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第6話【交換条件】

 気付けば少し肌寒い日が増えてきていた。


「もうすぐで十月も終わりかぁ……」


 夕食後、一人で散歩をしながら、空を見上げた。月も星も見えない。今日はずっと一面に雲がかかっている。風が吹き抜けると、少し体を震わせた。


 今朝、体重計に乗ったら八十三キロになっていた。開始から十キロ痩せたことになる。でも、鏡に映る私の体は醜いままだ。『たったの十キロ』で私が可愛くなるわけもなかった。

 もう、本当ならこんなことやる意味ない。


「何やってんだろな……」

 虚しく一人で呟いてみた。


 ずっとこんな夜が続けばいいのに。明日が来なければいいのに。戸津にも、お兄さんにも、可能なら会いたくない――


 そう思っても太陽は昇ってしまう。

 あの日あったことは、誰にも話せていない。話すと自分の愚かさを認めるようでできなかった。


「ただいま」

 散歩から戻るとお母さんが顔を出した。


「優奈、食事ほとんど食べてないけど、片付けていいの?」

「うん。ごめん」


 あの日から食欲があまりない。味がしない。美味しく感じない。


「じゃあもらったお菓子、少し一緒に食べない? デザート代わりにさ」

「私はいいや。お父さんと二人で食べてよ」


 笑ってそのままお風呂場へと向かった。




 翌日、熱を出して学校を休んだ。


 こないだまで中間試験もあったし、秋の冷たい空気に張り詰めていた糸を切られたのかもしれない。

 今日は登校して皆の顔を見なくていいという安心感で日中はよく眠れた。しかし不幸にも昼過ぎには熱も下がるし、体も楽になってしまった。


「まだ……熱出てればいいのに」


 既に窓の外が赤橙色に染まっていた。

 ベッドに座ったまま掛け布団を膝にかけ、抱き込むようにして頭を預けた。


 さっきまで見ていた中間試験の成績表が、ベッドの上に転がっているのが目に入る。あの日から逃げるようにして勉強をしていたせいで、成績は今までで一番良かった。勉強は裏切らない。やればやるだけ成績に反映される。


 ダイエットは……どうなるか分からない。結局、私が痩せた先に、何が待つというのか。お兄さんとの成就? ありえない。じゃあ誰かが私を『女』として見てくれる?


「ありえない……」

 掛け布団に顔を埋めた。


 そんな折、ドアがノックされ、顔を上げる。


「優奈、体調だいぶ良くなったんでしょ? 夕飯どうする?」

 お母さんが顔を出すと、何故か笑顔に溢れている。


「要らないけど……」

「やっぱりね。ということらしいの。戸津くんあとはよろしくね」


 断る間もなく、お母さんの影から制服姿の戸津が顔を出した。


「お前、食えんなら少しは食えよ」

「なっ、ちょっとお母さん!」


 私が文句の一つを言う前に、母は声高々と笑って去っていく。


 慌ててベッドから出ると、ボサボサになった髪を手櫛で適当に整えて、ヘアゴムで括った。パジャマ姿なのは、もうどうしようもない。

 戸津はそんな私を気にする様子もなく、さっきまで寝ていた私のベッドに腰かける。彼が纏っていた少し冷たい空気が一瞬だけ部屋に漂った。


「これ、明日提出のプリント。その調子なら明日は来れるんだろ?」

 たった一枚の紙切れを私に手渡してくる。


「……ありがとう」

 受け取るも、戸津の意図が読めない。


「これだけ? それならもう帰っていい……」

 言いかけて戸津がベッドの上に落ちている成績表を手に取った。


「お前、すげぇなこれ」

「別に。他にあんまりやることなくて……」


 彼の手からそれを取り上げて机の上に置くと、椅子を引いて座る。


「俺は最悪だったよ。英語と数学、全然できなくてさ。医学部なんて夢のまた夢だわ」

 彼は自嘲気味に笑った。


「新しい彼女に教えてもらえば?」

「そんな惨めなことできるかよ。そんなに……言うほど仲良いわけでもないし」

「何それ」


 嫌味なやつ。


 言いかけて言葉を飲み込んだ。

 新学期の席替えで戸津とは席が離れ、詳しいことは分からないけれど、春ちゃんから聞いた話だと新しい彼女は一個上の綺麗な人らしい。

 見た目も良くて、スポーツもできて、医学部を目指していて、可愛い彼女もいて……私から見れば順風満帆に見える。だからこそ、彼の目が少し腫れているのは見なかったことにした。


