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第70章 1人旅

ルノア村を出た丈太郎は、アンクから借りた小柄な移獣の背に揺られ、街道を南へと進んでいた。


かつてフィリスと共に初めてこの道を旅したのは、およそ一年半前のことだ。あの時は、紅葉した葉が冷たい風に乗って散る、秋の終わりの肌寒い季節だった。


しかし今は違う。雪解けを終えた大地には若草が芽吹き、道の脇には色鮮やかな小さな花々が咲き誇っている。頬を撫でる春の柔らかな風が心地よく、なんだか自然と心が躍るような気分だった。


「あの時は、ずっとフィリスさんと他愛のない話をしてたっけな……」


一人きりの道のりは少し静かだが、不思議と孤独感はない。

昼時になり、丈太郎は移獣の歩みを少し緩め、テラが持たせてくれたお弁当の包みを開いた。中には、具材がたっぷりと挟まれた手作りのサンドイッチが綺麗に並んでいる。

一口かじると、パンの香ばしさと具材の旨味が口いっぱいに広がった。


「美味しいなー」


丈太郎は思わず舌鼓を打つ。ボリューム満点で、この分なら夜ご飯に回しても十分な量があった。


太陽が西の空へ傾き、辺りがオレンジ色に染まり始めた頃、丈太郎は街道脇の野営地に到着した。

今日は他の旅人や冒険者の姿はなく、広場には丈太郎一人だけだった。


移獣を木に繋ぎ、リュックからテントを取り出す。

手慣れた動作で骨組みを組み立て、ペグを打ち込んでいく。

その最中、ふと背後から声が聞こえたような気がした。


『頼んだわ、我が弟子よ!』


あの時、得意げに笑ってテント設営を押し付けてきた彼女の声だ。

丈太郎は思わず苦笑し、設営を終えて振り返った。

――だが、当然そこにフィリスの姿はなく、パチパチと燃える便利な焚き火もない。


「……不便だなー」


初めての野営の時、フィリスは手のひらに小さな火の玉を浮かべ、一瞬で薪に火をつけてみせた。あの魔法の便利さを、今更ながら痛感する。


丈太郎は森の入り口で拾い集めた薪を組み上げ、雑貨屋で買ってきた火打石を取り出した。

思えば、火打石なんて使ったことがなかった。雑貨屋でも、子供の遊び道具のコーナーの隅に置いてあったくらいだ。


「テラさんから、いらない綿くずをもらってきて正解だったな」


着火剤代わりに綿くずを置き、カチッ、カチッと石を打ち付ける。何度目かでようやく、小さな火種が綿に燃え移った。

丈太郎は息を殺し、フーフーと慎重に息を吹きかけて火を育てていく。小さな小枝から順番にくべ、少しずつ炎を大きくしていく。


その手つきを見つめながら、丈太郎の脳裏に遠い記憶が蘇る。


日本の実家にあった薪ストーブ。

冬が近づくと、それに火を入れるのは丈太郎の役目だった。中学に入り、父から「もう任せられるな」と火付け役を任されたとき、一人前として認められたようで感無量だったのを思い出す。


(父さん……元気にしてるかな)


薪がはぜる音に、遠い世界に置いてきた家族への想いが静かに重なる。


やがてしっかりとした焚き火になり、周囲を暖かなオレンジ色の光が包み込んだ。

丈太郎は近くの切り株に腰を下ろし、残しておいたテラのサンドイッチを夜ご飯として食べる。

ふと、炎の向こうに、かつての光景が重なって見えた。


『……テラさんのお弁当、本当に美味しいわね』


目を丸くして、幸せそうに頬をほころばせていたフィリスの顔。


「……早く会いたいな」


ぽつりとこぼした言葉は、パチパチと爆ぜる炎の音に溶けていった。

丈太郎はリュックから、今日の買い出しで一つだけ買った、赤い封蝋の小さな酒瓶を取り出す。

コルクを抜き、一人で焚き火に向かって軽く掲げた。


「乾杯」


アルコールの熱は感じないが、喉を通る冷たい液体が、心地よい高揚感をもたらしてくれる。

静かな春の夜風と、焚き火の温もり。

一人きりの野営地で、丈太郎の旅の夜は静かに更けていった。



ルノアを出て三日目。

丈太郎は変わらず、アウトリアへと向けて歩みをつづけている。

相変わらず人通りは全然ない。


移獣から降りて、木陰で用を足して戻ろうとした時のことだった。


――シュンッ!


