第6章 治癒院
村長宅を後にする丈太郎たち。次の目的地は治癒院だ。
アンクの説明によると、治癒院とは怪我や病気を癒すための施設で、外科的な治療は《治癒士》が魔法で行い、内科的な症状は《薬士》による薬草や調合薬で対応するという。いわばこの世界の“病院”である。
ルノア村の中央付近、ちょうど市場通りと教会の間に位置するのがその治癒院だった。
「村の中心にあるのは、それだけ大事な施設だからだよ」
そうアンクは言った。
治癒院は石造りの平屋建てで、屋根には青い瓦が葺かれている。
壁を伝うように薬草の蔓が這い、入り口には誰が書いたのか、簡素な癒しの紋様が刻まれていた。
扉をくぐると、丈太郎は思わず足を止めた。
中は想像以上に清潔で静かだった。
ほんのりと甘く爽やかな薬草の香りが漂い、空気にはわずかに魔力の気配が混じっている。天井に設置された魔石灯がやわらかな光を落とし、落ち着いた空間を演出していた。
壁際の棚には瓶詰めの薬草や粉薬、液体の入った小瓶が整然と並び、いくつかの魔道具も見える。
奥には布で仕切られた診療スペースがあり、誰かが治癒魔法を受けているらしく、淡い光がちらちらと漏れていた。
「……なんだか、思ってたよりちゃんとしてるな……」
丈太郎が感心したように呟くと、アンクは苦笑する。
「ちゃんとしてなかったら命に関わるからね。田舎でも、治癒院だけは手を抜けないんだよ」
中から、治癒士らしき若い女性が現れた。
アンクに気づくと、目を丸くする。
「院長!? それにミィナちゃんまで……今日はお休みじゃなかったんですか?」
「こんにちは、アリスおねえちゃん!」
ミィナが元気に手を振る。
「ちょっと私用でね。この子を診てもらいたいんだ」
アンクが丈太郎を示す。
「えっ、院長!?」
丈太郎は驚いてアンクを見る。
「ああ、ごめん、言ってなかったね。俺、ここの治癒院の院長なんだ。専門は薬士だけど、治癒魔法も少しくらいは使えるよ。でも、アリスは治癒魔法の専門家だからね。ちゃんと診てもらったほうがいいと思って連れてきたんだ」
アリスが丈太郎をじっと見つめる。
「この方が……ひょっとして、昨日ミィナちゃんをグランドグリズリーから救い出したという人ですか?」
「そー! お兄ちゃんに助けてもらったのー!」
「……もうそんなに噂が広がってるのか」
アンクは呆れたようにため息をついた。
「はい、さっき来た患者さんが話してましたよ」
「山之内丈太郎といいます。よろしくお願いします」
丈太郎が頭を下げると、アリスは少し慌てたように会釈した。
「いえいえっ! こちらこそ……アリスと申します。院長のもとで治癒士として働かせてもらってます」
なぜか、アリスの頬がほんのり赤くなっていた。
「承知しました。ちょうど今の患者さんで手が空きますので、すぐに診ましょう。少しだけお待ちくださいね」
アリスは診療スペースから出てきた患者に、何やら優しく説明をしている。
患者はうなずいてから代金を渡し、アリスに手を振って出口に向かう。
アンクに気づくと、深くお辞儀をしてから去っていく。
「お待たせしました。こちらへどうぞ」
アリスが柔らかな笑みを浮かべながら、丈太郎たちを診療スペースへと案内した。
診療スペースは木材の温もりを感じる小部屋だった。
窓から差し込む陽光が白いリネンのカーテンを柔らかく照らし、壁際には薬草の束や整然と並べられた薬瓶が置かれている。ほのかにミントのような薬草の香りが漂っていた。
アリスに促され、丈太郎は中央の椅子に腰を下ろす。
「それで、どのような症状ですか?」
アリスが優しく問いかける。
「丈太郎くんは記憶を失っているんだ。外傷によるものか、魔法の影響かを確認したくてね」
とアンクが説明した。
丈太郎も昨日の出来事――森で目覚めたこと、状況をまったく理解できなかったことなどをざっくりと語る。
「なるほど……記憶、ですか。少し失礼しますね」
アリスは丈太郎の側頭部あたりにそっと手を添えた。
指先が丁寧に頭皮をなぞるが、怪我の感触はなかったようだ。
「特に外傷は見当たりませんし、痕跡もありませんね」
そう言いながら、今度は丈太郎の額の前に手のひらをかざす。
アリスの手のひらが、淡い緑の光で包まれた。
しかし──。
「……うーん」
