第60章 別れ
フィリスに抱き起こされたセラフィーナは、ゆっくりと自力で立ち上がった。しかし、その足元はおぼつかなく、フィリスが慌てて華奢な身体を支え直す。
彼女が立っているのもやっとの状態であることが、痛いほど伝わってきた。五百年前からの悲願がついに達成された安堵も相まって、極限まで魔力を振り絞ったセラフィーナの体力は、すでに限界を迎えていた。
巨大な魔導板から顔を上げたリシェルが、大きく息をついて報告する。
「術式の定着と安定、完全に確認しました。……あとは、丈太郎さんがお持ちの『紗菜様の魔石』を中央の核に設置して起動させるだけです。そうすれば、ワームホールが開きます……でも……」
そう言って、リシェルは隣で息も絶え絶えになっているセラフィーナへと視線を向けた。
セラフィーナは気怠げな紫の瞳を伏せ、申し訳なさそうに言葉を詰まらせる。
「……ごめんなさい、ボウヤ。紗菜の魔石には、私の魔力でないと解除できない暴発防止のロックが掛かっているの。でも、いまの私の状態では……」
その言葉に、丈太郎は懐に手を入れた。
服の内ポケットには、紗菜から託された魔石の入った小さな巾着袋がある。布越しにも、限界まで圧縮された莫大な魔力が淡く脈打っているのがわかった。
これをあの魔法陣の中央に置き、ロックを解除できれば、元の世界へ帰ることができる。丈太郎は巾着袋を握りしめ、神秘的な光を放ち続ける祭壇の魔法陣を見つめた。
そして、今にも倒れそうなセラフィーナと、彼女を懸命に支えるフィリスとリシェルへと視線を移す。
「……丈太郎くん? どうしたの?」
立ち止まったままの丈太郎に、フィリスが不思議そうに小首を傾げた。
丈太郎は小さく息を吸うと、巾着袋の紐をきゅっと結び直し、再び懐の奥深くにしまった。
「……今日は、ここまでにしましょう」
「えっ?」
「セラフィーナさん、完全に魔力切れで限界みたいですし。それに……こんな慌ただしいまま、すぐにお別れするなんて、なんだか嫌ですから」
丈太郎が少し照れくさそうに苦笑いして言うと、フィリスは驚いたように青い目を見開き――やがて、どこか嬉しそうに吹き出した。
「もう……。本当に、変なところで律儀なんだから」
「ふふっ、丈太郎さんらしいですね」
リシェルも肩の力を抜いて柔らかく笑い、セラフィーナの身体をしっかりと支え直す。
「……悪いわね、ボウヤ。私の都合で待たせてしまって。明日には回復するから」
セラフィーナがかすれた声に申し訳なさを滲ませて言うと、丈太郎は力強く首を横に振った。
「とんでもないです。先生たちが命懸けで完成させてくれたんですから、一日くらいどうってことありません。……俺の帰還は、明日にしましょう」
「ええ、そうね。今日は帰ってゆっくり休んで……明日は私たちで、最高の見送りをしてあげるわ!」
フィリスがいつもの快活な笑顔に戻り、丈太郎の背中をバンと叩いた。
神秘的な光を放ち続ける帰還術式の魔法陣を星の神殿の祭壇に残し、四人は転移魔法陣へと向かう。
丈太郎がこの異世界で過ごす、本当に最後の夜が始まろうとしていた。
眩い転移の光が収まり、四人は帝都魔術師ギルド五十階、マスター室の隣部屋へと帰還した。
極限まで魔力を消費したセラフィーナの顔には色濃く疲労が滲んでおり、すぐさまリシェルがその身体をしっかりと支える。
「私が先生を自室までお送りします」
「お願いね、リシェル。先生もゆっくり休んで下さい」
フィリスが気遣うように声をかけると、リシェルはこくりと頷いた。
「はい。フィリスさん、丈太郎さんも……また明日」