空気を裂く音と共に、丈太郎の足元に矢が数本、ポトリと落ちた。


「あ……」


丈太郎は足元に転がった矢を見つめ、小さく息を吐く。


(まあ、そうだよね。村人Aみたいな服を着た若造が、一人でこんな辺境の街道を歩いていれば……予想はしてたけど)


かつての初めての旅。あの時も、用を足して戻ってきたタイミングで野盗に襲われた。

丈太郎はズボンを直し、慌てることなくゆっくりと振り返る。


そこには、森の中から現れた五人の野盗が、薄汚れた武器を構えて丈太郎を半包囲していた。


「な、なんだこいつ、矢が効かねぇ! 防御魔法か!?」


「構うことはねぇ! 直接首をはねろ!」


男たちが殺気を剥き出しにして斬りかかってくる。


丈太郎は自然な動作で斜に構え、腰の鞘に手をやろうとした。


「あ……そうだった」


腰には何もない。

かつてフィリスと一緒に特注した、柄に紅玉魔晶が輝く『抜かない剣』は、帝都にあるフィリスの家に置いてきてしまったのだ。


「死ねェッ!」


先頭の野盗の剣が、丈太郎の首筋めがけて振り下ろされる。

だが、丈太郎は慌てることなく、スッと半歩だけ踏み込んだ。


メイキュリアから帝都へ向かう平穏な道中も、彼はフィリスとの稽古を欠かすことはなかった。

そして、日本へ帰ってからの数ヶ月間。魔物も野盗もいない平和な日常の中で、丈太郎が唯一毎日欠かさずに続けていたのが、中学の修学旅行で買った木刀での素振りと型の練習だった。

くる日もくる日も繰り返した地道な基礎の反復と、死線を潜り抜けた強敵たちとの対峙経験。それらが今、丈太郎の身体の中で完全に一つに結実していた。


振り下ろされる剣筋に合わせ、野盗の腕に軽く手を添える。そして、相手の勢いを一切殺さず、流すように軌道を変えた。

オルドから叩き込まれ、一人でも愚直なまでに磨き上げ続けた『空蝉の型』。

最小限の動きで相手の力をいなされた野盗は、無様な声を上げながら仲間たちの中へ豪快に投げ出され、地面に転がった。


「なっ!?」


驚愕する他の野盗たち。その隙に丈太郎は、投げ飛ばした野盗が落とした無骨な剣を、足の甲で軽く蹴り上げて空中で掴み取った。


丈太郎は拾い上げた剣を左手の逆手に持ち、刃を背中側へ向けるようにして脇の下に構える。右足をすっと前に出し、深く腰を落とす。


それは、かつてフィリスに徹底的に教え込まれた『抜剣時の型』だった。

日本の自室で木刀を振るいながら、彼女の凛とした姿を何度も思い描き、身体に染み込ませた構え。


隙のない、完璧な強者の構え。


野盗たちは、そのただならぬ空気に一斉に足を止め、警戒して距離を取った。


「お、おい……こいつ、見覚えがねぇか!?」


「ああ……あの時の! 女剣士と一緒にいた、ガキだ!」


男たちはようやく、一年半前に自分たちを返り討ちにしたパーティーの片割れだと気づいた。

だが――あの時、矢の雨に青ざめて怯えていた少年の面影は、もうどこにもなかった。


丈太郎は、腰を低く落としたまま、五人の野盗をギロリと睨み据える。


「頼む……」


静かな、けれど地を這うような低い声が響いた。


「斬らせないでくれ……」


「くっ……!」


野盗のリーダー格の男の背筋に、冷たい汗が流れ落ちた。

目の前の青年には、一切の隙がない。

むき出しの殺気はない。だが、底知れない『凄み』と、触れれば即座に斬り捨てられるという圧倒的なプレッシャーが、場を完全に支配していた。


――少しでも間合いに入れば、一瞬で首が飛ぶ。


誰もがそう幻視し、身動き一つ取れなくなっていた。

沈黙が、重くのしかかる。


やがて、リーダーの男がギリッと奥歯を噛み締め、武器を下ろした。


「……やめだ。引き上げるぞ」


男たちは怯えたように後ずさりし、逃げるように背を向けた。


「あの、忘れ物です」


丈太郎がスッと身を起こし、手にしていた剣を軽く放り投げる。

剣は、先ほど投げ飛ばされた野盗の足元に、カランと音を立てて落ちた。


「あ、ああ……」


野盗は震える手で剣を拾い上げると、仲間たちを追って森の奥へと逃げ去っていった。


丈太郎は大きく息を吐き出した。


もう、相手を威圧するための豪華な『抜かない剣』は必要ない。

彼自身が身につけた経験と、揺るぎない覚悟が、何よりも確かな強者としての証となっていた。


春の風が、再び心地よく吹き抜けていく。

丈太郎は移獣の元へ戻ると、再び歩みを進めた。


5日目。


遠くの地平線に、見覚えのある城壁と尖塔が影のように浮かび上がってきた。ついにアウトリアが見えてきたのだ。 一年ぶりのアウトリア。フィリスと一番長く過ごし、多くの思い出が詰まった街。


(あそこには、豪快なギルドマスターのブラッドさんがいる。厳しくも温かいオルドさんと、ライバルのリーファもいる。薬士ギルドに行けば、優しいアイナさんもいる。そう、俺はもう1人じゃない。なんとかなるさ)


「さーて、気長にフィリスさんを待つかな」


口元に自然と笑みがこぼれる。 丈太郎は、希望に満ちた足取りで、アウトリアへと向かうのだった。

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