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第67章 帰郷

真っ白に染まりきった視界が、ゆっくりと色を取り戻していく。


夜の神社の冷たい空気は跡形もなく消え去っていた。代わりに肌を撫でたのは、木漏れ日の柔らかな陽の光と、むせ返るような木々の青々とした匂い。

どこからともなく、聞き覚えのある小鳥のさえずりが鼓膜を揺らす。


丈太郎はゆっくりと目を開けた。

視界に広がったのは、深く穏やかな緑に包まれた森――あの日、初めて異世界に降り立ち、ミィナを助けた『ルノアの森』だった。


「……来れた。本当に、戻ってこれたんだ……!」


丈太郎は震える両手を見つめ、歓喜の声を漏らした。


ふと足元に目をやると、草むらの中に白金色の細身のブレスレットが落ちているのに気づく。

中央に嵌め込まれていた深紅の宝石は跡形もなく砕け散り、ただの金属の輪だけが残されていた。


「そうか……やっぱり、砕けちゃったんだな」


日本の神社で、元の世界への未練を断ち切るように、自らの手で思い切り叩きつけて砕き散らした《絆の石》。役目を終えた枠だけが、一緒に転送されてきたのだろう。

宝石は失われてしまったが、フィリスとの繋がりを示す大切な宝物の残骸をそっと拾い上げ、丈太郎の胸は熱くなった。


その時、丈太郎はあることに気づいた。

迷宮の底で仁と紗菜から聞いた話では、《絆の石》が発動すれば『もうひとつの腕輪を着けている人の近くへ転送される』はずだった。

しかし、周囲を見渡してもフィリスの姿はなく、見慣れたルノアの森の景色が広がっているだけだ。


「……まあ、日本からすれば遥かにフィリスさんに近いか」


本来の仕様とは少し違ったが、丈太郎は小さく笑い、自分なりに納得してブレスレットを左腕に着けた。


「とにかく、村へ行こう」


丈太郎は弾かれたように駆け出した。

今、一番気がかりなのは『時間の経過』だった。迷宮の底で仁と紗菜から『五百年前にこの世界へ来た』と聞かされた時の衝撃が蘇る。


もし、日本で過ごした数ヶ月が、この世界での数十年、あるいは数百年になっていたらどうしよう。

そんな不安が、心臓を早鐘のように打たせていた。


森を抜け、見慣れた平地に出る。

そこには、木造の家々が立ち並び、光晶ランプが軒先に揺れるルノア村の光景が広がっていた。

通りを行き交う移獣車や村人たちの姿も、活気ある市場の様子も、丈太郎がフィリスと共に旅立ったあの日と何一つ変わっていない。


(よかった……何百年も経ってるわけじゃないみたいだ)


丈太郎は深く胸を撫で下ろし、村の中央付近にある石造りの平屋建て――アンクの治癒院へと向かった。


入り口の扉の前に立つ。

壁を伝う薬草の蔓も、簡素な癒しの紋様も、記憶に焼き付いているままだ。

丈太郎はごくりと唾を飲み込み、ドキドキと高鳴る胸を押さえながら、ゆっくりと木製の扉を押し開けた。


カラン、と小さな鐘の音が鳴る。

ほんのりと甘く爽やかな薬草の香りが、ふわりと鼻をくすぐった。


「いらっしゃいませ。治療の受付です――」


カウンターの奥から顔を出したのは、見慣れた治癒士の女性、アリスだった。

彼女は丈太郎の姿を認めた瞬間、言葉をピタリと止め、その大きな瞳をこれでもかというほどひんむいた。


「えっ……えええっ!?」


手からカルテを取り落とし、アリスはカウンターを回り込むようにして勢いよく駆け寄ってきた。


「じょ、丈太郎さん!? 丈太郎さんですよね!?」


アリスが自分の事を知っている、自分を忘れていないという事実に、丈太郎は安堵する。


「ただいま、アリスさん。お久しぶりです」


丈太郎が照れくさそうに笑うと、アリスは信じられないものを見るように丈太郎の顔をまじまじと見つめた。


「本当にお久しぶりです! ずっと心配してたんですよ! ……でも、なんで一人なんですか? フィリスさんは?」


「あ、いや、それはちょっと色々あって……。それよりアリスさん! 俺がフィリスさんとこの村を旅立ってから、どれくらい時間が経ちましたか!?」


丈太郎が身を乗り出して必死に尋ねると、アリスは目をパチパチと瞬かせながら答えた。


「どれくらいって……だいたい、1年半くらいですかね。季節もすっかり春ですし……どうかしたんですか?」


その答えを聞き、丈太郎は全身の力が抜けるほどの安堵に包まれた。


(よかった……! 日本で過ごした数ヶ月と同じ時間が進んでる……!)