リシェルがセラフィーナに肩を貸し、部屋から出ようと歩きはじめた、その時。
ふと、セラフィーナが足を止め、気怠げな紫の瞳を丈太郎に向けた。
「……丈太郎」
「はい」
かすれた、けれど芯のある艶やかな声に、丈太郎は思わず背筋を伸ばす。
「帰還の前に、一つだけ忠告しておくわ。……理の違う世界っていうのはね、それぞれ違う色を持った『水槽』みたいなものよ」
セラフィーナは少し息をつきながら、諭すように静かな言葉を紡ぐ。
「あなたは元々向こうの水だから、帰ってもスッと馴染むわ。けれど……この世界の物を向こうへ持ち込めば、違う色のインクを一滴落とすようなもの。世界が『異物が入ってきた』と拒絶して、波風を立てて無理やり洗い流そうとするのよ」
その言葉の重みに、丈太郎はごくりと息を呑んだ。
「だから、持ち込むインクは少なければ少ないほどいい。……わかるわね?」
丈太郎が真剣な眼差しで深く頷くのを確認すると、セラフィーナはふわりと妖艶な笑みを浮かべた。
「いい子ね。……それじゃ、また明日」
そう言い残し、セラフィーナはリシェルに支えられながら、静かに自室へと向かっていった。
魔術師ギルドを出た丈太郎とフィリス。
夜の帝都へと出た二人は、無言のまま石畳の通りを歩き続けていた。
街路を照らす魔力灯の淡い光が、白亜の街並みを幻想的に浮かび上がらせている。
明日には、完成した帰還術式を通って元の世界へ帰る。
お互いに話したい事、伝えたい事は山ほどあるはずなのに、いざとなると言葉が出てこない。
ただ、二人の足音だけが静かに夜の街に響いていた。
やがて、閑静な住宅街にあるフィリスの家へと辿り着く。
玄関をくぐり、ダークブラウンを基調としたシックなリビングに入ると、フィリスがふうと小さく息を吐いた。
「ちょっと着替えてくるわね。適当に座ってて」
「あ、はい」
フィリスが奥の部屋へと向かうのを見送り、丈太郎は促されるままふかふかのソファに腰を下ろす。
静かな部屋の中で、明日ついにこの世界とお別れなのだという実感が、じわじわと胸に迫ってきていた。
しばらくして、フィリスがリビングに戻ってきた。
いつものゆったりとした薄手の部屋着へと着替えている。無造作にまとめられていた金髪もほどかれ、ふわりと肩に掛かっていた。見慣れたはずのその無防備な姿に、丈太郎は小さくドキリとする。
フィリスは壁際の棚から年代物のボトルを取り出すと、二つのグラスに琥珀色の液体を注いだ。
「あの、フィリスさん。俺、お茶で……」
「今日は特別。最後なんだから、付き合いなさいな」
フィリスは少し強引にグラスを一つ丈太郎の前に置き、隣に腰を下ろす。そして、グラスをそっと揺らしながら、ふと口を開いた。
「ねえ、丈太郎くん。あなたのいた世界の事、教えてくれない?」
「え?」
予想外の問いに、丈太郎は思わず聞き返した。
出会ってから今日まで、フィリスが丈太郎のいた日本のことについて、深く踏み込んでこようとしたことはなかったからだ。
「いままで、あまり詳しく聞かなかったでしょ。……丈太郎くん、家族のこととか元の世界のこと考えてるとき、すごく寂しそうな顔するからさ。なんとなく、聞けなかったのよ」
フィリスは少し照れくさそうに視線を逸らすと、グラスをそっと揺らし、静かな声で続ける。
「でも、明日には帰れるんだし。最後くらい……あなたのいた世界がどんなところだったか、教えてよ」
「フィリスさん……」
いつも豪快で、前を歩き続けてくれた師匠。その内側に秘められていた、自分への細やかな気遣いと優しさに触れ、丈太郎の胸の奥がじんわりと熱くなった。
