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第66章 旅立ちの夜

両親にすべてを打ち明け、決して揺るがぬ決意を伝えた翌朝。丈太郎の心は、自分でも不思議なほどに澄み切っていた。


『装備者が生命の危機に陥ったとき、石が身代わりになって砕ける』

『砕けた瞬間、もうひとつの腕輪を着けている人の近くへ、転送されるの』


迷宮で聞いた仁と紗菜の言葉を信じ、自らの手で《絆の石》を物理的に砕くことを決めた。だが、本当にそれで異世界へ転送されるという確かな保証はどこにもない。


その不確かなリスクを、両親に告げるつもりはなかった。もし失敗すれば、ただの石ころを割っただけになり、異世界への道は永遠に閉ざされてしまう。


しかし、そうなってしまったとしても、両親は「やっぱり行けなかったか」と笑って、喜んで元の日常へ迎え入れてくれるだろう。


だが、そんな希望を持たせるのは酷だ。だから、これは自分だけの秘密にするしかなかった。


やがて、丈太郎は異世界へ帰る準備を始めた。

準備といっても、驚くほど簡単なものだった。丈太郎はクローゼットを開け、見慣れた日本の服――あの日、異世界へ旅立ち、そして再び日本へ帰ってきた時に着ていた服を選んだ。


ふと、星の神殿で別れる前夜に聞いたセラフィーナの言葉が脳裏に蘇る。


『理の違う世界っていうのはね、それぞれ違う色を持った「水槽」みたいなものよ』


『この世界の物を向こうへ持ち込めば、違う色のインクを一滴落とすようなもの。世界が「異物が入ってきた」と拒絶して、波風を立てて無理やり洗い流そうとするのよ』


『だから、持ち込むインクは少なければ少ないほどいい』


異物を持ち込めば、世界が拒絶して洗い流そうとする。だから、持ち物は最小限に留めなければならない。

だが、せっかく日本から行くのだから、一つくらい向こうの世界へ何かを持っていきたい。丈太郎はふと思いつき、家を出て買い物に向かった。


(……フィリスさん、きっと喜ぶだろうな)



その日の夜。

食卓には、母が腕によりをかけた丈太郎の好物がずらりと並んでいた。


「ほら、いっぱい食べなさい。向こうの世界じゃ、こんなの食べられないんでしょ?」


母は努めて明るく振る舞おうとしていたが、その声は少しだけ震えていた。


「ああ。母さんの飯が一番美味いよ」


丈太郎は一口一口、その温かい味を心に刻み込むように噛みしめた。

父は黙ってビールを飲んでいたが、その目は丈太郎を優しく見守っている。足元では、ロッキーが丈太郎の足にすり寄り、心地よさそうに喉を鳴らしていた。

笑い合いながら、昔の思い出を語り合う。それは、いつもと変わらない、温かくて、かけがえのない家族の団欒だった。


夕食を終え、夜も更けた頃。

丈太郎は、両親とロッキーと共に家を出た。

向かった先は、近所の『第六天神社』。あの日、彼が異世界へと召喚された場所の近くであり、二つの世界を繋ぐ「特異点」の役割を持つ場所だ。ここなら、世界の理を越える確率が少しでも上がる気がした。


夜の神社は静まり返り、鳥居の前に立つのは丈太郎の両親とロッキーだけだった。

丈太郎は左腕の包帯を解き、白金色のブレスレットを外した。中央に嵌め込まれた赤い宝石が、街灯の僅かな光を受けて静かに輝いている。


「父さん、母さん。……今まで、本当にありがとう」


丈太郎は深く頭を下げた。


「元気でな、丈太郎。……向こうでも、お前らしく生きろ」


父が短く、力強く言う。


「体にだけは気をつけるのよ。ご飯、ちゃんと食べるのよ……!」


母が涙声で言い、丈太郎をきつく抱きしめた。ロッキーも「クゥン」と鳴いて、丈太郎の手に鼻先を押し付けた。


丈太郎は両親の温もりをしっかりと心に刻み込むと、一歩後ろへ下がった。

右手で握りしめた、赤い《絆の石》。


(フィリスさん……今、行きます)


大好きな師匠の、あの豪快で眩しい笑顔を思い浮かべる。


「異世界へ――!!」


強い願いと共に、丈太郎は右手のブレスレットを思い切り足元の石畳へと叩きつけた。


パァァァンッ!!


赤い宝石が砕け散った瞬間、強烈な閃光が弾け飛んだ。

光は瞬く間に丈太郎の身体を包み込み、夜の闇を真っ白に染め上げる。


「丈太郎……っ!」


光の奔流の中で、丈太郎が最後に見たのは、自分に向かって手を伸ばす母の姿だった。

そして――光がふっと収束し、夜の静寂が戻った時。


鳥居の前には、もう少年の姿はどこにもなかった。


「あ……ああ……丈太郎……っ」


母がその場に泣き崩れる。父は無言のまま、震える母の肩を力強く抱き寄せた。

足元では、ロッキーが主人の消えた空間に向かって、静かに鼻を鳴らしていた。


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