第13話【大切な人①】
三月上旬。お兄さんの北海道への引っ越しが、十日後に迫っていた。
お風呂上がりに恐る恐る体重計に乗る。
「や……」
思わずガッツポーズをとる。
「やった!」
その数字は七三キロと書いてあった。約一年前、ダイエットを始めたのが九三キロで、ちょうど二十キロ減量した。こんなにちゃんと痩せたことはなくて、身震いするほどだ。とは言え、まだ太ってる部類なのは間違いない。でも、やればできるという達成感はこの上なかった。
鏡で見ても、明らかにお腹はへっこんでいるし、足やお尻も小さくなったと思う。何より服のサイズが二から三サイズほどダウンした。頬の肉で小さく見えていた目は、一回り大きくなったようにも見える。
最近はでかけるのも楽しくなってきたし、運動自体も好きになってきている。体育の時間も大嫌いだったのに、今は前よりも少しやる気が出る。
それもこれも全てはお兄さんに気持ちを伝えたいというところから始まった。
鏡に向かい念入りに基礎化粧品を使う。
あと十日間。体重を増やさない、肌のお手入れ、服を新調して、美容室行って、それと……
「それと……」
深いため息をついた。
お兄さんは優しい。
私が太っていても、痩せていても、多分それはずっとそうなんだろう。今、こうやって痩せていっても、おめかしをしても、きっと彼にとっては見かけは関係ないのかもしれない。
鏡を見て、一年前より『多少』マシになった自分の姿を目にしては、またため息をついた。
私だって分かっている。痩せるのは自分に自信をつけるためだって。事実、少しだけ前向きになっていると思う。前よりもクラスの男子と話せるようになってきたし、笑うのも以前よりは怖くなくなってきた。
ただ、一番の願いである『お兄さんに今の私を見てほしい』は叶うのかな……
パジャマに着替えて部屋に戻ると、ベッドに横になった。ポチポチとスマホをいじる。
戸津なら今の私の気持ちを聞いたらなんて言ってくるかな。
馬鹿だなって?
自信持てって?
それとも笑えって?
今日まで何度か聞こうとした。ただ何故だか聞いてはいけない気がして聞けていない。
長く息を吐いて体を起こすと机に向かった。よりによって学年末試験が告白前にある。いや、ある意味考えすぎなくてちょうどいいのかもしれない。
顔をパンと叩き気合いを入れた。
◆
試験が全て返された。事前に勉強を進めていたおかげで、それなりの成績は取れていると思う。お兄さんにもずっとお世話になっていたし、この成績なら見せても恥ずかしくない。
休み時間に安堵していると、戸津が成績表の用紙を手に、ニヤニヤしながら私の席に寄ってきた。
「成績爆上げ」
彼の成績表を見せつけられる。軒並み全ての科目で順位が上がっていた。
「よかったじゃん」
「マジで感謝しかないわ」
それから少し周りを見回して人が少ないのを確認してから声のボリュームを落として
「また今日か明日辺りにカラオケ行くか?」
と、尋ねてくる。
大声で失礼なことを言っていたこいつが、少し成長を見せている。
「ほら、俺ら文理分かれちまうしさ」
戸津は医学部志望で理系コース、私と春ちゃんは文系コースなので高二になるとクラスが別れる。ついでに橋本も文系らしいが、こいつは同じクラスになりませんように。
「カラオケ……行きたいんだけど、ねぇ?」
苦笑して言葉を濁した。
「なんだ、予定あるのか?」
「予定っていうか。その、明日はほら、終業式終わった後さ……」
俯いてごにょごにょと言う。
「あ、なんだって?」
戸津が私の口元に耳を持ってくる。
「だからその……明日、告白するの」
小さな声で耳打ちすると、戸津の表情から明るさが消えた。
「……そっか。ついに明日なんだな」
「うん。明日の夜の飛行機なんだって。終業式終わるまで待ってくれるみたいで……だから急いで帰って準備しないと」
「……応援いる?」
「ははは、いらないよ。大丈夫。春ちゃんにも同じ心配されちゃったけど」
不安を精一杯隠しながらいつも通り笑ってみせた。
「明日、散歩はやめとくか?」
「いや……泣いても笑っても、ダイエットは続けたいんだ。だから、明日こそ、一緒に歩いてよ」
「オッケー」
戸津は私の頭に手を乗せた。お兄さんの手と同じようにそれは温かかった。