言葉に詰まりそうになるのをこらえ、丈太郎はまっすぐにフィリスの青い瞳を見つめ返す。
「……もちろんです。日本のこと、俺の家族のこと……なんでも聞いて下さい!」
丈太郎が満面の笑みでそう答えると、フィリスもまた、花が咲くような明るい笑顔を見せた。
丈太郎は、言葉を探しながらゆっくりと自分のいた世界のことを語り始めた。
魔力がない代わりに科学技術が発展した世界のこと。空を飛ぶ鉄の塊、遠く離れた人と顔を見て話せる小さな板、自動で走る鉄の箱。
フィリスはグラスを片手に、まるで新しい冒険譚を聞く子供のように目を輝かせ、「それってどんな魔道具なの!?」と身を乗り出しては質問を重ねた。
無口だが優しい父、いつも美味しい弁当を作ってくれた母、足元にすり寄ってくる愛犬のロッキー。そして、学校でのたわいない日常。
言葉にするたび、丈太郎の胸の中にあった日本の輪郭が、鮮明に色づいていく。
フィリスはうんうんと優しく相槌を打ちながら、そのすべてを温かく受け止めてくれた。
尽きることのない二人の語らいは、夜の静寂を溶かし、やがて白み始めた空へと溶け込んでいった。
小鳥のさえずりと、窓の隙間から差し込む初夏の柔らかな朝日で、丈太郎はゆっくりと目を覚ました。
「……寝てしまったのか……」
ふかふかのソファに座ったまま、どうやら話の途中で意識を手放していたらしい。
ふと、自分の太ももに温かく、柔らかな重みがあることに気づく。
視線を落とすと――丈太郎の膝を枕にするようにして、フィリスが丸くなって眠っていた。
「えっ……」
驚きのあまり声が出そうになるが、慌てて口をつぐむ。
薄手の部屋着姿で、艶やかな金髪が丈太郎の膝の上にふわりと散らばっている。普段の隙のないAランク冒険者としての姿からは想像もつかないほど、無防備で穏やかな寝顔だった。
かすかに規則正しい寝息が聞こえ、長いまつ毛が朝日に透けて金色の輝きを放っている。
丈太郎は、その息を呑むほど美しい寝顔をじっと見つめた。
(……このまま、時間が止まればいいのに)
フィリスと離れたくない。その気持ちは、確かに胸の奥に強く存在している。彼女の背中を追いかけ、共に笑い合ったこの異世界での日々は、丈太郎にとってかけがえのない宝物だ。
しかし――昨夜、一晩中フィリスに日本のことを語ったことで、丈太郎の心は不思議なほど澄み切っていた。
父と母が待つ家。見慣れた通学路。自分の根っこがある場所。
(俺の居場所は、やっぱり日本だ。……帰ろう)
未練を断ち切るように、丈太郎は小さく、けれど力強く息を吐いた。そして、できるだけ優しい声でそっと彼女の肩に触れる。
「……フィリスさん。朝ですよ」
「んん……うー……ん……」
とろんとした目で丈太郎を見上げ、自分がどこで寝ていたのか気づいた瞬間――。
「わっ!? ご、ごめん! 私ったら、丈太郎くんの膝で……!」
フィリスは慌てて飛び起き、顔を真っ赤にして乱れた髪をかき上げた。
「寝ちゃったんだ……もう朝かー」
照れ隠しのように大きく伸びをして、窓の外の眩しい日差しから目を細める。
「はい。着替えて、セラフィーナさんたちのところへ行きましょう」
丈太郎が真っ直ぐな笑顔で言うと、フィリスは一瞬だけ寂しそうな目を伏せた。しかし、すぐにいつもの快活な笑みを作って力強く頷いた。
「……ええ! わかったわ!」
フィリスは自分の部屋へと向かい、丈太郎も身支度を整えるため客室へと歩き出した。
帰還の朝が、静かに始まっていた。
朝の静けさの中、丈太郎は袖を通した服の感触を確かめていた。
ルノア村でテラに綺麗に洗濯してもらい、ずっと巨大リュックの底にしまっていた日本の服だ。身なりを整え、静寂に包まれたリビングでフィリスを待つ。
