに返事をした。
「はい」
珍しく素直だった。
吉川は手元の折れた竹刀を見つめた。
「……なるほど」
「次は木刀の素振りだけでいいな」
少し離れた場所。
加賀はその光景を見ていた。
折れた竹刀。
壁際に落ちた破片。
そして晶の立ち姿。
「……」
加賀の脳裏に、遠い昔の記憶が蘇った。
まだ若く、自分の力を持て余していた頃。
そんな自分を止めた、一人の男。
青葉巌。
(似ている……)
いや。
似ているのではない。
受け継いでいる。
力を抜いたつもりで、竹刀が二本。
晶にとっては真剣な訓練ですが、教える吉川も大変です。
そして、その様子を見つめる加賀の胸には、遠い昔の記憶が蘇っていました。




