第7話【ごめん】
「えーと、つまりこの方程式を使うってことは……こうか?」
「そう、そこを二乗して」
「ああ! なるほどな!」
恒例になった週に一度の勉強会。人目もあるので、戸津を自分の部屋に呼んで教えていた。
家庭教師の翌日に、同じ内容を復習がてら教えているのでどちらかというと私の勉強でもある。
「ということは、次の問題はこうだな?」
「ええ、飲み込み早……」
最近、勉強を教えながら戸津が大学受験のライバルでなくてよかったと胸を撫で下ろすことが増えてきた。外部生としてこの高校に入学してきただけのポテンシャルはやはりあるのだろう。
「こんなにできるなら、単なる勉強不足じゃない?」
「はあ? ちゃんとやってるけどな」
「じゃあ勉強の仕方を知らなかっただけ」
そう言って、問題集のページをめくった。
「お前、最近容赦ないな」
彼は苦笑いを浮かべるが、またすぐに問題と向き合った。
なんだかんだ、やっぱり真面目なんだよなぁ。
戸津の横顔をちらりと見た。眉間にシワを寄せたり、分かったときに少し目を輝かせたり、そしてすぐまた目を細めて今にも舌打ちしそうな表情をしたり。コロコロと変わるそれをつい目で追ってしまう。
『医者になるって約束した。もう死んで、そいつはいないけど……』
ふと、戸津の言葉を思い出す。
小学校でそんな噂話は聞かなかったので、おそらく中学の時のことなのだろう。中学でハブられたって話は聞いたけど、それと何か関係があるのだろうか。
彼が医学部を目指す理由、そしてここまでして私のダイエットに付き合う理由が、なんとなく繋がっているのではないかと勘繰ってしまう。
「ん? なんだよ?」
私の視線に気付いたのか、彼は走らせていた手を止めた。
「えっ? あ、ごめん」
「じっと見つめちゃって、まさか俺に惚れた?」
彼はニヤニヤと笑って口元に手をやる。
「そんなわけないでしょ」
真顔で返事をすると戸津は笑った。
最近、特に勉強会を始めてから、このやり取りがたまに行われて鬱陶しい(うっとうしい)。
またペンを走らせている戸津の横で、私は小さなため息をつき、思い切って聞いてみることにした。
「あのさ、戸津。聞きたいことがあるんだけど」
少し落ち着かなくて、ペンを回しながら尋ねた。
「おう、答えられることならなんでもどうぞ」
ノートと向き合いながら彼は答える。
聞いていいのかなと一瞬過ぎるも、なんでもどうぞと言ったのだからと口を開く。
「以前言ってた医学部を目指す理由って、もしかして私のダイエットに執着する理由と何か関係ある?」
私の問いに、彼はピタリと手を止めた。
「それ、聞きたいか?」
顔を上げて、怪訝な目つきで見てくる。
「いや、まあ……気にはなるけど。話すの嫌ならいいよ」
思わず目を逸らす。
昔に比べ言いたいことは言えるようになってきたし、彼に対する嫌悪感は薄れつつもあったが、こういう不機嫌な感じはまだ苦手だ。
小学生の時の戸津に口答えをすると、彼はよくこう言った。『デブのくせに』と。
しばらく黙っていると彼は長く息を吐いた。
「はぁ。言うよ。別にそんな隠すことでもないしな」
彼もペンを一度回すと、それを机に置いた。
◆
小学校を卒業すると親の都合で地元を離れ、県外の少し田舎の中学に通うことになった。
周りはほとんどが顔見知り状態で、俺が入り込む余地もなく、話しかけてもどこか皆よそよそしかった。
「なあ、サッカーするのか? 俺も入っていいか?」
「あー……うーん。ははは」
曖昧にされて、笑いながら去っていく。こんなのが日常茶飯事だった。
「なんだあいつら」
最初はそうやってただ相手の行動に批判を並べた。しかし一月二月と時間が経つに連れて、孤立は深まっていった。
どうやって友達って作るんだっけ……
教室で一人で突っ伏して、楽しそうにお喋りをするやつらを見る。
俺、なんかしたか?
そう、一人で鬱々としていると、目の前に影が落ちた。
「龍介くんだよね?」
「あ?」
顔を上げると、背の低い、まん丸な顔で柔和な笑みを浮かべた男がこちらを見ていた。
あー。こいつ。確か……
「あ、急に話しかけてごめん。僕、ケンジっていうんだ」
「知ってるけど……」
頭を起こして、少し引き気味にケンジを見た。
デブだ……
少し目を細めた。
「それで?」
俺が怪訝な目で見てもケンジは嫌がる素振りも見せずに、にこにこと笑っている。
「あ、あのね。よかったら僕と友達になってくれない?」
「え……?」
急な申し出に耳を疑った。
誰にも相手にされない俺と?
