第59章 完成
眩い転移の光が収まると、四人は星の神殿の入り口へと降り立っていた。
白亜の巨大な石柱がそびえ立つ荘厳な神殿の内部に向かって、四人は歩き出す。
「そういえば丈太郎くん、普通に転移してるけど、あなたの能力は転移には作用しないのね」
前を歩いていたフィリスが、ふと思い出したように振り返って呟いた。
「あ、そうですね……言われてみれば」
自分よりも大きな木箱を抱え、横からひょっこりと顔を出した丈太郎も不思議そうに首を傾げる。
「転移や召喚の術式は、対象の肉体に直接魔法をかけているわけではないんですよ」
不思議がる二人に、隣を歩くリシェルがにこやかに解説を入れた。
「あれは、対象がいる『空間』そのものを切り取って別の座標へと繋ぐ技術なんです。ですから、丈太郎さん自身に直接的な魔法の干渉や負荷がかかっているわけではないので、能力が発動しないのだと思います」
「なるほど! ギルドにある魔力式エレベーターみたいなものね」
フィリスがポンと手を打って、合点がいったように言う。
「箱ごと移動しているだけだから、中身には影響がないってことか」
丈太郎も元の世界のエレベーターを思い浮かべながら深く納得し、大荷物を抱え直して再び足を踏み出した。
四人は星の神殿の最奥――厳かな空気が漂う祭壇広間へと辿りつく。
「ただいま、おじいちゃん。ちょっとこれから騒がしくなるけど、勘弁してね」
フィリスが早速、広間の片隅で丸くなっている『赤い塊』――子犬サイズの古赤竜に向かって、明るく声をかけた。
古赤竜は目を閉じたまま、すぅすぅと小さな寝息を立てていたが、フィリスの声に反応するように、短い尻尾だけをピョコンと動かした。
「ま、まあ、可愛い……! これが、あの伝説の古竜種だなんて……信じられません!」
そのあまりにも愛らしい姿に、リシェルが両手を頬に当てて感激の声を上げる。
「古赤竜殿。我々の我儘を聞き入れていただき、感謝するわ」
セラフィーナは気怠げな仕草のまま、しかし確かな敬意を込めて艶やかに微笑みかけた。
だが、古赤竜は気持ちよさそうに喉を鳴らし、再び深い眠りへと落ちていく。
「……ふふっ。さあ、時間も惜しいわ。早速、帰還術式の準備を始めましょうか」
星の神殿の神聖な空気が漂う広間に、セラフィーナの艶やかな声が響いた。
その指示を合図に、四人はすぐさまそれぞれの持ち場へと散る。
リシェルは広間の中央――広大な祭壇の前へと進み出た。
彼女は指先に微かな魔力を集めると、床の石畳に向かって躊躇うことなく、複雑な帰還術式のコードと緻密な魔法陣を刻み始める。古代の術式を一寸の狂いもなく組み上げていく。
一方、フィリスと丈太郎は、運び込んだ機材のセッティングに追われていた。
「丈太郎くん、その大きな魔導板を祭壇の右側に設置して!」
「了解です! よいしょっと……」
総重量百キロを超えるような巨大な魔導板や定着用の機材も、彼は指示通りにひょいひょいと軽快に配置していく。
やがて、全ての大掛かりな準備が整った。
広間の中央には、幾何学的な模様と難解な古代文字がびっしりと羅列された、巨大で荘厳な帰還術式の魔法陣が完成していた。
「……完璧です」
額に薄っすらと汗をにじませながらも、リシェルは自身の描き上げた術式を真っ直ぐに見つめ、自信に満ちた声で告げた。
セラフィーナは気怠げな仕草で魔法陣の前に歩み寄ると、紫の瞳を細めて真剣な眼差しで術式を解析する。
「ええ。一寸の狂いもない、美しい術式ね。よくやったわ、リシェル」
偉大なる師からの労いの言葉に、リシェルは嬉しそうに表情をほころばせた。セラフィーナもまた、満足そうに深く頷いた。
「準備はいいかしら、フィリス」
セラフィーナが気怠げな足取りで歩み寄り、愛弟子の隣に立つ。
「はい、先生。でも……具体的にどう魔力を流し込めばいいんでしょうか。ただ力任せに注ぐだけじゃ、術式が壊れちゃうんですよね?」
