第64章 絆
平和で、楽しくて、けれど胸の奥にぽっかりと穴が空いたような、どこか虚しい日常。
そんな日々が過ぎていき、気づけば季節は巡り、いつしか年末を迎えていた。
特段変わったことはない……と言いたいところだが、そうでもなかった。
問題は、俺の左腕だ。
あまりにも長期間、左腕にぐるぐると包帯を巻き続けているせいで、いつの間にか、
「あいつの包帯の下には闇の力が封印されている」
などというイカれた噂が定着してしまったのだ。おかげで、すっかり痛い厨二キャラが確立してしまった。どうかしている。
それでも、この包帯を外す気は更々なかった。
学校で目立つアクセサリーをつけていたら没収されてしまうし、何よりこの赤い宝石が輝くブレスレットは、俺にとって絶対に手放せない大切な物だからだ。
ただ、さすがに親友の大樹と、隣の席の塩原さんからの執拗な追及には耐えかねて、つい先日、二人にだけは事実を打ち明けた。
もちろん異世界の話は伏せたが、「大切な物だから外せないんだ」と言って、こっそりと包帯をめくり、白金色の細身のブレスレットを見せたのだ。
「わぁ……綺麗ー!」
菱形にカットされた深紅の宝石を見て、塩原さんは目を輝かせて感動していた。
一方の大樹はといえば、
「なんだよそれ。女からかー?」
と、ニヤニヤしながら俺の肩を小突いてきた。
あながち嘘ではない――というか、その言葉で真っ先に脳裏に浮かんだのは、青い瞳をした彼女の顔だった。そのため、俺は否定も肯定もできず、ただ苦笑いしてはぐらかすしかなかった。
そして、いつもの年末がやってきた。
母の作ったおせちを楽しみ、お雑煮を食べ、こたつで家族みんなと紅白を見る。足元には愛犬のロッキーが丸くなっている。
当たり前だったはずのその景色が、今は何よりも特別で、ありがたかった。
年始には、家族揃って地元の神社へ初詣に向かった。
『第六天神社』――。
あの日、自分が異世界へと召喚された場所の近くだ。
(ここの神様のおかげで、俺にあの力が身についたのか……)
あらゆる厄災を退ける《絶対防御》。
理の違う世界で、その規格外の力にどれだけ助けられたか分からない。あの力があったからこそ、自分は無事に生還できたのだ。
丈太郎は賽銭箱の前に進み出ると、姿勢を正し、いつもよりずっと強い感謝の気持ちを込めて手を合わせた。
(あなたのお陰で、無事に帰ってこれました。ありがとうございました)
パン、パンと柏手を打つ音が、冬の澄んだ空気に静かに響き渡った。
次の日は横浜にある父の実家へ向かった。毎年の恒例行事であり、ここでお年玉をもらうという重要なミッションがあるのだ。
それと、もう一つ楽しみがあった。マウンテンバイクの大会会場で知り合った友達の逸郎と会う約束をしていたのだ。寡黙な丈太郎にも気さくに声をかけてくれ、いつの間にか仲良くなった彼は東京に住んでいる。
1月3日。丈太郎は無事にゲットしたお年玉を財布に忍ばせ、東京へと向かった。
駅で逸郎と合流すると、彼はまだ初詣に行っていないらしく「せっかくだから神社に行こうぜ」と言い出した。
二人がやってきたのは、東京大神宮だった。
三が日ということもあり、境内は初詣の参拝客でごった返している。丈太郎と逸郎は賽銭箱へと続く長い列に並び、順番がくると静かに手を合わせた。
丈太郎の左腕で、長袖の隙間から白金色のブレスレットがチラリと顔を覗かせた。中央に嵌め込まれた赤い宝石が、冬の陽光を受けて静かに輝いている。
お参りを終え、人混みを少し離れた場所で息をつく。
「いやー、混んでたな。でもここ、縁結びの神様なんだぜ。それに『万物創造』の神様も祀られてるらしいし、ご利益ありそうだろ?」
逸郎が自慢げに教えてくれる。
「万物創造……」
その言葉の響きに、丈太郎の胸の奥が微かにざわめいた。たしか、どこかで聞いたような……。