アリスの眉がわずかに寄る。
「どうした?」
アンクが表情を曇らせた。
「魔力探知がうまくできません……何かに妨げられているような感覚です。まるで――」
アリスは言いよどむ。
「まるで……?」
丈太郎が問い返す。
「まるで、魔力そのものが弾かれているみたいな……この感じ、初めてです」
診療室に一瞬、静寂が降りる。
ミィナは丈太郎の袖をきゅっと握りしめ、不安そうな表情を浮かべている。
丈太郎はいたたまれない気持ちになっていた。
(……本当はバッチリ記憶あるんですけど……みなさんごめんなさい)
「ちょっとヒールしてみますね」
アリスは両手を丈太郎の額にかざすと、その手のひらが淡い緑色の光に包まれた。
だが次の瞬間――緑の光は丈太郎の顔の前でふわりと霧のように散って消えた。
「そんな……! 治癒魔法が効かない……!」
アリスが呆然とつぶやき、アンクも「バカな……」と声をひそめるように言った。
ミィナがそっと丈太郎の袖をつかみ「お兄ちゃん……だいじょうぶ……?」と尋ねると、丈太郎は「うん。大丈夫」と彼女の頭を撫でる。
ただ、二人の異常な雰囲気に丈太郎も不安を覚えた。
「……やはり、先ほどと同じように魔力が弾かれているような感触です……」
アリスが首を傾げる。
「アリス、もう一度ヒールを頼む」
アンクの言葉に、アリスはうなずき「はい、もう一度」と再び丈太郎に手をかざした。
淡い緑の光が両手に灯ったが、またしても光は丈太郎の目前で霧のように散った。
まるで、見えない壁に阻まれているかのようだった。
「やっぱり……届く前に消えてしまいます!」
アリスが驚きの声を上げる。
「これは……何かの結界?」
アリスが眉を寄る。
「こんな結界、聞いたことないぞ……丈太郎くん、弾かれた感覚はあったか?」
アンクが問う。
「いえ、何も……何も感じませんでした」
丈太郎は小さく首を振る。
二人の真剣な表情を見て(……これ、なんか本当にヤバい状況じゃないか?)と内心で焦りを感じていた。
「まさか……丈太郎くん、ちょっと失礼するよ」
アンクが呟き、指先に小さな炎を灯してじりじりと丈太郎へ近づけていく。
丈太郎は思わず身をこわばらせたが、触れると思った瞬間、炎は丈太郎の肌に届く寸前でふっと霧のように掻き消えた。
「……やはり、か」
「院長……これは!」
アリスは息を呑む。
「おそらく、魔力の干渉そのものを無効化している……」
「そんな……! 魔力の干渉を無効化するスキルや魔法なんて、聞いたこともありません!」
アリスは驚きと戸惑いを隠せなかった。
「いや……魔力だけじゃないかもしれない。丈太郎くん、昨日、ミィナをグランドグリズリーから助けたときの状況を、詳しく教えてもらえるかな?」
アンクが静かに問いかける。
「えーと、確か……こうやって」
丈太郎は少しかがみ、ミィナを庇う姿勢をとった。
「で、後ろからクマが来て……怖くて目をつむってたら、静かになって……気がついたら、いなくなってました」
「そーそー! こんな感じだったの!」
ミィナがはしゃぐ。
「そんな……! あのグランドグリズリーが、獲物を目前にして何もしないなんて……!」
アリスが目を見開く。
アンクも驚いた表情を浮かべたが、次第に何かに納得したように頷く。
「つまり……こういうことだな」
アンクは小さな医療用の打診ハンマーを手に取った。
「ちょ、ちょっと待って!? 何を――」
丈太郎が言いかけた瞬間、ハンマーが彼の肩に向かって鋭く振り下ろされる。
──次の瞬間。
ハンマーはまるで見えない壁に阻まれたかのように、丈太郎の肩の寸前でピタリと止まった。反動も音も、一切生じていない。
「まさか……っ!」
アリスが声を上げる。
「そういうことだ。これは……物理的な衝撃も完全に無効化している」
アンクは確信を持ったように言った。
「どうして丈太郎くんが、あのグランドグリズリーからミィナを無傷で救えたのか、不思議だったんだ。だが、今ので合点がいったよ。――ごめん、驚かせたね」
「いえ。大丈夫です」
丈太郎は困ったように笑ってみせた。
「さっき叩いたとき、不思議な感触だった。反動も音もなく、まるで衝撃そのものが吸収されたようだった……。きっとグランドグリズリーも同じ体験をしたのだろう。そして、本能的に──恐れた」