やがて、扉が開く音がしてフィリスがリビングに姿を現した。昨日までのドレス姿や部屋着ではなく、いつもの黒い軽甲冑と漆黒の大剣を背負った、冒険者としての出で立ちだった。
だが、丈太郎の姿を認めた瞬間、フィリスはハッと目を見開いた。
「丈太郎くん……その格好……」
「はい。俺が、この世界にやってきた時の格好です」
丈太郎は少し照れくさそうに笑った。
「セラフィーナさんに言われた通り、異物はできるだけ向こうに持ち込まないようにします」
そして、丈太郎は真っ直ぐにフィリスを見つめた。
「だから……俺が元の世界に持っていくのは、これだけにします」
そう言って、丈太郎はそっと左腕を上げた。
袖口から覗くのは、白金色の細身のブレスレット。中央には、菱形にカットされた赤い宝石が一粒、朝の光を受けて静かに輝いていた。
フィリスの青い瞳が揺れる。
「それって……」
「はい。……フィリスさんのと、お揃いです」
丈太郎は鼻の頭を掻きながら、照れくさそうに視線を逸らした。
「本当は誕生日にこっちを渡すつもりだったんですけど……赤は、フィリスさんの色だから。手放せなくて。お揃いだと知られるのが気恥ずかしくて、今までずっと隠してました」
フィリスの左手首にも、彼が贈った色違いの青い宝石が静かに光っている。
「このブレスレットは《絆の石》っていいます。迷宮で、仁さんたちから貰ったんです。所有者が生命の危機に陥ったとき、身代わりになってくれるお守りなんだそうです」
「そう、なんだ……」
「俺は……この赤い石を、フィリスさんだと思って生きていきます。元の世界に帰っても、ずっと」
その言葉に、フィリスの肩が小さく震えた。
「丈太郎くん……」
いつもは快活で、どんな強敵の前でも揺るがなかった彼女の瞳に、大粒の涙が浮かぶ。それでも彼女は、泣くまいと必死に唇を噛み締め、誇り高き師匠としての笑顔を作ろうとしていた。
「フィリスさん。……今まで、本当にありがとうございました」
丈太郎は深く、ありったけの感謝と敬意を込めて頭を下げた。
涙を必死にこらえるフィリスの頬を、一筋の雫が伝い落ちる。
「うん……っ。丈太郎くんも、元気でね……!」
重厚な黒檀の扉を開けると、そこにはすでにセラフィーナとリシェルの姿があった。
「おはよう、二人とも」
アンティークデスクに腰掛けるセラフィーナは、気怠げに足を組み替えながら艶やかな笑みを向けた。極限まで魔力を消費し、倒れ込んでしまった昨日に比べると、肌の血色も良く、すっかりいつもの『帝都の魔女』らしい威厳と余裕を取り戻している。
「おはようございます、先生。すっかり元気そうですね」
フィリスがいつもの快活な声で言うと、セラフィーナはふふっと笑った。
「ええ。一晩ゆっくり休んだら全快よ。昨日は少し見苦しいところを見せてしまったわね」
「おはようございます、丈太郎さん、フィリスさん」
傍らに控えていたリシェルもにこやかに挨拶を交わす。だが、彼女の視線はすぐに丈太郎の姿に釘付けになった。
「……丈太郎さん。そのお召し物は……?」
リシェルは不思議そうに目を瞬かせ、丈太郎の着ている日本の服をまじまじと見つめた。
「あ、これですか。俺のいた世界の服です。今日はこれだけで帰ろうと思って」
丈太郎が照れくさそうに答えると、リシェルは目を輝かせて身を乗り出した。
「まあ……! 魔法の糸や魔獣の素材が一切使われていないのに、とても機能的で精巧な作りをしていますね。裁縫の技術も、こちらの世界とは全く違うアプローチのようで……とても興味深いです」
