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第65章 光と影

人混みの中へと消えていく仁と紗菜の後ろ姿を見送った丈太郎の胸に、かつてないほどの激しい衝動が渦巻いていた。


あんな風に、隣で笑い合える相手がいるということ。 これから待ち受ける過酷な運命を知りながらも「幸せだ」と笑い合える二人の姿は、丈太郎の心の奥底に蓋をしていた感情を、いとも容易く吹き飛ばしてしまった。


(会いたい……っ! フィリスさんに……会いたい!!)


気づけば、丈太郎は左腕の包帯を強く握りしめていた。 その下にあるのは、白金色のブレスレット。赤い《絆の石》だ。 迷宮で仁と紗菜からこの腕輪を託された時の言葉が、脳裏に鮮明に蘇る。


『装備者が生命の危機に陥ったとき、石が“身代わり”になる。石は砕けるけどね』 『砕けた瞬間、もうひとつの腕輪を着けている人の近くへ、転送されるの』


これだ。これを使えば、フィリスさんの元へ行けるかもしれない。 だが、すがりつきそうになったその希望は、すぐに絶望へと変わった。


(ダメだ……俺には、《絶対防御》がある)


「生命の危機」に陥る。言葉にするのは簡単だが、丈太郎にとっては不可能に近い条件だった。 この能力は、丈太郎へのあらゆる外的なダメージを無効化してしまう。トラックの前に飛び出そうが、崖から飛び降りようが、いざとなれば能力が自動で発動し、すべての衝撃を無効化して無傷で済んでしまう。自らを刃物で傷つけようとしても、それすら防がれてしまうだろう。


自ら生命の危機に陥ろうとしても、この理不尽なまでの無敵の力がそれを許さないのだ。


(じゃあ……フィリスさんが危機に陥るのを待つ……?)


いや、それも現実的ではなかった。 彼女は「神炎のフィリス」。Aランク冒険者でありながら、その実力はSランクをも凌駕する。


帝都の魔女や剣聖といった世界最強クラスの人物に師事し、Sランクの神殿騎士団長ですら一方的に圧倒する規格外の魔剣士だ。それに、迷宮の深い階層で死線に立った時でさえ、彼女は決して諦めず道を切り開いてきた。


あの大口を開けて豪快に笑う彼女が、そう簡単に不覚を取る姿など、まったく想像できなかった。


(俺からは行けない……フィリスさんがピンチになることもない……どうすればいいんだよ……)


手首の赤い宝石は、そんな丈太郎の焦燥をよそに、ただ静かに澄んだ輝きを放っているだけだった。 方法がない。繋がる手段がない。その圧倒的な無力感と焦りに苛まれながら、丈太郎の時間は過ぎていった。


やがて厳しい冬が終わり、季節は春へと移り変わる。 高校の終業式が終わり、春休みに入った。 街には桜の花が咲き始め、行き交う人々の顔もどこか明るい。


穏やかで平和な日本の春。だが、丈太郎の心だけがそこに置き去りにされていた。


見慣れた公園のベンチに座り、ふと風に舞い散る桜の花びらを見つめる。 もし彼女がここにいたら、「綺麗な花ね! さあ、花見酒よ!」と言って豪快にジョッキをあおって笑うのだろうか。


(会いたい……)


時間が経てば少しは落ち着くと思っていた。 けれど、桜が咲く季節になっても、あの眩しい笑顔に会いたいという気持ちは、薄れるどころか募るばかりだった。


平和で、何事も起きない退屈な日常。 悶々とする日々を過ごす中、丈太郎は今日もベッドに横たわり、左腕の包帯をそっと解いて『絆の石』を見つめていた。


白金色の輪の中央で、赤い宝石が静かに輝いている。 これを見るたび、フィリスの青い瞳や、背中を預け合った日々が鮮明に蘇り、どうしようもない喪失感に胸を締め付けられるのだ。


(いっそ、死ぬほどの目に遭えば……)


ふと、あらぬ思いが脳裏をよぎった。 迷宮の底で、仁は言っていた。『装備者が生命の危機に陥ったとき、石が身代わりになって砕ける』と。俺の《絶対防御》は外的なダメージはすべて弾くが、空腹による餓死のような内側からの要因は防げない。だったら、このまま部屋に引きこもって餓死寸前までいけば、石が発動してフィリスさんの元へ転送されるのでは……。


(いや、バカか俺は!)


丈太郎は慌ててブンブンと首を振って、己の極端な思考を打ち消した。 そんなことをしても、転送された直後に餓死するか、最悪、ただの死体となって転送されるだけだ。


ガリガリに痩せこけた自分の死体が突然フィリスの目の前に現れる――想像しただけで完全なホラーである。いくら肝の据わったフィリスさんでもトラウマレベルだ。


「餓死寸前で石が砕けても、意味がない……」


丈太郎は大きくため息をつき、再び赤い宝石を見つめた。


その瞬間、丈太郎の心臓がドクンと大きく跳ねた。


……砕ける?


『装備者が生命の危機に陥ったとき、石が身代わりになって砕ける』 『砕けた瞬間、もうひとつの腕輪を着けている人の近くへ、転送されるの』


仁と紗菜の言葉が、頭の中でリフレインする。


生命の危機で、石が砕けて、転送される。 ならば――。


(……もし、生命の危機を経ずに、自分の手で直接この石を砕いたら?)


仮に『石が砕けること』自体が転送のトリガーなのだとすれば。 物理的にこの赤い宝石を破壊できれば、青い宝石を持つフィリスさんの元へ飛べるのではないか?


もしかしたら……!