「ま、気張るなよ」
◆
翌日。終業式が終わりホームルームも終わると、急いで家に帰った。帰り際に春ちゃんに「頑張れ」と背中を軽く叩かれた。戸津の姿は見えなくて、でも彼を気にする暇もなかった。家に戻ると、予め決めていた服を着て、髪を整えて化粧をする。そうしているうちにあっという間に日も落ち始める。
もう来ちゃう。
準備は全部終わったものの、残りの数十分で告白しないといけない現実にそわそわした。お兄さんも忙しくて、でかける余裕はない。だから今日は私の部屋で少しだけ話したいことがあると、それだけ伝えている。
やることをやってベッドに座る。手足が冷たい。不安で体が震えてくる。
怖い怖い怖い。
答えなんて分かっている。それなのにこんなに怖い。
「期待するな期待するな期待するな……」
無意識に貧乏揺すりをしてしまう。
良い返事が貰えるなんて万が一もない。でもその万が一にしがみつきそうになっている自分がいる。
これは『けじめ』なんだ。上手くいくための告白じゃない。私が前に進むために必要なことなんだ。
でも。でも……
「振られるための告白って……何?」
声に出して泣きそうになる。
今は泣いたらダメだ。化粧も崩れる。お兄さんはきっと気付く。心配させるに決まっている。どんな結果でも彼を笑って見送ると決めたんだ。それが彼のためにできる最大限のお見送りだ。
お兄さんを安心させるんだ。
奥歯を食いしばって深呼吸をする。
「覚悟を決めろ、私」
――ピンポン。
玄関のチャイムが鳴った。
お兄さんに部屋に来てもらうと、いつもの位置に座ってもらい、私も隣の定位置に座った。取り急ぎ、学年末の結果を見せた。なんてことない会話なのに、成績表を見せている手の震えが止まらない。もう片方の手で一生懸命震えを抑えようとしているけれど、あまり意味がなかった。
「私、お兄さんと同じ大学目指してみるんだ」
「そうなんだね。この成績なら優奈ちゃんなら大丈夫だよ」
「まだまだこれからだよ」
他愛もない話。笑おうとしているけれど、顔は引きつるし、声は震える。
「お兄さんも、新しいところ行って大変かと思うけど、無理しないでね。応援してるから」
明るく、笑顔で。
「ありがとう。じゃあ何かあったら優奈ちゃんに頼ろうかな」
「あはは、私で良ければ!」
肝心の話題が切り出せない。口元が歪む。
「それで……」
お兄さんが私の意図を組んだのか、ゆっくりと言葉にする。
「『優奈ちゃんは、大丈夫?』」
「……!」
涙が出るかと思った。向けてくれる優しい瞳はもうこれからは簡単に見ることはできないんだ。
目と口の周りの筋肉に力を入れた。
笑え。笑え。
「私ね、この一年間すっごくダイエット頑張ったの。なんと二十キロも痩せたんだよ」
彼は笑顔のまま、静かに頷いてくれる。
「そしたら、色んな事が良い方に動き出したの。少しずつ男子とも話せるようになってきたし、前みたいにずっと俯いてビクビクする必要もなくなってきたんだ」
笑え。
「なんでこんなに頑張れたと思う?」
「……うん、なんでかな?」
分かっているはずなのに、お兄さんはゆっくりとした口調でその先の私の言葉を待ってくれる。
窓の外で夕焼け小焼けのチャイムが鳴った。
「お兄さん、私……」
笑え、私。
「ずっと好きでした。私はもう大丈夫だよ!」
そう伝えたかった、と小声で付け足した。
堪えきれなかった涙が少しだけ頬を伝った。
彼は私の涙を温かい指で拭った。
「ありがとう」
安心したような、寂しいような、そんな瞳がじっと私を見つめて微笑んだ。
「優奈ちゃんはもう僕がいなくても大丈夫だね」
「……っ」
急いで目元を拭った。
これ以上はダメだと悟った。
「お兄さん、飛行機の時間あるから。もう行って!」
立ち上がると、彼の腕を掴んで立たせた。
「帰ってくるときはお土産、待ってるね」
「うん。分かった。その時は連絡するね」
お兄さんは私の頭をいつものように一撫ですると「またね」と去っていった。
部屋に残された私は、近くにあったティッシュで鼻をかんだ。
「よし、泣いてない」
泣いてないし、泣かないし、多分笑えてた。これでよかったんだ。
ベッドに座った。
全身の力が一気に抜け、そこからしばらくの間、ボーッと宙を見つめていた。