天才魔術師らしい知的好奇心をくすぐられたのか、リシェルが感心したように見入っている。
「ふふ、リシェル。その辺にしておきなさい。……さあ、いよいよね」
セラフィーナが立ち上がると、部屋の空気が静かに引き締まった。
「はい」
丈太郎は短く、力強く頷いた。
四人はマスター室の隣部屋にある転移魔法陣に乗り、決戦の地である『星の神殿』へと移動した。
眩い転移の光が収まると、そこは厳かな空気が漂う祭壇広間だった。
広間の隅では、子犬サイズになった古赤竜が今日も丸くなってすぅすぅと平和な寝息を立てている。
そして中央の祭壇には、昨日フィリスとセラフィーナが命懸けで定着させた巨大な『帰還術式』の魔法陣が、神秘的な光の帯を放ちながら静かに起動の時を待っていた。
「……」
丈太郎は魔法陣を見つめ、ごくりと息を呑んだ。
「さあ、行きなさい。ボウヤ」
丈太郎はセラフィーナとリシェルの方を向く。
「セラフィーナさん、リシェルさん、本当にお世話になりました。ありがとうございました!」
「こちらこそ、あなたにどれだけ救われたか……」
セラフィーナの瞳が潤む。
「丈太郎さんのこと忘れません!ありがとうございました。お元気で……」
リシェルは泣いていた。
丈太郎は最後に、フィリスへと向き直った。
「フィリスさん……あの……本当にここまで……色々と……ありがとう…ございました」
感謝の言葉と共に、こらえきれなくなった涙が丈太郎の頬を伝い落ちる。
「もう……メソメソしないの。ここまで色々あったけど、楽しかったわ。あなたは私の自慢の弟子よ……さあ、行きなさい」
フィリスの笑顔はどこまでも眩しかった。
フィリスの言葉に促され丈太郎はゆっくりと歩みを進め、幾何学的な紋様が描かれた魔法陣の中心へと立った。
服の内ポケットから、小さな巾着袋を取り出す。中に入っているのは、五百年前の転移者である紗菜から託された魔石だ。
限界まで圧縮された莫大な魔力が、丈太郎の手の中でドクン、ドクンと鼓動のように脈打っているのを感じる。
「……これを、ここに」
丈太郎はそっと身をかがめ、魔法陣の中央にある核のくぼみへ、袋から取り出した魔石を静かに置いた。
セラフィーナが魔法陣の外から魔石に向かって手をかざす。
その瞬間――。
カァァァァンッ!!
紗菜の魔石が目を開けられないほどの強烈な輝きを放ち、それに呼応するように、床に刻まれた巨大な魔法陣のすべての回路に眩い光が走った。
広間全体が、白と青が入り交じった神秘的な光に包み込まれる。
「ロック解除、確認しました。術式起動……ワームホール、開きます……!」
魔導板を確認していたリシェルが、吹き荒れる魔力の風の中で叫んだ。
丈太郎の足元から空間そのものが歪み、重力を逆転させるような光の柱が天に向かって立ち上る。体がふわりと浮き上がり、世界の理の境界線が曖昧になっていくのが分かった。
「丈太郎くん!!」
強烈な光と風の中で、フィリスが叫んだ。
丈太郎は光の奔流の中で振り返り、ありったけの声を振り絞る。
「フィリスさん! セラフィーナさん、リシェルさんも! ……本当に、ありがとうございました!!」
高く掲げた左手首で、赤い《絆の石》が、フィリスの青い石と呼応するように一瞬だけ強く瞬いた。
「元気でね、相棒――ッ!!」
フィリスの涙混じりの笑顔と、力強い叫び声が響いた直後。
魔法陣がひときわ激しく閃光を放ち――丈太郎の視界は、完全に真っ白に染め上げられた。
真っ白に染まりきった視界がゆっくりと晴れていく。
神秘的な光の奔流が収まった後、星の神殿の広大な祭壇には、もう丈太郎の姿はどこにもなかった。