「つまり……どういうことでしょうか?」
丈太郎は椅子に座り直しながら尋ねた。
いつの間にか彼の膝の上には、ミィナが嬉しそうにちょこんと座っている。
「つまり……あなたには、物理攻撃も魔法攻撃も、そして治癒魔法すら効かない、ということです」
アリスが慎重に言葉を選びながら説明した。
「これは、どんな防御魔法やスキルよりも上の存在……まさに“異能”だよ」
アンクも重々しく言う。
「そんな……全く自覚ないんです。いつどこで覚えたのか、心当たりもなくて……」
丈太郎は戸惑いの表情を浮かべる。
「それほど強力な能力を、無自覚で発動している……ある意味、とても危険な能力だ」
「危険……!?」
丈太郎は不安げに目を見開いた。
アンクは腕を組んで少しだけ考え込むと、静かに口を開いた。
「まず……他者の魔法も、物理攻撃も、そして治癒すらも受けつけないということは、“影響そのものを拒絶している”ということだ」
「影響を……拒絶?」
丈太郎が首をかしげる。
「たとえば――もし君が毒に侵されても、治癒魔法が効かないとなれば、誰も助けられない」
「そ、そんな……」
「それにもうひとつ、大きな問題がある」
アンクの声が一段低くなった。
「君の“防御”は、明らかに無意識で発動している。そしてこれは、“君自身の意思では止められない”ということにも繋がる。……つまり、もし君が誰かの手を握ろうとしても、それが“攻撃”とみなされれば、相手には触れることすらできない。あるいは、逆に君の意思で“発動しない”つもりでも、危険と判断されれば自動で発動するかもしれない」
アリスがはっとした顔で口を挟んだ。
「それって……たとえば……火事に巻き込まれた子を助けようとしても、炎が丈太郎さんを避けて届かないだけで、子どもには触れられないかもしれないってことですか?」
「そう。防御が万全であるほど、君は世界から“切り離された存在”になってしまうかもしれない」
アンクの言葉に、丈太郎は思わずミィナの頭に置いた手を見つめる。
「……それでも、俺、いまミィナには触れられてる……」
「今は問題が起きていないだけかもしれない。発動条件はまだ不明なんだ」
アンクは目を伏せたまま静かに言う。
「力は強大であるほど、その代償も大きい。……君の能力は、守る力であると同時に、孤独を生む呪いでもあるかもしれない」
丈太郎は言葉を失い、ただ膝の上のミィナを見つめた。
自分の手が、確かに彼女の小さな背中を支え、その体温を感じている。あたたかさも、重みも、確かに感じている――それなのに、アンクの言葉が胸の奥を冷たく締めつけていた。
「……そんな、俺が誰かに触れられなくなるなんて……そんなの、やだな……」
ぽつりとこぼれた丈太郎の声は、どこか子どものように弱々しかった。
すると――。
「だいじょーぶだよ、お兄ちゃん!」
ミィナが、にぱっと笑って丈太郎の胸に頬をすり寄せた。
「ほら、ちゃんとミィナはさわれてる! ぎゅーだって、できるんだよっ!」
小さな手が丈太郎の胸をぎゅっとつかむ。
その無垢な行動に、丈太郎は思わず目を細める。
「……ミィナ……」
その様子を見ていたアリスが、そっと微笑んだ。
「アンク院長が言ったことは、あくまで“可能性”の話です。あなたの能力は、確かに前例がなくて、解明には時間がかかるでしょう。でも……それは、あなたが特別な存在だという証でもあります」
アリスは優しく続けた。
「それに、力があるからって、必ず孤独になるわけじゃない。私たちがそばにいます。あなたを理解しようとする人は、きっとこれからも現れます」
「……」
丈太郎は、少しだけ視線を落としてから、ゆっくりとアリスを見上げた。
「……ありがとう。なんか……ちょっと、救われました」
アンクは口元をわずかにほころばせ、眼鏡の奥から静かな眼差しを向ける。
「人はどんな能力を持っていても、それをどう使い、どう生きるかで価値が決まる。君が“それ”を恐れず向き合おうとする限り――私は、君の味方だ」
「……はい」
丈太郎は深くうなずいた。
その膝の上では、ミィナがうとうととまぶたを落とし始めていた。
不安と希望が交錯する中――丈太郎の中に、ほんの少しだけ、決意の種が芽吹こうとしていた。




