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第13話【大切な人②】

  ◆



 ふと時計を見ると想像以上に時間が経っていた。


「しまった!」

 慌ててスマホの画面をつける。


『玄関前にいる』

 と、三十分前に一通だけ戸津からメッセージがあった。


 もういないかもしれないけれど、返事をするよりも直接行った方が早い。慌てて動ける服に着替え直す。


 こういう日に限って両親が仕事で家にいない。いつもならお母さんが夕食の時間に声をかけてくれるのだが、年度末ということで最近はこの時間家にいないことが多い。作り置きされていた夕食を食べる時間は今はない。『先に散歩に行ってくる、帰ったら食べる』と念のためメモを残した。


「よう」

「あ」


 玄関前の道路でヤンキー座りをしてスマホをいじっている戸津がいた。

 三月と言えどまだ夜は冷えるのに。ずっと待っていたのか。


「ごめん。気付かなくって。もういないと思った」

「……行くって言ってただろ。だからいただけ」


 戸津は立ち上がると「そんでさ」と、言いづらそうに目線を外して言葉を詰まらせた。何を言いたいかは分かっている。


「あー……あはは。うん。あのね、やっぱり振られたよ」

「そっか……」


 私も彼も言葉を探す。


「……あ。でもね『もう僕がいなくても大丈夫だね』って言ってくれたから、ある意味、安心させるっていう目標は達成したのかな?」


 笑ってみせた。


 間違ってはいない。きっと本当にそう思ってくれたんだと思う。

 でも改めて声に出すと、目の奥から熱いものがこみ上げてくる。また顔面の筋肉に力を入れる。多分さっきもこんな顔をしていたと思う。



「あのさ、私……今笑えてるよね?」



 そう戸津に確認すると、急に睨まれて手を引かれた。


「へっ?」

「来い! 散歩中止! カラオケ行く!」

「え、ちょ。そんないきなり?!」


 そこからは何を言っても返事をしてくれず、無言で近場のカラオケ屋にズンズンと進んでいく。その間、戸津は絶対に私の手を離さなかった。握った瞬間の彼の手は氷のように冷え切っていて、ずっと外で待っていた時間の長さが伝わってきた。その冷たさが心を刺して、安易にそれを振り払うことは今の私にはできなかった。


 あれよあれよとカラオケ屋に着き、部屋に通され、戸津は私の肩を掴んで座らせたかと思うと、即座にフリードリンクのお茶を二つ持ってそれを机にドンと置いた。


「よし」

「ええ?」


 あまりのことに困惑していると、彼も椅子に座り、私の方を向き直る。


「いいか。よく聞け。確かに俺は笑えって言った」

「う、うん」

「でも今は違うだろ。辛いときはどうするんだよ」


 それを言われて、胸の奥が詰まる感じがした。


「そ、それは……」

「お前が、最後にあいつに笑顔を向けたい気持ちは分かった。でも俺はあいつじゃない。だから笑いたくもないときに、笑わなくていいんだ」


 戸津が私の肩を掴んで、真剣な眼差しを向けてくる。顔を背けたくても背けることができない。


「はは……大丈夫だからさ。ねえ、戸津。せっかくカラオケ来たんだから、歌お……」

「辛いときは辛いって言えよ」


 怒気を含んだその声にびくりとした。


「そんなこと言ったって……」

 肩を掴んでいる戸津の手をやんわりと引き剥がす。


「私が泣いても『嘘泣きだ、ブスが更にブスになる』って笑ったの、戸津じゃん」

「……っ」


 戸津の言葉が止まる。


 今までだって、戸津の前で何回も泣いてきた。でも今日のそれと今までのそれはわけが違う。


 お兄さんを思うと、過去の辛い記憶も一緒に引き出される。どう頑張っても切り離せないんだ。


「笑えなくなったの。泣けなくなったの。私の一挙一動を誰かが評価するって分かったから。そんなときにずっと変わらず支えてくれたのがお兄さんだったの。お兄さんの前でなら笑ってもいいんだ、泣いてもいいんだって。でもずっと泣いてたら、お兄さんが安心できないでしょ」


 奥歯を食いしばった。一生懸命に笑顔を作った。


「ねえ、今私は笑えてる?」


 そう問うと、彼は鋭い目つきのまま、涙が零れた。


「ごめん。本当にごめんな。ごめん……」


 戸津が私の両手を握った。その手は震えている。


「なんで戸津が泣くのさ……」

「……なんでかな。分かんねぇ。本当にごめん。俺、許してなんて言えない。……許さなくてもいい」


 彼の鼻の啜る音が小さい部屋に響く。しっかりと手を握る彼の掌が、火照るように熱くなっていた。私の冷たくなった手に彼の温度が移る感覚がした。


「俺が全部間違ってた。ああ言えば、皆が笑うと思ってた。面白いとさえ思ってた。言われた側の気持ちなんて、全然考えてもいなかった。こんなに傷付けることなんだって、全然分かってなかった」