普段は大剣に莫大な魔力を込めて「ぶっ放す」のが得意なフィリスだけに、少しだけ不安そうに眉を寄せる。
「ええ、その通りよ。ただ注ぐだけなら許容量を超えて大爆発。星の神殿ごと吹き飛ぶわ」
セラフィーナは事もなげに恐ろしいことを言うと、優雅な手つきで空中に見えない何かを紡ぐような仕草をした。
「いいこと? やる事自体はとても単純な作業よ。あなたの莫大な魔力を『糸』に見立てて、この魔法陣という『布』に一本一本、丁寧に織り込んでいくだけ」
「糸を……織り込む……」
「そう。だけど、その糸は太すぎても細すぎてもダメ。常に一定の出力を保ったまま、魔法陣の隅々の回路まで均等に、何層にも重ねて編み上げていくの。少しでも魔力の供給にムラができたり、ほころびが出れば、そこから術式の連鎖崩壊が始まるわ」
極めて単純な反復作業。だが、それを莫大な魔力で行い、なおかつ一切のブレも許されない。
まさに針の穴に糸を通し続けるような、異常な集中力と精密な制御が求められるのだ。
フィリスはごくりと唾を飲み込んだ。
「……すごく繊細ですね。私に、そんな器用なマネができるでしょうか……」
「難しく考える必要はないわ、フィリス」
弱音を吐きかけた弟子に、セラフィーナは艶やかな微笑みを向けた。
「あなたが普段やっていることと同じよ。炎、風、雷……相反する三つの属性を同時に操り、反発させずに一つに融合させているでしょう? あの時の感覚を思い出しなさい」
「あの感覚……。でも先生、あれは最後に一瞬で爆発させて、敵を吹き飛ばすための力ですけど」
「それを『維持』するのよ」
セラフィーナは真っ直ぐに、フィリスの青い瞳を見据えた。
「三つの異なる暴れる力を均一に保ちながら、ギリギリのバランスで束ね続ける……あの神業のような制御力。それを、この魔法陣の回路に当てはめるの。敵を破壊する衝動ではなく、空間に定着させる静かな意志でね」
セラフィーナの言葉に、フィリスはハッとして自分の両手を見つめた。
彼女の中で、今まで培ってきた戦闘の技術と、これから行うべき繊細な作業がピタリと結びついたのだ。
「なるほど……。爆発する寸前の、あの拮抗した一番いい状態の魔力を、細く均一に保ったまま、陣の隅々まで行き渡らせていく……そういうことですね」
「ええ、その通り。あなたなら必ずできるわ。……なんたって、私の自慢の弟子だもの」
偉大なる恩師からの絶対の信頼。
フィリスの瞳から先ほどの不安は消え去り、いつもの力強い決意の炎が宿った。
「わかりました、先生! やってみせます!」
フィリスが力強く頷くと、少し離れた場所で控えていた丈太郎が一歩前へ出た。
「フィリスさん。もし少しでも魔力が暴走しそうになったら、俺がすぐに触れて『強制停止』させます。だから、爆発のことは気にせず、思い切り編み込みに集中してください!」
「ええ、頼りにしてるわよ、相棒!」
フィリスは丈太郎に向かってニカッと笑い、グッと親指を立てて見せた。
そして、祭壇の魔法陣へと向き直る。その表情は、もう一人の魔術師としての鋭い集中力を帯びていた。
星の神殿の奥深く、静寂に包まれた広大な祭壇。
その中央に刻まれた複雑な魔法陣の真正面に、フィリスが静かに立った。
万が一術式が暴走した際、即座に停止させられるよう、彼女のすぐ隣には丈太郎が真剣な面持ちで控えている。
少し離れた場所では、リシェルが巨大な魔導板の前に立ち、術式の安定性をモニターするべく張り詰めた眼差しを向けていた。
そして、フィリスの背後には、偉大なる魔女セラフィーナが静かに寄り添うように立つ。
「おそらく、あなたの膨大な魔力をもってしても足りないわ。私が後ろから魔力を流し込むから、魔力切れは恐れず、存分に編み込みなさい」
セラフィーナは、いつもの気怠げな声色の中に、愛弟子への確かな信頼と覚悟を滲ませて告げた。
「はい……先生」
