第61章 帰還
視界を完全に白く染め上げた光の奔流が、不意にフッと途切れた。
直後、猛烈な風圧と重力が全身を叩きつける。
「うわっ!」
気がつくと、目の前には青々とした草木と、見慣れた山の斜面が猛スピードで迫っていた。
思わず目をきつく閉じる。
――だが、いつまで経っても激突の痛みは訪れなかった。
恐る恐る目を開ける。
丈太郎は、山の斜面の草むらに放り出されるようにして倒れ込んでいた。
「絶対防御」の力が、崖から転落した衝撃を完全に無効化してくれたのだろう。
ゆっくりと上体を起こし、周囲を見回す。
夏のむせ返るような緑の匂い。やかましいほどのセミの鳴き声。
間違いない。小学生の頃から走り慣れた、近所の裏山だ。
「……帰ってきたんだ……!」
すぐそばでは、ひっくり返った愛車のマウンテンバイクが、カラカラと後輪を空回りさせていた。
その音を聞いて、丈太郎は周りを見渡す。
異世界では一年近くの時間が経っていたはずなのに、まるでつい数秒前に転んだばかりのような光景だ。
ズボンのポケットに違和感を覚え、そっと手を入れる。
そこから取り出したスマートフォンを見て、丈太郎はさらに目を見開いた。
異世界の森で確認したときは、画面がバリバリに割れて真っ暗だったはずだ。それなのに今はヒビ一つなく、新品同様の綺麗な状態に戻っている。
電源を入れると、見慣れた待ち受け画面が点灯した。時計の表示は、あの日家を出た時間からほんの数十分しか進んでいなかった。
(時間が……戻ってる……?)
世界の理が、どうにか辻褄を合わせたのだろうか。
まるで、あの一年間の冒険がすべて一瞬の白昼夢だったかのように、日本での時間は止まっていたのだ。
丈太郎はそっと左腕を上げた。
袖口から覗くのは、白金色の細身のブレスレット。中央に嵌め込まれた赤い宝石《絆の石》が、木漏れ日を受けて静かに、力強く輝いている。
すべてが元通りになったこの世界で、これだけが――あの世界に自分が確かに存在し、背中を預け合える最高の相棒と共に生きた、たった一つの証だった。
「フィリスさん……俺、帰ってこれましたよ」
赤い宝石をそっと親指で撫でながら、丈太郎は小さく呟いた。
胸の奥に、頼もしくも美しい師匠の笑顔が思い浮かぶ。
丈太郎はマウンテンバイクを起こすと、ゆっくりとペダルを踏み出した。
舗装されたアスファルトの感触。電柱の並ぶ道。自販機の並ぶ見慣れた通学路。
当たり前だった一つひとつの景色が、今はたまらなく愛おしい。
やがて、坂道を下りきった先に、見慣れた我が家の屋根が見えてきた。
無口だけど優しい父と、いつも美味しいご飯を作ってくれる母が待つ場所。
「……ただいま」
誰にともなくそう呟き、丈太郎はペダルを踏む足にぐっと力を込めた。
今日は日曜日。
休日なら、家にはみんないるはずだ。
丈太郎は、はやる気持ちを抑えきれず、マウンテンバイクを押しながら見慣れた我が家の庭先へと足を踏み入れた。
「ほーらロッキー、こっちよー!」
庭では、エプロン姿の母が、愛犬の黒いラブラドールレトリバー・ロッキーと楽しそうに戯れていた。
夏の日差し、母の笑い声、そして尻尾をちぎれんばかりに振るロッキーの姿。
丈太郎が異世界で、何度も何度も脳裏に思い描いた「当たり前の日常」が、そこにあった。
鼻の奥がツンと熱くなり、視界が滲む。
「……あら、お帰りなさい丈太郎」
自転車の音に気づいた母が振り返り、いつもの調子で声をかけてくる。
丈太郎は、震える声を必死に押し殺し、一言だけ絞り出した。
「……ただいま」
言葉にした瞬間、胸の奥に押し込めていたものが決壊しそうになる。
ぽろり、と一粒の涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。
「丈太郎!? ちょっと、泣いてるの? どうしたの、大丈夫!? どっかで派手に転んだの!?」
母の感覚では、息子はほんの数十分前にマウンテンバイクで遊びに出かけたばかりなのだ。急に泣きながら帰ってきた息子を見て、慌てて駆け寄ってくる。
ロッキーも心配そうに「クゥン」と鳴きながら、丈太郎の膝にすり寄ってきた。
その温かい毛並みの感触に、丈太郎は口元を無理やりほころばせる。
「なんでもないよ。……ちょっと目にゴミが入っただけ。ごめん、大丈夫だから」
「ほんとに? 怪我してない?」
「うん、平気」
心配そうに顔を覗き込んでくる母を背に、丈太郎は逃げるように家の中へと入った。
冷房の効いた涼しいリビング。
そこには、ソファに寝転がり、テレビの画面に向かってコントローラーを握る父の姿があった。休日のいつもの光景だ。
「お! お帰り丈太郎! みてくれよこれ、このボスドラゴン、めちゃくちゃ強いんだよ!」
画面の中で暴れ回るポリゴンのドラゴンを見ながら、父が無邪気に興奮している。
その姿を見て、丈太郎は一瞬、本物の古赤竜の圧倒的な熱線や、自分を乗せて空を飛んでくれたピーちゃんの姿を思い出した。
「……ただいま」
どんな強大な魔物より、どんなに美しい異世界の景色より、休日にゲームで熱くなっている父の背中が、今はたまらなく尊かった。
「おー、冷蔵庫に麦茶あるぞー」
画面から目を離さずに返す父の声を背中で聞きながら、丈太郎は階段を上り、自分の部屋のドアを開けた。
見慣れたベッド。散らかったままの机。
あの日、家を出た時と何一つ変わっていない自分の城。
ドアを閉めた瞬間――。
張り詰めていた糸が、完全に切れた。
(……帰ってきた。帰ってきたんだ……!)
異世界での過酷な旅。野盗の恐怖、迷宮での死闘。
アンクたちにもらった家族の温もり。
そして、最後まで自分の背中を守り、見送ってくれた、誇り高くも優しい師匠の笑顔。
すべてが走馬灯のように駆け巡る。
丈太郎はベッドに崩れ落ち、声を殺して泣いた。
自分でも何に対する涙なのかわからなかった。
生きて帰ってこれた安堵感なのか、あの世界に置いてきた相棒への寂しさなのか。
ただ、溢れる涙を止めることなど、今の彼にはできなかった。