「アリス、騒がしいがどうしたんだい?」


奥の診療スペースを仕切る布がめくられ、眼鏡をかけたアンクが顔を出した。その後ろからは、テラも不思議そうに顔を覗かせている。

二人は丈太郎の姿を見るなり、ハッと息を呑んで立ち止まった。


「丈太郎くん……!?」


「丈太郎さん……!」


「アンクさん、テラさん。……帰ってきました」


丈太郎が深く頭を下げると、アンクは目元を抑えながら足早に歩み寄り、丈太郎の肩を力強く叩いた。


「よく無事で……! 本当によく帰ってきたな!」


「丈太郎さん、おかえりなさい! 怪我はない? ちゃんとご飯は食べてたの?」


テラも目に涙を浮かべながら、丈太郎の手を両手でぎゅっと握りしめて喜んでくれた。

この理不尽な世界で最初に自分を家族として受け入れてくれた人たちの、変わらない温もりに触れ、丈太郎の目にも自然と涙が滲む。


「あ、あの……ミィナは?」


ふと、一番に飛びついてきそうな小さな影がないことに気づき、丈太郎が涙を拭いながら尋ねる。


「ミィナなら、今は村の学校に行っているわ」


テラが優しく微笑みながら答えた。


「そうか、学校か。相変わらず元気にしてますか?」


「ええ、もう。毎日『お兄ちゃんいつ帰ってくるかな』って言って、それはもううるさいくらいよ」


アンクが苦笑いしながら言うと、治癒院の中は温かな笑い声に包まれた。


理の違う世界へ再び戻ってきた丈太郎。

だが、そこには確かに、彼の帰りを待ってくれていた温かい「居場所」があった。


その後の時間は、丈太郎にとってひどく懐かしく、穏やかなものだった。

夕食までの間、やることもない丈太郎は、昔のように治癒院の仕事を手伝うことになった。

薬草の仕分けをしながら、アリスやアンクにフィリスとの旅の土産話を語る。迷宮での死闘や、帝都での騒動……フィリスの相変わらずの無茶苦茶なエピソードに、治癒院には絶えず笑い声が響いていた。