「なあ、お願いがあるんだけどさ」

 戸津がこちらを見上げた。

 嫌な予感がする。


「勉強教えてく……」

「やだ」


 戸津が言い終わらないうちに返事をした。ただでさえ今は顔を見るのも嫌なのに。


「お前、まだ俺言い切ってねぇ」

「友達に教えてもらえばいいでしょ」


 明らかに拒否の意思を示した。いつもならここで彼は不機嫌になる。しかしその反応は予想外のもので、困った顔をして、少しだけ俯いている。


「とっくに聞いた。でも、あいつらに聞いて丁寧に教えてくれるとでも思ってんの?」

「……じゃあ、予備校は?」


 私の言葉に、彼は苦虫を噛み潰したような顔になる。


「親には真っ先に聞いたよ。そしたら『やれるだけのことをやってないのに、予備校に行ったところで金の無駄になる。せめて高二までは自力で結果を出せ』って言われた」


 戸津は膝の上の握り拳を強く握りしめた。


「情けねぇと思うだろ。なりふり構ってる余裕もないんだよ」

 しおらしい姿なんて戸津らしくもない。これじゃ、まるで私がいじめてるみたいで気分が悪い。


 ふと、外を見るともう陽が落ちていた。カーテンを閉めて、振り返る。


「なんでそんなに医学部にこだわるのさ」

 そう言うと、戸津の体が少し揺れた。制服のズボンに深いシワが寄る。


「医者になるって約束した。もう死んで、そいつはいないけど……」

 一瞬、冷たい空気が肌を刺激した気がして、窓の方を見た。風は入ってきていない。

 静かに一点を見つめ、床を見下ろす戸津がなんだかいつもより小さく見える。


「こんな成績で何言ってんだって思うけどな」

 空笑いする彼を見て、また椅子に座っては自分の額に手をやった。


 必死に変えたくて、もがいている。その姿が鏡に映った自分のように見える。


「で、今日来た本題はそれ?」

「いや、今日来たのは……」


 少し視線を上げて戸津は私を見た。


「斎藤さんが今日俺のとこにきた」

「春ちゃん……?」


 その名前を聞いてズキンと熱い針で胸を刺された気がした。


「お前に何したんだって怒ってた。ずっとお前の様子がおかしい、何も話してくれないって。今日も休んでるのに、連絡もないって。だから、話した。花火大会の日のこと……俺が細川に話したこと、全部」

「え……」


 目の前が一瞬だけ回った気がした。誰にも、春ちゃんにも、こんな惨めな私のことを知られたくなかったのに。


「なんで……いつも、そんな勝手なことするの!」

「勝手? お前、斎藤さんの気持ち考えたのかよ」


 戸津の眉間にシワが寄っている。


「親友ってそんな上っ面なのか」


 ――親友。


 ……そうだった。春ちゃんは親友でなんでも相談できる大事な友達だ。


「お前、斎藤さんにくらいちゃんと話せよ」


 無気力さが一気に消し飛んだ。


 春ちゃんは私のことを心配してくれていた。

 いや、春ちゃんだけじゃない。お母さんだって、お父さんだって、心配してくれていた。でも私はそれに気付かないフリをしてたんだ。

 自分が一番可哀想だって、そう感じてたんだ。


「悲劇のヒロイン症候群じゃん……こんなの」

 今までのどうしようもない、可愛くもない自身の態度に急に恥ずかしくなってくる。


「……ありがとう。教えてくれて」

 私がそう呟いたのを見てか、戸津は少しだけ鼻で笑った。


「そうだ。こうしようぜ」

 戸津は立ち上がると、座る私の前に立った。その顔は先程までと違い、いつもの自信のある表情に戻っていた。


「俺はお前のダイエットが成功できるようにサポートする。もう罪滅ぼしじゃない。お前がもっと前を向けるように手伝う。それでちゃんと告白もして、けじめもつけよう。その代わり、お前は俺に勉強を教える。少なくとも予備校に行けるようになるまでは。お前は俺を、俺はお前を利用する。どうだ?」


「交換条件ってこと?」

「ああ、これならいいだろ?」


 戸津が笑って私に手を差し伸べる。


 相変わらず、独りよがりな言い分。でも、そうだ。

 一人でいじいじして、一人で引きこもって、一人で悲観に浸ってる場合じゃない。

 ダイエットして告白するんだ。妹にしか見られてないのは前から薄々感じてたし、今更だ。自分のために告白するんだ。

 それにお兄さんは分かってくれる。私が沢山努力したこと、きっと知ってくれている。そしたら奇跡が起きるかもしれない。


「分かった。いいよ」

 戸津の差し伸べられた手を握り、立ち上がる。


「とりあえず数学は一学期のところからやり直しだから。覚悟しといて」

「そっちこそ。また毎日ビシバシ歩かせるからな。飯もきっちり食わせる。キツいからって逃げさせないぞ」


 彼は前のように不敵な笑みを浮かべた。


 部屋を出ていく彼を見送り、机の上の成績表を手に取った。


 明日も太陽は昇る。その事実を少しだけ受け入れられる気がした。

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