第57章 デート
魔術師ギルド本部での報告を終え、丈太郎とフィリスは夜の帝都の街へと出ていた。空中に架かる魔力の橋や、街路を照らす魔力灯の淡い光が、白亜の街並みを幻想的に浮かび上がらせている。
二人は帰路の途中、フィリスの提案で大通りから少し入ったところにある大衆居酒屋に立ち寄った。高級レストランもいいが、こういう活気ある店のほうが落ち着くと言って、フィリスは豪快にエールを煽り、山盛りの料理を平らげていく。丈太郎も彼女の勢いにつられるように食事を済ませると、少しだけ体力が回復した気がした。
食事を終え、昨日も泊めてもらったフィリスの家へと帰り着く。
「空の旅で疲れたでしょ。お風呂、先に入っていいわよ」
「ありがとうございます……お言葉に甘えて、今日も先にお風呂をもらいます」
フィリスに促され、丈太郎は湯船に身を沈めた。
「……はぁ……生き返る……」
温かい湯が全身の強張りをほぐしていく。だが、同時にどっと疲労感が押し寄せてきた。
風呂から上がり、リビングでくつろぐフィリスに「おやすみなさい」と告げて、丈太郎は早々に客室のベッドへと潜り込んだ。
『明日は私が朝から帝都をたっぷり案内してあげるから、楽しみにしてなさい!』
フィリスが満面の笑みで言った言葉を思い出す。二人きりでの帝都巡り。純粋に楽しみで、胸が少しだけ高鳴った。
だが――静寂に包まれた部屋で一人目を閉じると、不意に別の思いが押し寄せてきた。
(……あと三日……)
セラフィーナの言葉が脳裏に蘇る。帰還術式があと三日で完成すれば、元の世界へ――日本へ帰れる。ずっと望んでいたことだ。両親に会える。あの見慣れた日常に戻れる。嬉しいはずなのに。待ち望んでいたはずなのに。なぜか、胸の奥がひどく冷たく締め付けられるようだった。
ルノア村で家族のように接してくれたアンク、テラ、ミィナ。いつも気にかけてくれたアリス。迷宮で背中を預け合ったマリナとダリオ。
そして――この理不尽な世界で、常に前を歩き、不器用ながらも自分を守り導いてくれた師匠、フィリス。
お別れが、すぐそこまで迫っている。もう二度と、あの大口を開けて笑う顔を見ることも、共に食卓を囲むこともできないのだろう。
(俺は……本当に、帰るべきなのか……?)
暗闇の中、ふと浮かんだその疑問に、丈太郎は答えを出せなかった。ただ、胸の痛みがどんどん大きくなっていくのを感じる。丈太郎はそんな考えを無理やり振り払うように、深く、頭まで布団を被った。
自分に言い聞かせながら目を閉じると、空の旅の疲労が彼を深い眠りへと誘っていった。
***
翌朝。
窓から差し込む初夏の爽やかな日差しで、丈太郎はゆっくりと目を覚ました。客室のふかふかのベッドのおかげで、昨日の飛行や様々な出来事による緊張はすっかり抜け落ちている。身支度を整え、丈太郎はリビングへと向かった。
「おはようございま――」
言いかけた丈太郎の言葉は、途中でピタリと止まった。
ダークブラウンを基調としたシックなリビングの中央。そこには、いつもの黒い軽甲冑姿でも、昨晩の無防備な部屋着姿でもない彼女がいた。
「あ、おはよう丈太郎くん。よく眠れた?」
「えっ……あ、はい……」
丈太郎は目を丸くしたまま、気の抜けた返事を返すことしかできなかった。無理もない。そこにいたフィリスは、初夏という季節にぴったりの、涼しげで身軽な格好で思い切りおしゃれをしていたのだ。
デコルテのラインが美しく映えるオフホワイトのオフショルダーブラウスに、歩くたびにふわりと風に揺れる淡い水色のロングスカート。足元には少しヒールのある華奢なサンダルを合わせており、洗練されたシルエットがいっそう際立っている。
そして何より――いつもは無造作にまとめられているか、ふわりと肩に掛かっている金髪が、今日は見事なまでに艶やかなストレートヘアに整えられていた。ハッとするほど艶やかで「大人の女性」の雰囲気を漂わせている。