「ちょっと破魔矢買ってくるわ。丈太郎、そこで待ってて」
逸郎はそう言って、販売所の列へと駆けていった。
一人残された丈太郎が、ぼんやりと境内を見回していた、その時だった。
「あのー。ちょっといいですか?」
突然、横から女性の澄んだ声がした。
「はい?」
丈太郎は振り向き――言葉を失った。
「そのブレスレット、とても綺麗ですね。どこで買ったか教えてもらえませんか?」
黒髪の、二十代ほどの女性。
その顔には、見覚えがあった。ありすぎるほどに。
そこには、唐沢紗菜がいた。
「あ、あ……」
あまりの出来事に、声が喉に張り付いて出てこない。心臓が早鐘を打ち始める。
「おい紗菜、突然見知らぬ人に失礼だろう!……なんかすみません!」
後ろから慌てて駆け寄ってきたのは、鈴木仁だった。
「え、あ、え?」
「だってー、すっごく綺麗なブレスレットだったから、つい……」
「まったく、おまえは……」
間違いない。仁と紗菜だった。
異世界の迷宮の底で、過酷な運命の中でも静かに微笑み合っていた二人。
『僕たちがこの世界に来たのは、2026年』――仁の言葉が脳裏にフラッシュバックする。
目の前にいるのは、まだ異世界へ召喚される前の、生身の仁と紗菜だったのだ。
──『そう…だね。また会える』
迷宮で別れ際に言った仁の言葉の意味。
理解した瞬間、丈太郎の目から自然と涙が溢れ出した。
「えっ……あの、ごめんなさい! 突然話しかけたりして、驚かせちゃいましたよね……!」
突然泣き出した丈太郎にびっくりして、紗菜が訳もわからない様子で慌てて謝る。
「い、いえ……なんでも……ないですから……気にしないで下さい……」
丈太郎は必死に涙を拭いながら、震える声で答えた。
「このブレスレットは……貰いものなので……お揃いで……もう一つは、青の宝石が……」
「そ、そうなんですね! 彼女さんとお揃いなんて素敵ですね。ごめんなさい、変なこと聞いて」
紗菜は少し残念そうに眉を下げたが、すぐに柔らかく微笑んだ。
「ほんと、突然すみませんでした。ほら、行くぞ紗菜」
「うん……」
仁が軽く頭を下げ、紗菜を促して歩き出す。二人は初詣の賑わいの中へと去っていく。
「ねえ、仁。あのブレスレット、私につくってよ」
「無茶いうなよ」
そんな何気ない、けれど幸せそうな会話が風に乗って聞こえてきた。
(この先、あの二人は魔女セラフィーナによって召喚されてしまうんだ。理不尽にも……)
今、ここで事実を話して引き止めれば、二人を救えるかもしれない。異世界で肉体を失い、魂だけの存在になるという過酷な運命を変えられるかもしれない。
(でも……それは……俺はどうすれば……!)
丈太郎が思わず一歩踏み出そうとした、その時。
別れ際の仁の言葉が、鮮明に甦った。
『丈太郎くん、君は間違ってない。それに僕達はとても幸せだよ』
涙が、止まらなかった。
迷宮で初めて会った時、二人はどこか懐かしむような瞳で丈太郎を見ていた。
『お会いしたことありましたっけ?』という問いに、仁は『いや、ごめん。こっちの話』と笑ってごまかしていた。
仁と紗菜は、ここで俺に会った事を、五百年間ずっと覚えていたのだ。
そして、紗奈にせがまれて、このブレスレットを創り出したのだ。
「ね! 仁! ここで結婚式挙げようよ!」
「俺もそう思ったとこ」
遠ざかる二人の背中から、そんな弾むような声が聞こえた。
彼らはここで結婚式の約束をし、やがて打ち合わせの帰りに事故に遭い、異世界へと旅立つのだ。
それが悲劇の始まりだとしても。二人が「幸せだ」と笑ってくれた未来に繋がっているのなら。
丈太郎は溢れる涙を拭うこともせず、ただただ、寄り添って歩く二人の後ろ姿を静かに見送っていた。
冬の陽光の下、その背中が人混みに紛れて見えなくなるまで。