 だから、と戸津は言葉を続ける。


「俺じゃなくてもいい。斎藤さんでもいい、辛いときは辛いって言ってくれ。今だってお前、泣きそうなのに……」


 戸津の言葉一つ一つが胸の奥の詰まりを取り除いていく。


「……笑うなよ。頼むよ」


 堪えきれなくなった私の涙がポタポタと、私の手を握る彼の手の甲に落ちた。

 せっかく我慢していたのに。泣かないって思っていたのに。


「男子なんか大嫌いだった……」

 体が震えてくるのが分かった。


「なんで太ってるだけであんなこと言われないといけなかったの? 私、あんな達になんかした? 酷い言葉を浴びせさせられるほど何かした? 毎日辛くて、中学行っても怖くて、電車の中だって男子が笑っているだけで私のことだと思っちゃうの。辛くて、学校なんか行きたくなかった。でも前に進みたかったの」


 目の前の男子を罵る言葉が止まらない。ボロボロと胸に詰まっていたものが言葉と涙で次々に溢れ出てくる。


「でもお兄さんは違った。ずっと変わらなかった。太っていても、絶対にけなしてこなかった。優しくて、何かあると傍にいてくれた。大好きだったの。妹扱いされているって気付いてても、大好きだったの。ずっと一緒に……」


 声に出して気付いた。これは八つ当たりだ。戸津からは、精一杯の謝罪をもう貰ってるはずなのに。


 私の気持ちは、本当は――



「お兄さんとずっと一緒にいたかった。振られたくなんかなかった……!」



 我慢していたものを声にして大声で泣いた。


 悲しくてたまらなかった。覚悟なんかなかった。遠くに行ってほしくなかった。

 辛いときも楽しいときも、小さい頃からずっと近くにいてくれたのに。少し前までは一緒にいて当然だって心のどこかで思っていたのに。大好きで大好きで、大切な人だったのに。


「振られちゃった、遠くに行っちゃった。私これからどうしたらいいの……」


 泣いている間、戸津は何も言わずに終始私の手を握ってくれていた。ただ黙って私の泣き言を聞いてくれていた。




 ――それから、どれくらい泣いたのか分からない。汗拭き用に持ってきていたフェイスタオルも鼻水と涙でぐしゃぐしゃになってしまっていた。泣きすぎて、涙が引くと少し我に返る。戸津に酷いことを言ってしまった。彼を直視できない。

 タオルで顔を覆う。


「ごめん……あんなこと言うつもりなかったのに」


 覆ったまま、グシグシと鼻を啜る。

 返事はなかった。ただ戸津の手が、顔を覆っていたタオルにかけられた。


「ちょ、顔今酷いから……」

「……いいよ、そんなの」


 彼の声も鼻声で、驚いてそのままタオルを引き剥がされる。彼の目は充血して、瞼が腫れていた。


「あ……」

 言葉を発しようとしたが、戸津は首を振った。


「あのさ……」

 戸津は言いかけて、詰まる。何か言葉を探しているようにみえた。それでも、私から視線は外さない。


「お前の大好きなお兄さんの代わりは誰にもできない」

 彼は一つ一つ、ゆっくりと模索してる様子で言葉を発する。


「でも、お前のことを大切に思ってる奴はお兄さんだけなのか」

 そう言われて、全身の毛が逆立つ感覚がした。一瞬で、目の前が急に開けた気がした。


「あ……」

「お前の両親。斎藤さん。女友達。沢山いるだろ」


 それに、と小さく続ける。


「信じてもらえないかもしれないけど……今は俺も大切だって思ってる」

 真っ直ぐな瞳で訴えかけられた。

 他意はないだろうけど、急に言われて顔が熱くなった。


「な、何。びっくりする……」

 笑ってごまかそうとすると、まるで「黙れ」と言わんばかりに鋭い目でこちらを見つめてきた。


「別に……俺じゃなくてもいいんだ。ただ一人で、もう抱え込まないでほしい」



 私は、馬鹿だった。こんな真剣に言ってくれているのに、また笑ってごまかそうとしたんだ。



 それは今に始まったことじゃない。両親にだって。春ちゃんにだって。他の友達にだって。思えば、真剣に私を心配して、真剣に話を聞いてくれていたのに。いつだってごまかして生きてきた。お兄さんにしか分かってもらえないと勝手に自分で線を引いていた。大切に思ってくれる人達を私が勝手に遠ざけていたんだ。前も同じことをしたのに……私は懲りずに何度も何度も繰り返している。


 それを知って、止まった涙がまた溢れた。


「私……」


 でも不思議と、さっきまでの涙と違うのが分かる。


「いっぱいいたみたい。支えてくれてた人達」


 お兄さん、私はもう大丈夫。


「戸津も、ありがとう」


 今度はちゃんと笑えたと思う。

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