怖ず怖ずと彼はスマホを手に取り、待ち構えている。
「もし龍介くんが嫌じゃなければ、一緒に遊ぼうよ」
どんよりとした教室の空気が一気に眩しくなった気がした。
それからケンジとは学校でも休みの日でも、よく遊ぶようになった。
そのうちにケンジがクッシング病という難病持ちだと知った。治療のために手術を受けたりもしたが良くならず、都会の病院へ通っているらしい。そして彼の体型は病気のせいだとも知らされた。
「子供だとこの病気は特にレアなんだって。だから診れるところもあんまりなくて大変なんだよ」
「ふーん」
ふと、いいことを思いつく。
「じゃあ俺が医者になって治してやろうか?」
「えっ、龍介くんって医者になるの?」
「特にやりたいこともなかったし、今決めたわ」
そう言うと、ケンジは笑った。
俺はこいつの親友だ。それくらいのことはやってみてもいいと思ったし、この時は簡単なことだと思った。
なのに――その一年後、ケンジは死んだ。
最初、俺達生徒には病気のせいだと説明があった。信じられなかった。昨日まで一緒に遊んでいたのに。
ケンジの葬式に行くと、あいつの母親から声をかけられた。
「龍介くん。来てくれてありがとう。ケンジもきっと龍介くんが来てくれて喜んでるわ」
涙を浮かべながら静かに、見知ったその人は微笑んでいた。
「クッシング病ってそんな急に死ぬ病気なのかよ……?」
俺がそう問いかけると、その人の表情に影が落ちた。
「……あなたにだけ秘密で教えるわね。ケンジは、病死じゃないのよ……」
「え……?」
ケンジは俺の知らない場所で、同級生のやつらに体型のことでからかわれていたと、この時初めて知った。一度もそんなことを相談してくれなかったし、表に出してもいなかった。いつだって笑っていたんだ。そしてそのまま彼は自分の病と体型を呪って自身で命を絶ってしまった。彼の苦しさと、俺と楽しく遊んでいたことを綴った日記が、机の上に放置されていたらしい。
「は……? なんだそれ……」
「ごめんなさい。からかわれていたこと、知っていたけれど……あなたには心配させたくないって口止めされていたの。大丈夫だって笑っていたから……私がもっと見ててあげていれば――」
ケンジの母親がボロボロと泣き出すので、俺は必死に唇を噛んで堪えた。握った拳が痛くなるくらい、握り尽くした。
親友だと思っていたケンジが相談をしてくれなかった悔しさ、ケンジを追い詰めた同級生への激しい憎悪、何より無力な自分への嫌悪感。感情がぐちゃぐちゃになった。
しばらくしてケンジのことを引きずっていた時に、ふと、小学生の時のことを思い出した。デブな女子がいた。いつも俯いていて、言いたいこともはっきり言わなくて、見てるとイライラした。確か『太川』って言ったっけ。
「もしかして……俺も同じなのか?」
そう理解すると急に全身が冷たくなっていった。
俺がケンジを追い詰めたやつらと一緒……?
それから度々、否定できない過去を思い出しては罪悪感に苛まれた。
◆
戸津の話を聞き終わった。ただ彼は俯いて、どこか視線の定まらない一点を見つめて、口をつぐむ。
やっと腑に落ちた。
医学部への強いこだわりも、私への妙な執着も。全部繋がっていた。
私は、病気じゃない。だからケンジくんと比べるのなんておこがましい。でも死にたくなるほど辛いと思う気持ちは、痛いほど分かった。私はお兄さんという心の支えがあったから、なんとか踏み止まってここにいるけれど――ケンジくんは踏み止まることもできないくらいの、深い闇を一人で抱えていたのだろう。
それを想うと、目の奥が熱くなる。
理不尽な世界だ。一人ぼっちの子に声をかけてあげられるくらい優しくて勇気のある子がそんな仕打ちを受けていいはずないのに。
「あ?」
戸津が目線を上げて私を見た。
「なんでお前が泣きそうになるんだよ」
「仕方ないじゃん……」
そう言って腕でゴシゴシと目元を拭う。
「はぁ、お前なぁ……」
彼は苦笑いしながら、自分の膝で顔を覆った。
「……見るんじゃねぇよ」
鼻を啜る音……
思わず顔を背けた。言われたからではない。どうしたらいいのか分からなかったからだ。
戸津が泣いてる……?
