第62章 フィリスの旅立ち
丈太郎が光の奔流に飲み込まれ、元の世界へと帰還してから、どれくらいの時間が経っただろうか。
フィリスは帝都の自宅で、まるで心にぽっかりと穴が空いたような虚無感に包まれながら日々を過ごしていた。彼が残していった冒険者の服や巨大なリュックを見るたびに、胸が締め付けられる。
「……バカね、私」
何度ため息をついただろう。それでも時間は残酷なほど静かに流れていった。
やがて半月が過ぎた頃、帝都にある知らせが届く。星の神殿から徒歩で帰還の途についていた神殿騎士団が、ようやく帝都にたどり着いたのだ。
そしてすぐに、魔術師ギルドマスターであるセラフィーナとフィリスは、教皇の御前へと呼び出された。
荘厳な大聖堂の謁見の間。教皇の前に、セラフィーナとフィリス、そして神殿騎士団の副官がひざまずいていた。
問題となったのは、Sランクである神殿騎士団長ユリウスが倒されたという前代未聞の事態である。
しかし、副官の口から語られたのは、フィリスたちを全面的に援護する内容だった。
「すべては、ユリウス団長の暴走が招いた事態にございます。我々の制止も聞かず、対ドラゴン用に構築した『ドラゴン級拘束術式』を人に向けて使用するという禁忌を犯しました。それを、フィリス殿と彼女の連れの方が止めてくださったのです」
副官は冷や汗を流しながら必死に証言した。彼らはまだ、フィリスがハッタリで口にした『炎の呪縛術式』が自分たちに刻まれていると固く信じ込んでいるのだ。
続いてフィリスが、古赤竜の件について報告した。
「星の神殿に棲みついていた古赤竜ですが、無事に説得を終えました。現在は魔力を抑え、小さな姿となって神殿の隅で眠っています。また、帝都の神事の際には、これまで通り神殿を使用することも認めてもらいました」
その報告に、教皇は驚きと喜びの声を上げた。
さらにセラフィーナが、艶やかな笑みを浮かべて口を開く。
「神殿騎士団には星の神殿を私の管理下に置くと伝えてもらいましたが、事態が収束した今、管理権は教皇聖下にお戻しいたしますわ」
教皇は深く頷いた。伝説の古竜種である神の竜が大人しく鎮座し、神事の際に見守ってくれるとなれば、星の神殿の権威と格は以前よりもさらに上がることになる。
その多大な功績により、ユリウスを叩きのめした件は完全に不問に付されることとなった。
一方、ユリウス本人はというと――。
魔力を持たないただの青年に己のすべてを否定され、完全に自我が崩壊した彼は、帝都に戻ってからも廃人のように虚ろな瞳のままだった。
しかし、Sランクは一度認定されると降格がないという絶対的な制度がある。結果として彼は、前線を退きながらも「伝説のSランク」として、どこか皮肉な形でその名を残すことになったのだった。
すべての報告を終え、魔術師ギルドのマスター室へと戻った後。
セラフィーナは、いつになく気怠げな様子で窓の外を眺めているフィリスに、優しく声をかけた。
「……フィリス。あなた、最近ずっと元気がないわね」
「え? そんなことないですよ、先生。いつも通りです」
フィリスは無理に快活な笑顔を作ってみせたが、偉大な恩師の目は誤魔化せなかった。セラフィーナはふうと艶やかなため息をつく。
「丈太郎がいなくなって寂しいのは分かるわ。もしよかったら、この魔術師ギルドで教官でもしてみないかしら? 後進の育成に力を注げば、少しは気も紛れるでしょう」
「教官、ですか……」
フィリスはふと、丈太郎と過ごした日々を思い出した。
彼に剣の握り方を教え、冒険者の心得を説き、共に焚き火を囲んで笑い合った日々。
彼という、たった一人の不器用で最高な弟子を持てただけで、自分は十分に満たされていた。
「先生、お誘いは嬉しいですが……お断りします」
フィリスは真っ直ぐにセラフィーナを見つめ返した。その青い瞳に、久々に強い光が宿る。
「やっぱり私には、ひとつの場所に留まるのは性に合ってないみたいです。……また、各地を放浪する旅に出ようと思います」
セラフィーナは少し驚いたように目を瞬かせたが、やがてすべてを察したように妖艶な微笑みを浮かべた。
「そう。……あなたらしいわね」
数日後。
フィリスは帝都の城門前に立っていた。いつもの黒い軽甲冑に身を包み、漆黒の大剣を背負う。
そして、腰には《抜かない剣》が寄り添うようにあった。
左手首には、彼が贈ってくれた白金色のブレスレットが、初夏の日差しを受けて澄んだ輝きを放っている。
「さあて……次はどこに行こうかしら」
見上げる空は、どこまでも青く澄み渡っていた。
彼のいない世界。それでも、彼と歩んだ記憶は確かにこの胸に刻まれている。
フィリスは前を向き、新たな風に向かって力強く歩み出した。