フィリスは小さく、けれど力強く頷いた。
いつもの快活な笑みは消え、真っ直ぐに魔法陣を見据えるその青い瞳には、揺るぎない決意の炎が宿っている。
「……では、始めます」
フィリスは静かに目を閉じ、深く息を吸い込む。目を開くと同時に両手を真っ直ぐにかざし、自身の魔力を静かに、しかし力強く流し込み始めた。
魔法陣の幾何学的な紋様が、外周から中央に向かって淡い光の帯を伸ばしていく。
フィリスの背後にはセラフィーナが立ち、彼女の背に向けて両手をかざしている。そこから絶え間なく流れ込んでくるのは、セラフィーナの莫大で温かな魔力だ。
「順調です。術式の定着率、30%に到達しました」
魔導板を凝視するリシェルの、少し緊張をはらんだ声が神殿に響く。
フィリスはさらに魔力の出力を引き上げる。極めて精密な魔力が、魔法陣の奥深くへと編み込まれていく。
「進捗60%。魔力場、安定しています」
フィリスの額に大粒の汗が滲む。
その横では、丈太郎が息を呑んで見守っていた。
セラフィーナの顔にも、いつもの気怠げな余裕はない。真剣な表情で、自身の限りある魔力を惜しみなく愛弟子へと注ぎ続けていた。
魔法陣の光が、いよいよ中央の核へと迫る。
「80%を超えました! あと少しです!」
その瞬間。
(……これが、完成したら。丈太郎くんは、元の世界に帰ってしまう……)
ふと、フィリスの胸の奥を、冷たくて鋭い寂しさがよぎった。
無意識の迷い。それが、極限まで研ぎ澄まされていた魔力制御に、わずかな綻びを生む。
「っ!? 術式にノイズ! 魔力が乱れています! フィリスさん、安定させてください!」
リシェルが悲鳴のような声を上げた。
魔法陣の光が不規則に明滅し、バチバチと危険な火花が散る。
丈太郎がハッとして身構え、鋭く前へ踏み出した。
(ダメ……!)
フィリスは奥歯を強く噛み締める。
(それでも……丈太郎くんを帰してあげなきゃ。私が、彼を帰してあげるんだ……!)
心に生じた迷いを、強靭な意志の炎で焼き切る。
フィリスは乱れた魔力の奔流を力ずくで押さえ込み、再び精密な編み込みへと出力を調整した。
「……ノイズ減少! 安定軌道に戻りました! 進捗90%!」
リシェルの声に安堵が混じる。丈太郎は踏み出した足を止め、再びその手に汗を握った。
やがて、魔法陣の中央で全ての線が繋がり――眩い光の柱が、祭壇から天井へ向かって立ち上った。
光の奔流がゆっくりと落ち着くと、祭壇には、全体が神秘的な光を湛える完全な魔法陣が定着していた。
「……定着率、100%。帰還術式……完成です!」
リシェルが震える声で報告する。
「やった……」
張り詰めていた糸が切れ、フィリスはその場にへたり込んだ。
「先生!」
直後、リシェルの鋭い叫び声が響く。
振り返ると、セラフィーナが床に崩れ落ちるところだった。
「先生!」
丈太郎とフィリスが慌てて駆け寄り、フィリスがその身体を抱き起こす。
「先生! 大丈夫ですか!?」
セラフィーナの美しい顔は青ざめていたが、やがてゆっくりと長い睫毛を震わせ、その紫の瞳を開いた。
「……ええ。大丈夫よ……少し、魔力切れを起こしただけ……」
かすれた声だったが、そこには確かな安堵の響きがあった。
「先生、成功しましたよ! 魔法陣が……完成しました!」
フィリスが涙ぐみながら言うと、セラフィーナはふわりと艶やかな笑みを浮かべた。
「ええ、見ていたわ。……本当によくやったわね、フィリス」
偉大な魔女と、その愛弟子たち。
彼女たちの想いと力が結集し、五百年の時を経て、ついに帰還の術式は完成した。
星の神殿の静寂の中、祭壇に定着した魔法陣だけが、神秘的な光を放ち続けている。
それは、丈太郎が元の世界へ帰るための、確かな希望の光。
だが同時に――この異世界で出会った、かけがえのない人たちとの別れが、すぐそこまで迫っていることを静かに告げていた。