顔を背けながら窓の外を見た。もうすっかり暗い。時々、風の音がして窓を揺らしている。
居ても立ってもいられなくなり、立ち上がりクローゼットの引き出しを開けてハンカチを取り出し、ティッシュ箱と共に戸津の前に置いた。
「……使えば?」
そう言うと彼は少しだけ顔を上げて、机の上のそれら一式を見つめる。
「見んなって言っただろ」
「別に……戸津のための物じゃないし。それ、ケンジくんのための物だし」
戸津が流してる涙はケンジくんのためのものだ。だから、間違っていない。
「なんだそれ。結果は一緒じゃねぇか」
彼は鼻声で少しだけ笑う。
私でも分かってる。屁理屈だって。でも悪魔だと思っていた戸津も、血の通った人間なんだと理解してしまったから――
少しして戸津が落ち着いてくると、私も少しホッとした。正直、ちょっと居心地が悪かった。
「さ、もういい?」
苦笑して教科書を閉じる。
「今日は一旦終わりにしよ。帰って各自夕食。そのあとまた散歩もあるし」
筆箱にペンを片付けようとすると、ずっと黙っていた戸津の手が伸びてきてそれを止めた。
「細川、お前は優しいやつだ」
「は?」
突然のその言葉に驚いて、思わず私も手を止めて、彼を見やった。まだ顔を伏せている彼はゆっくりと手を離した。
「俺はお前に酷いことをした。憎まれて、恨まれて当然のことをした。細川から笑顔を奪ったのは俺だ」
その言葉を聞いて、ズキズキと胸が痛む。
彼の今の顔を見て、今更何を、とは言えなかった。
「なのにお前は、そんな俺にまで勉強を教えてくれて、ハンカチとか……貸してくれる。だからお前はきっと、本当は昔からそうやってずっと優しいやつだったんだ」
戸津は顔を上げて私の目を見た。彼の目に映っているのは私なのか、ケンジくんなのか……私には分からない。せっかく止まりかけていたのに、彼の目が少し潤んでいた。
「許されないことをしたと思ってる。でも実際、目の前にするとちゃんと謝れなかった。どうしたらいいのか分からなかった」
彼は少し後ずさると膝と手を床について、頭を下げてきた。
「細川。本当に、ごめんなさい」
この瞬間に私の中にあった過去が一気に弾け飛んだかのようにフラッシュバックした。
頭の中に渦巻く嫌な思い出。
それが一気に小さくなっていく気がした。
戸津の精一杯のごめんなさいは初めてだった。
彼に対しての嫌な気持ちが縮まっていく。不思議な感覚だった。
そして同時に思い起こした。今まで戸津に感じていた『嫌な感じの態度』『嫌な表情』『嫌な言い方』はもしかして私が勝手に自身のトラウマのフィルターにかけていたのかもしれない。
確かに少し口は悪いし、少し怒りっぽいし、すぐ茶化すような性格なのは否定できないし、そういう点は苦手かもしれない。
でも高校で再会してから彼は本当に私に嫌がらせをしてきていた……?
戸津が嫌いで、男が苦手で、勝手に彼を悪者にしていたのでは?
そう思い始めると、実はずっと戸津なりの誠実さはそこにあったのかもしれないと思うようになる。
そんなことをグルグルと思考したが、この間わずか数秒で、すぐ我に返った。
戸津の丸い背中がずっと震えている。
「ちょ、ちょっと。今どき土下座って」
顔を上げさせようとするも、彼はそのままの姿勢で軽く首を横に振る。その時、床に涙の跡が見えた。
それを見て、思わずため息をつく。
――なんか、もういいか。
「許してあげる」
戸津の腕を掴んで、無理やり顔を引き上げた。
彼の顔は鼻水なのか涙なのか分からないくらいにぐしゃぐしゃになっていた。充血した目を丸くして固まっている表情が少しだけ面白い。
「さすがに忘れて完全にってわけにはいかないけどさ。いいよ。十分」
戸津は訝しげに目を細める。
「なんで笑ってるんだよ。こっちは真剣なのに……」
「いや、ごめん。顔が、ちょっと面白くて」
笑うのを必死に堪えてるのを見て、彼も少しだけ口元を緩めた。
「お人好し」
鼻を啜る音がする。
「なっ……やっぱり許すのやめようか?」
「嘘、冗談だよ」
彼は私の手を取りながら立ち上がると、くしゃくしゃの顔のまま、いつもより優しい笑顔をした。
「ありがとな」
頭に乗せられた手はほんのり温かかった――




