第4話【可愛い①】
七月の夏休みに入ったばかりの頃。
「彼女に振られた」
私のベッドにあぐらをかき、頬杖をついては唇を尖らせ、彼はそう言った。
暑い日差しを遮るようにカーテンを閉めきった部屋で、ぶつくさとふてくされるこの男を見て、私の瞼がピクつく。
「そんなこと言うためにわざわざ来たの?」
「そうだけど? 悪いかよ」
悪びれる様子もない態度に毒を吐きそうになる。
「悪いに決まってるじゃん。部屋に、しかも急に来るなんて」
「何度も連絡入れただろうが。それにお前の母親にちゃんと入れてもらってるから悪かねぇだろ」
「夏休みの課題してたんだよ。気付けないって……」
この男――戸津との堂々巡りの会話に、長いため息をつくと机の椅子に座った。
「それで、なんで私に?」
確かに散歩の際に度々相談には乗っていたし、二人の仲が険悪になりつつあるのは知っていた。でも彼はダイエットのサポーターで、仲良しの友達ではないはずだ。
「なんでって、そりゃ」
頬杖から顔を上げると、その目が私を捉える。
「原因は細川だしな」
責任転嫁も甚だしい。頭が痛くなりそうになるのを堪えた。
「それは前にも聞いた。でも話し合うって言ってたでしょ」
「だって、いくら言ってもあいつ納得しねぇんだもん。浮気だ、なんだーって」
『だもん』じゃねぇ、巻き込むな。
心の声が思わず漏れそうになる。
「ていうか、そこまでして無理して散歩に付き合わなくていいのに」
彼女……いや、『元』彼女が少々哀れにもなる。あんな可愛い子が私なんかを浮気相手だと言うなんて、相当屈辱だろう。
「はぁ? 散歩は続けるって言っただろ。蒸し返すなよ、それ」
人のベッドに大の字に横たわる。初めて訪ねてきた者の態度じゃない。
少しは遠慮しろ。
「まあ、それに。別に全部が全部、細川のせいでもないしな」
戸津は天井をぼんやり見つめた。その様子を見るに、それなりにショックだったのだろう。
「私にできることは何もないよ」
少し、冷たく突き放した。なのに、当人は急に座り直すと、不敵な笑みを浮かべる。
「それがあるんだよな」
これ、とスマホを見せてきた。
「花火大会? 学校の傍の……」
「そ。元々彼女と行く予定だったから、男友達の誘いも全部断っちまってたし。今更、俺も行くって言いづらいだろ」
「はあ……」
思わず目を細める。
「ずっと行ってみたかったし、とはいえ一人だと浮くし、せっかくだから一緒に行こうぜ」
夏らしいことは少しはやらないとな、と彼は独り言のように放った。
「やだよ」
「は?」
戸津は即答した私に驚きを隠せないのか、動きが止まる。
「だって人混み嫌いだし。戸津と行く理由が私にはないし。それに……」
そこまで言いかけて、言葉に詰まる。
「なんだよ?」
戸津の声色から、不機嫌になっているのが分かった。
「その……皆の迷惑だから。私がデブで、邪魔だから」
後半は蚊の鳴くような声しか出せず、言い終わると唇をキュッと結ぶ。
空気が冷たくなる気がした。
「お前、本っ当ネガティブ。やめろよそれ」
どうやら戸津の癇に障ったようだ。眉をひそめている。
「頑張ってるんだから、もう少し自信持てよ」
そんなこと、何の意味もない。
心の中で言ってみた。
体重が減っていたとしても周りからすればまだただのデブだし、きっとそんな単純なことも彼には分からない。
「とにかく、嫌なの」
言い放つと彼は黙った。
しばらくお互い沈黙を守り続け、息苦しくなる。カーテンを開けて空を見上げた。雲一つない夏晴れだ。どこまでも青く鮮やかに続いている。
「よし、分かった」
窓の外を見ていた私に、唐突に彼は一人で納得する。
「やっぱり行こう、花火大会」
「え、聞いてた?」
あまりに的外れな返事をされ、思わずツッコんでしまった。
「結構歩くし運動にもなるしな。俺と二人が嫌なら『お兄さん』とかも誘ってみたらいいだろ」
それを聞いて、ピタリと後ろ向きの思考が止まる。
「え? それ本気?」
「なんだ。それでも嫌なのか?」
嫌……じゃない。むしろ、それなら三人でもいい、行きたい。戸津の提案に断れなくなる。
「ま、聞いてみろよ」
彼は勝ち誇って笑った。
◆
花火大会当日。
「うーん……これじゃない」
着ていたズボンとシャツを脱ぎ捨てた。床には不採用になった服の残骸が散らかっている。ベッドの上から残りの服を手に取る。
「これかなぁ」
鏡に映る姿に妥協する。
紺色のロングスカートは太い足を隠してくれているが、オレンジの細いボーダーがいくつか入った白のTシャツは、飛び出たお腹のせいで段を作っていた。スカートの下には股擦れ防止のレギンスを着用済みだ。
普段しない化粧も、百円ショップの安物の化粧品しかなくて、それでもないよりマシかと指先を震わせながら何度かやり直した。一見すると化粧をしてるのか分からない程度にしかできなかったが、いつもよりは全然良い……とは思う。
髪は下ろしてみる。胸より少し上くらいになっていた。
「暑……」
エアコンがついていても汗をかいて髪が肌に張り付く。それでも傷みは少なく、ストンと落ちるおかげで顔の丸みを抑えてくれていた。
鞄と靴も決め、早すぎる準備を終えるとベッドに横になった。天井がいつもより広く見える。