ベッドから勢いよく跳ね起きた丈太郎の目に、強い意志の火が宿る。 塞ぎ込んでいた彼の絶望の暗闇に、一条のまばゆい光が差し込んだ瞬間だった。


だが、その光は同時に、彼に冷酷な現実を突きつけていた。 もし本当にこの方法で異世界へ帰還できたとして――帰還術式はもう使えない…紗菜の魔石がない。再び日本へ戻ってくる手段はもうない。 それはすなわち、父や母、そして愛犬のロッキーとの永遠の別れを意味していた。


丈太郎はベッドに腰を下ろし、両手で顔を覆った。 日本での平和な日々。温かい家族の団欒。それを捨てる覚悟が、自分にあるのか。 しばらくの間、静寂の中で自問自答を繰り返した。 だが、胸の奥で燻り続けていた思いは、もうごまかしきれなかった。


(俺の居場所は……フィリスさんの隣だ)


丈太郎は顔を上げると、真っ直ぐな眼差しで立ち上がった。 逃げるように消えるわけにはいかない。きちんと真実を話し、別れを告げなければならない。


その日の夜。 夕食を終え、リビングでテレビを見ている両親の前に、丈太郎は静かに座った。 足元ではロッキーが気持ちよさそうに丸くなっている。


「父さん、母さん。……大事な話があるんだ」


いつになく真剣な丈太郎の声音に、母は編み物の手を止め、父はテレビから視線を外した。 「どうしたの、改まって」 母が不思議そうに首を傾げる。


丈太郎は深く息を吸い込むと、ゆっくりと語り始めた。 あの日、マウンテンバイクで崖から落ちたこと。気がつくと異世界の森にいたこと。そこで一年間、魔物と戦いながら生き抜いてきたこと。そして、帰還の魔法によって、落ちた直後の時間に戻ってきたこと。


「……だから、俺にとってこの数ヶ月は、一年以上ぶりの日本だったんだ。……そして、俺は、向こうの世界に……戻りたいと思ってる」


すべてを話し終えたリビングには、重い沈黙が落ちた。


やがて、母がひきつったような笑い声を漏らした。


「……な、なに言ってるのよ、丈太郎。変な冗談はやめてよ。異世界だなんて……アニメやゲームじゃあるまいし」


「冗談じゃない。全部本当のことだ」


丈太郎の真っ直ぐな瞳を見て、母の笑顔が凍りついた。


「嘘……嘘でしょ? 丈太郎、あなた頭でも打ったの? それともストレスで……ああ、どうしよう、この子おかしくなっちゃった……!」


パニックになった母は、隣で黙って話を聞いていた父へと矛先を向けた。


「あなた! あなたが休日にいつもリビングでファンタジーのゲームばかりやってるから、丈太郎が影響されちゃったじゃないの! どうするのよ!」


「おいおい、俺のせいかよ」


父は困ったように頭を掻いたが、その目は少しも笑っていなかった。 父は丈太郎の目をじっと見据え、低く、落ち着いた声で尋ねた。


「……本気なんだな、丈太郎」


「えっ……あなた、信じるの!?」


驚く母をよそに、父は静かに頷いた。


「ああ。こいつの目を見りゃわかる。嘘をついてる目じゃない。……それに、最近のお前を見ていて、どこか遠くに行っちまったような気がしてたんだ」


「父さん……」


父は、最初から丈太郎の言葉を信じてくれていた。 その不器用な優しさに、丈太郎の胸が熱くなる。


丈太郎は改めて、両親に向き直った。


「向こうの世界には、俺の帰りを待ってくれている人たちがいるんだ。そして何より……俺が一緒にいたいと心から思える人がいる。俺の背中を守り、導いてくれた……大好きな人が」


フィリスの眩しい笑顔を思い浮かべながら、丈太郎は言葉に熱を込めた。


「彼女の隣が、俺の本当の居場所なんだ。だから……行かせてほしい」


丈太郎の真摯な言葉と、決して揺るがない決意。 それを肌で感じ取った母は、次第に責める言葉を失い、両手で顔を覆って泣き崩れた。


「そんな……だって、行ったらもう二度と会えないんでしょ……? いやよ、そんなの……」


「ごめん、母さん……」


丈太郎は深く頭を下げた。


母は涙声で、すがるように丈太郎を見つめた。


「せめて……せめて高校を卒業してからじゃダメなの……? あと一年ちょっとじゃない……」


その涙に、丈太郎の心は激しく痛んだ。親不孝な息子だと、自分でも思う。 だが、丈太郎はゆっくりと、けれどはっきりと首を横に振った。


「ダメなんだ。今じゃないと……俺の心が、もたない。彼女のそばに行きたいんだ」


頑なな丈太郎の態度に、母は再び顔を覆った。 しばらくの間、リビングには母のすすり泣く声だけが響いていた。


やがて、父がそっと母の肩に手を置いた。


「……行かせてやろう」


「あなた……!」


「男が、大好きな女のために人生を懸けるって言ってんだ。親が止める権利なんてないさ。それに……俺たちが止めたところで、こいつは行くだろう?」


父は優しく、けれど寂しそうに笑った。


母は何度も首を振っていたが、丈太郎の決意の固さを誰よりも理解しているからこそ、やがて観念したように涙を拭った。


「……本当に、しょうがない子ね」


母は赤く腫れた目で、丈太郎を優しく見つめ返した。


「……大好きな人の側にいるのが、一番よね。……向こうに行っても、ちゃんとご飯は食べるのよ。怪我しないようにね」


「母さん……父さん……」


両親の深い愛情に触れ、丈太郎の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。


「ありがとう……本当に、ありがとう……!」


丈太郎は両親の前で深く、深く頭を下げた。 ロッキーが心配そうに丈太郎の顔を舐める。


家族との永遠の別れ。その悲しみを胸に抱きながらも、丈太郎は再び異世界へと旅立つ決意を固めたのだった。

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