夕暮れ時。治癒院の扉を閉め、丈太郎たちはアンクの家へと向かった。

今夜は丈太郎の帰還を祝って、アリスも一緒に夕食を食べることになったのだ。

テラが腕によりをかけた料理がテーブルに並び、香ばしい匂いが部屋を満たしている。


「ただいまー!」


元気な声とともに、玄関の扉が開いた。


「おかえり、ミィナ。今日は特別なお客さんが来てるのよ」


テラが微笑みながら声をかけると、居間に顔を出したミィナがぴたりと足を止めた。


「え……?」


大きく見開かれた瞳が、丈太郎を捉える。

一年半。その間に、彼女の背は少しだけ伸び、ほんのりと大人びた顔つきになっていた。


「……ただいま、ミィナ」


丈太郎が優しく微笑みかけると、ミィナの目からポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。


「お兄ちゃん……! お兄ちゃんだぁっ!」


ミィナは弾かれたように駆け出し、丈太郎の胸に半泣きで思い切り抱きついてきた。


「わっ」


「ずーっと、ずーっと待ってたんだからね! バカお兄ちゃん!」


「ごめん、ごめんな。……ちょっと見ない間に、大きくなったな」


丈太郎はミィナの頭を優しく撫でながら、改めてこの世界に帰ってきた喜びを噛み締めていた。


やがて、賑やかな夕食の時間が始まった。

テーブルには、かつて丈太郎が何度も口にした温かい手料理が並ぶ。

アンクの冗談、テラの優しい気遣い、アリスの明るい笑い声、そして隣にぴったりとくっついて離れないミィナ。

それは、丈太郎が日本で幾度となく思い描いた、愛おしい「家族」の団欒そのものだった。


食事が一段落し、温かいお茶が配られた頃。

丈太郎は少しだけ居住まいを正し、真剣な眼差しで皆を見回した。


「アンクさん、テラさん。……アリスさんにミィナも。俺から、大事な話があります」


その声のトーンに、場が静まる。


「俺……実は、一度『元の世界』に帰っていたんです」


「えっ……!?」


アリスが驚きに目を見開いた。アンクとテラは、かつて丈太郎から彼が異世界人であることを打ち明けられていたため、静かに息を呑んで次の言葉を待った。


丈太郎は、星の神殿で完成した帰還術式を使い、一度日本へ戻ったことを語った。

両親に再会し、平和な日常を取り戻したこと。しかし、どうしてもフィリスと過ごした日々、そしてこの村での温かい記憶が頭から離れなかったこと。


「……俺は、もう一度この世界に戻るために、フィリスさんとの繋がりだった《絆の石》を砕きました」


「それって……」


アンクが眉をひそめる。


「はい。帰還術式の核となる魔石はもう手元にありません。……俺はもう二度と、元の世界には帰れません」


永遠の別れを意味するその言葉に、テラが口元を覆い、アリスは痛ましそうに目を伏せた。


「それでも……」


丈太郎はポケットから、宝石の失われた白金色のブレスレットの枠を取り出し、そっと握りしめた。


「俺は、フィリスさんに会いたかった。彼女の隣が、俺の本当の居場所だって気づいたんです。だから……帰ってきました」


静かな、けれど決して揺るがない決意の言葉。

しばらくの沈黙の後、アンクがふっと口元を緩め、大きく息を吐き出した。


「……まったく。相変わらず、無茶をするやつだ」 


「アンクさん……」


「だが、男が一度決めた覚悟だ。俺たちがとやかく言うことじゃない。……それに」


アンクは、隣で微笑むテラと目を合わせ、丈太郎に温かい視線を向けた。 


「前に言ったはずだぞ。ここはもう、お前の家だってな。……何度でも言ってやる。おかえり、丈太郎」


「おかえりなさい、丈太郎さん」


テラも優しく微笑み、アリスとミィナも嬉しそうに頷いた。

その変わらない温かさに、丈太郎の目から一筋の涙がこぼれ落ちたのだった。


涙を拭い、照れくさそうに笑う丈太郎に、アンクが真剣な表情に戻って問いかけた。


「それで、これからどうするんだ? すぐにフィリスくんを探しに行くのか?」


「はい。明日には村を出発しようと思います」


丈太郎が迷いなく答えると、隣に座っていたミィナがぷくっと頬を膨らませた。


「えーっ、お兄ちゃん、もういっちゃうのー!」


不満げな声を上げるが、その顔に以前のような悲壮な悲しみはない。丈太郎がもう「元の世界」へ帰ることはなく、これからもずっとこの世界にいてくれるのだと分かって、安心したのだろう。丈太郎はミィナの頭を優しく撫でてなだめた。


「ごめんな。でも、必ず戻ってくるから」


「で、フィリスくんに会う算段はあるのか?」


アンクが腕を組みながら尋ねる。


「はい。フィリスさんは自由気ままな放浪の冒険者です。俺が闇雲に大陸中を探し回っても、すれ違ってしまう可能性が高いし、いつ会えるかもわかりません。だから……待つことにします。アウトリアで」


「アウトリア? あの、温泉で有名な街ですか?」


アリスが不思議そうに首を傾げた。


「はい。あそこは、フィリスさんが『半年に一度は必ず訪れる』と言っていたお気に入りの場所なんです」


かつて彼女が「温泉と街並みが好きで、ついつい足が向いちゃう」と笑っていたのを思い出す。


「だから、あの街で待っていれば、一年以内には確実に会える……はずです」


「なるほどな。彼女の性格を考えれば、動き回るより待ち伏せした方が確実というわけか」


アンクは納得したように深く頷いた。


「そして、フィリスさんを見つけたら……二人で、またここに戻って来ます」


丈太郎が力強く宣言すると、アンクはニヤリと口角を上げた。


「ああ。お前たちの帰る場所はここだ。いつでも待ってるさ」


「ふふっ。それなら、フィリスさんのために、とびきり美味しいお酒をたくさん用意して待っていないとね」


テラが嬉しそうに笑うと、皆もつられて温かな笑い声を上げた。

夜の更けていくアンクの家には、新たな希望へと向かう穏やかな時間が流れていた。

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