深い静寂だけが、残された三人の間を満たしている。
「……小僧の気配が、この理から完全に消え去ったな」
静寂を破ったのは、広間の隅で子犬サイズになって丸くなっていた古赤竜だった。
まぶたを薄く開けた金色の縦瞳孔が、誰もいなくなった魔法陣の中心を静かに見つめている。
その低く響く声に、呆然と立ち尽くしていたフィリスがハッと我に返った。
「……成功、したの……?」
祈るような、かすかに震える声。
巨大な魔導板を凝視していたリシェルが、大きく安堵の息を吐いて振り返る。
「はい。術式は最後まで安定軌道を保ち、完璧に機能しました。ワームホールは正常に閉じられています」
リシェルの力強い報告を聞き、セラフィーナは気怠げに、だがどこか愛おしそうに目を細めた。
「ええ。間違いないわ」
セラフィーナは、主を失い静かに光の残滓を漂わせる魔法陣へとゆっくり歩み寄る。
「五百年前……帰還術式の負荷に耐えきれなかった仁と紗菜は、肉体を失い、魂となってこの世界に留まるしかなかった。……けれど、今のここには、あのボウヤの魂の気配すら残っていない」
彼女の紫の瞳から、五百年もの間背負い続けてきた深い悔恨が、ふっと溶けて消えていく。
「見事に、この世界の理をはね除けてみせたわ。……大成功よ」
「……そう……。よかった……っ」
セラフィーナの言葉に、フィリスは張り詰めていた糸が切れたようにその場にへたり込んだ。
星の神殿から、どうやって帝都の家まで帰ってきたのか。フィリスには、その間の記憶がすっぽりと抜け落ちていた。
気がつけば、薄暗く静まり返った自宅のリビングにただ一人、立ち尽くしていた。
いつもなら心地よいはずの静寂が、今日は恐ろしいほどに広く、冷たく感じる。
フィリスは重い足取りで、昨日まで彼が使っていた客室の扉をゆっくりと開けた。
主を失った部屋は、しんと静まり返っている。
きれいに整えられたベッドの上には、かつて自分が彼に贈った黒い冒険者の服とカーキ色の外套が、しわ一つなく丁寧に折りたたまれて置かれていた。
その脇には、二人で旅をしたあの特注の巨大リュックと、柄に紅玉魔晶が輝く『抜かない剣』が静かに立てかけられている。
元の世界の服と、赤い《絆の石》だけを持ち帰った丈太郎。彼がこの異世界で得た思い出のすべてが、そこに残されていた。
「……バカね。全部、置いていくなんて」
フィリスはふらつく足でベッドに近づくと、折りたたまれた冒険者の服へ愛おしそうにそっと手を伸ばした。
指先に触れる布の感触。つい数時間前まで、彼はこれを着て、少し困ったような、けれど底抜けに優しいあの笑顔を向けてくれていたのに。
もう、彼はいない。
振り返っても、「フィリスさん」と呼ぶ声を聞くことも、あの真っ直ぐな瞳を見ることも、二度とできない。
堪えきれなくなり、フィリスは残された衣服をかき抱くようにして、ベッドに顔をうずめた。
柔らかなシーツから、かすかに丈太郎の匂いがした。
それが、彼が確かにここに存在していた証であり――同時にもう、この世界のどこを探しても彼には会えないのだという残酷な現実を、容赦なく突きつけてくる。
「あ……ああ……っ」
左手首で静かに光る青い《絆の石》を右の掌でぎゅっと握りしめ、フィリスは声を上げた。
「ああああぁぁぁぁぁぁッ!!」
ただ、ひたすらに泣いた。
彼と過ごした宝物のような日々を抱きしめながら、まるで迷子になった子どものように、声を枯らして泣きじゃくった。
静まり返った薄暗い部屋の中に、最愛の相棒を失った彼女の痛切な慟哭だけが、いつまでも、いつまでも響き渡っていた。




