第2話【嫌い①】
月曜日の朝が来た。憂鬱だった。
あの日から戸津と通学時間でさえも顔を合わせたくなくて、早い時間に家を出るようになった。あんなやつのせいで眠くてたまらない。
顔を洗い、洗面所の鏡に映った自分の顔を見て、思わず目を逸らした。
……なんで、こんな顔なんだろう。
頬も、顎も、瞼も重たい。この顔が、嫌い。見た目が嫌い。
髪も顔を隠すために伸ばしていたが、髪の毛が肌につくとニキビができてしまうため結局後ろで一つにくくっていた。
分かってる。戸津が全部悪いわけじゃない。
――身長一六〇センチ、体重九三キロ。
数字にすると、余計惨めになる。
ダイエットだって、何度もやった。でも、その度に失敗した。
大学にだって入りたいし、勿論その後は社会人にだってなる。男と関わらないで生きていくなんて無理なんだ。
それに――
身支度を終えると手帳を開く。学校が始まってちょうど一週間。今日の日付に丸をつけてある。
週に一度の楽しみ。『お兄さん』が来る日だ。
勉強を見てくれる、近所に住む六つ上の関根智幸さん。優しくて、悩みごとにもよく付き合ってくれる。男の人は苦手だけど、お兄さんだけは違う。私が小学校の時にいじめられていたことを知っているのも、春ちゃんとお兄さんだけ。
私の……特別な人だ。
先週は勉強というよりも、ほとんど戸津の相談をしていた。それだけでも少し気が楽になった気がする。
やっぱりお兄さんはすごい人だ。
手帳から顔を上げて時計を見る。
「あ、やば」
荷物を手にすると学校へ向かった。
それから今日もいつもと変わり映えのない一日が過ぎていった。ただ一つを除き。
「おい、戸津。お前彼女できたんだって?!」
放課後、帰り支度を始めていた私の横で男子達が騒ぐ。
うるさすぎる。
戸津のことなんか何も知りたくないのに、私の横で男子達が彼についての情報を漏らしていく。
彼は水泳部に入り、そのマネージャーの女子と付き合いだしたらしい。同級生の細身で可愛い女の子だ。
私には関係のない話。
荷物を持って彼らの言葉に背を向けて教室を後にする。校門を出てスマホを確認するとお母さんからメッセージが入っていた。
『今夜はカレーにするから具材買ってきて。ルーとじゃがいもと人参よろしく』
最後ににっこりマークがついており、私はそれに『了解』と返事する。通学には地元のスーパーの前を通るので、学校帰りにこうしてよくお使いを頼まれる。
その後にお兄さんにメッセージを送った。
『スーパーに寄ってから家に帰ります』
しばらくして電車に乗った頃に、お兄さんから返事が来た。
『何時頃、駅に着くの?』
それに返答すると、
『僕も今、大学帰りなんだ。その頃駅に着くから一緒に買い物して、それから家に行こうか』
と返事がきたもので、思わずにやけてしまった。
いけない、いけない。緩んだ頬を元に戻そうとして、静かに深呼吸をした。
が、ここで不愉快な物を見てしまう。
少し離れた所に戸津と水泳部のマネージャーが乗っていたのだ。向こうは私には気付いていない。
絶対に見付からないようにと車両を移動した。
最後の駅に着くと戸津はそのまま改札を抜けていった。ホッとして後から改札を抜ける。
辺りを見回すと、栗色の短髪で、紺色のジャケットを羽織った姿が目に入った。
「お兄さん!」
「あ、優奈ちゃん」
スマホをいじっていたお兄さんが声に反応して私の方を振り向く。少し垂れ目の優しい笑顔が眩しい。それだけでさっきまでの不快感は消え去った。
……優しい。かっこいい。
目的地に着くまでの道すがら、学校での勉強内容や、戸津に彼女ができたことなどを話した。お兄さんはうんうんと頷いて聞いてくれる。聞き上手ってまさにこういう人の事を言うんだろう。
スーパーに着くとお母さんに頼まれた食材を揃え、会計しようとしてお財布を出した所で、彼は私の財布に手で蓋をした。
「え?」
「今日は出すよ。いつも夕飯ごちそうになってるしね」
「えっダメダメ。お母さんに後で請求できるし。いいって」
お兄さんは家庭教師が終わった後にいつも家で夕飯を食べていく。そのことを言っているのだろう。
「いいの。前回も家庭教師としての働きはできてないからね。相談に乗ってただけだし」
確かにバイト代としてお兄さんに給料は出ている。だけど前回の相談の時間は私にとっては大切なことで、決して無駄ではない。
「たまには大人らしいこともさせて」
彼は笑いかけてきて、私の制止も聞かずに会計を済ましてしまった。
「あ、ありがとう」
困ったように笑うと「気にしないで」と頭を撫でてくれた。撫でられた所が熱を帯び、顔が熱くなるのを感じた。
赤くなってないよね? バレてないよね?
最高に幸せだった。
あいつが現れるまでは……
「あれ? 細川?」
戸津――
一気に地獄に落とされた気がした。
もしかして見られてた?
無意識に表情が変わったのだろう。
お兄さんが気付き、
「大丈夫?」
と、こっそり尋ねてくる。
「なんだ細川、彼氏いたんだな?」
驚いた、と付け加える。私に彼氏がいたらおかしいかのように彼は笑う。カッと頭に血が上り、恥ずかしさと悔しさから顔を伏せた。
戸津の言葉を無視して、お兄さんの手を引いてスーパーを後にした。彼が追いかけてくることはなかった。
「もしかして、彼が例の?」
お兄さんがしばらく無言で歩く私に心配そうに尋ねてくる。
「そう。彼が、戸津龍介」
引いていた彼の手をぐっと握り締めると、ハッとして慌てて手を離した。
「ご、ごめんなさい」
「ん? いいんだよ」
いつものように笑いかけてくれる姿が安堵感を与えてくれる。
優しい。私なんかの手も嫌がらない。
「さ、家に行こうか。今日はちゃんと勉強するからね!」
「うん!」
忘れよう。あいつのことなんか。