楽しみだなぁ……
枕を強く抱きかかえる。
お兄さんとおでかけ。花火大会に誘いすんなりオーケーをもらえた時のことを思い出しては、衝動を抑えられなくなって強く枕を叩いてしまう。
「そうだ。戸津に服装の意見をもらおう」
普段なら絶対しない思考回路だったがこの時は疑問も持たずに、すかさずベッドの上で座り込むとスマホを手にする。
返事はすぐきた。
『そこは浴衣だろ!』
あ。そうか、その手があった。でも……
『私が着るとお相撲さんみたいになるんだもん』
すぐに既読がついたが、しばらく間があった。
『なんかごめん』
その一言で一気に聞く気も失せ、スマホを掛け布団に放った。
「別にいいし。お兄さんは見た目だけで決める人じゃないし……」
デートでもなんでもないのに、自分に言い聞かせるように口にする。
少しだけ気分が沈んだものの、それでも今か今かと時計を確認し続けた。
そして出かける三十分ほど前に唐突にお兄さんから連絡がきた。
『一緒に駅まで行かない?』
あまりに突然だったので一度スマホを落としかけた。お兄さんからのお誘い……ではないと分かっていても胸が高鳴った。
『行きます!』
慌てて返事をする。
『僕はもう準備できたよ。優奈ちゃんはどう?』
『私も準備できてます!』
『そっか。それなら少し早めに行って一緒に飲み物とかスーパーで買わない?』
『はい!』
『じゃあ今から迎えに行くから待っててね』
このやりとりはほんの数分だったが、途中から枕を思い切り抱きしめていた。胸の奥のキュンキュンが止まらない。
お兄さんを好きになって、自分に自信がないせいか辛い思いは何度かした。それでも今は好きでよかったと何故かそう思えて仕方ない。
一年後、万が一にも付き合えたら……そんな幻想に憑りつかれまいと枕を離して、座り直し深呼吸をした。
「これは、デートじゃない」
そう自己暗示した直後に、スマホが振動する。
『家に着いたよ』
ああ、やっぱりにやけてしまう。
鞄を手に取り、早足で玄関へ向かった――
「あれ、やけに早いな。まだ十分前だぞ」
改札口手前の待ち合わせ場所で、買い物も終わりお兄さんと話していると、Tシャツ短パン姿でうちわを扇いでいた戸津に声をかけられた。白い長ズボンとシャツに、軽く羽織り物をしているお兄さんと対照的な姿だった。
彼は私達が楽しげに話していることなんてまったく気にしてない。
空気読めよ! なんて今は心の中で思うだけにしとく。
「戸津くん、だよね。こないだスーパーで会ったよね」
「お、おう。えっと……」
「関根智幸です」
「関根……さんね、了解。よろしくお願いします」
いつもの感じとは違う改まった戸津を見ると吹き出しそうになった。
「なんだよ」と少しふてくされた戸津と、常ににこにこしているお兄さん。本当、対照的だ。
「なんでもないよ」
「そっか? そういや……」
戸津が私の足元から頭の先までさっと見渡し、
「いつもと感じ変えてきたなーさすがに」
と、突然言い放った。
「ちょ!」
驚いて私は戸津の腕を掴む。
「やめてよ、お兄さんの前でそういうこと言うの」
歯ぎしりしそうになりながら耳打ちする。
戸津は「いいじゃん、別に」とだけ言って、私の手から逃げると改めてまた発する。
「いつもと雰囲気違うって言っただけだろ」
どうしてこいつは、こうも……
恥ずかしくて俯いていると、頭の上にポンと温かみのある手が乗せられた。
「可愛いよね。優奈ちゃん」
そして二度三度ポンポンと頭を叩かれる。
「何も問題ないよ。ほら顔上げてごらん」
彼に促され、顔を上げた。朗らかに笑うお兄さんと、その後ろで腕を組んでにやついている戸津が目に入った。
戸津、いつか殺す。
「うわ、めっちゃ人いるなあ……」
戸津のそんな独り言にこの時ばかりは心の中で同意した。電車に乗ると周囲との距離は近く、軽く触れてしまうくらいだ。考えることは同じなのか、浴衣の人もちらほら見かける。なるべく人の邪魔にならないようにと体を小さく丸めた。
汗の臭いとか大丈夫かな……
お兄さんと、ついでに戸津がすぐ近くに立っているから、自分の体臭が気になって仕方ない。
なのに、お兄さんはそんなことを気にする素振りもないどころか、どんどん乗り込んでくる人の波に飲まれないように私を庇うように立ってくれた。彼の体温や息遣いが分かるくらいの距離になると、私の心臓の音は速くなってもっと体が熱くなっていく。
「あの、お兄さん、大丈夫?」
「ん? 大丈夫だよ。ありがとうね」
大変なはずなのに、おくびにも出さないで微笑みかけてくれる。
……あまりの尊さに今日死んでしまうかもしれない。
しばらくその状態が続き、目的の駅に辿り着くと人の塊が一斉に降りた。お兄さんは一瞬だったが私の手を取り、はぐれないようにと握ってくれていた。
「大丈夫だった?」
少し深呼吸している私を見て、彼は尋ねてくる。本当に優しい。
戸津はというと、少し離れたところに押し出されていた。
「おい、お前達な……」
戸津は合流すると小さなため息を一つ吐いた。
今日のことは戸津には感謝しないといけないだろう。
胸が弾む。
けれどそれもそう長くは続かなかった――