「ど、どうしたんですか、その格好……」
丈太郎が思わず尋ねると、フィリスは少しだけ得意げに、ふわりとその場でターンをして見せた。
「どうしたもなにも、たまにはおしゃれくらいするわよ。服ならクローゼットに沢山あるんだし」
ふいに動いた彼女の左手首で、キラリと澄んだ光が反射した。丈太郎が誕生日に贈った、白金色のブレスレット。菱形にカットされた青い宝石が、今日の彼女の装いに驚くほどよく似合っている。
「それに、今日は丈太郎くんとデートだしね!」
フィリスは悪戯っぽくウインクをする。
「……」
「あら? 丈太郎くん、もしかして見とれちゃった?」
「……はい。とても、綺麗です」
無意識のうちに、丈太郎の口からストレートな本音がこぼれ落ちていた。
「え……あ、ありがとう……」
予想外の真っ直ぐな物言いに、からかうつもりだったフィリスの方が思わず赤面し、視線を泳がせる。
「……ふふっ、朝から気合いを入れてセットした甲斐があったわ」
フィリスは照れ隠しのように満足そうに笑うと、テーブルに用意された温かい紅茶のカップを指し示した。
「さ、冷めないうちに朝ご飯にしましょ。食べ終わったら、帝都観光へ出発よ!」
「……はい」
丈太郎はまだ少しドギマギしながら、食卓の椅子に腰を下ろした。目の前に座る、息を呑むほど綺麗で大人びた師匠。そして、その腕で確かに輝いている自分が贈ったブレスレット。
(俺の心臓、今日一日持つかな……)
丈太郎はこっそりとため息をつきながら、ティーカップに口をつけるのだった。
***
「さあ、出発よ! 今日は帝都の隅から隅まで案内してあげるから覚悟しなさい!」
朝食を終えた二人は、初夏の日差しが白亜の街並みを眩しく照らし出す中、帝都の大通りへと繰り出した。
空には淡い光を放つ魔力の橋が架かり、行き交う移獣車や多種多様な種族の人々で溢れている。現代の東京を知る丈太郎の目にも、その洗練されたファンタジーの極致は圧倒的に映った。
しかし、今日の丈太郎の視線は、街の景色よりも隣を歩くフィリスへと向かいがちだった。
風が吹くたびに、普段の軽甲冑姿からは想像もつかない軽やかなロングスカートがふわりと揺れる。すれ違う人々の視線が彼女の美貌に釘付けになるのが、隣を歩いているとよくわかった。
「ほら、丈太郎くん! あれが帝都名物の『空中庭園』よ。行ってみましょ!」
「わっ、ちょっと引っ張らないでくださいって!」
フィリスは無邪気な笑顔で丈太郎の手を引き、魔法で動くゴンドラへと乗り込む。
高所から見下ろす帝都の絶景に感嘆しつつも、丈太郎は隣ではしゃぐフィリスの横顔を嬉しそうに見つめていた。珍しいスイーツを食べ歩き、大道芸人の魔法に見入り、あっという間に一日は過ぎていった。
***
翌朝、リビングに現れたフィリスは、昨日とは打って変わって活発で可憐な装いだった。
「おはよう! 今日はアクティブにいくわよ!」
鮮やかな水色のノースリーブのサマードレスに、つば広の麦わら帽子。艶やかな金髪はサイドで可愛らしく編み込まれている。普段の隙のない冒険者としての姿とも、昨日の大人びた雰囲気とも違う、年相応の少女のような溌剌とした魅力があった。
この日は、帝都の巨大な市場や商業区を巡った。
「丈太郎くん、これ似合うんじゃない?」
「いや、さすがにその派手なマントは……」
冗談を言い合いながら、様々な店を見て回る。昼食は、フィリス行きつけの庶民的な隠れ家レストランに入った。もちろん、フィリスはそこでもブレることなく、モリモリと豪快に肉料理を平らげ、エールをあおっていた。
夕暮れ時。茜色に染まる魔力の橋を歩きながら、フィリスがふと足を止めた。
「……こうして、なんの依頼も背負わずに平和に街を歩くのなんて、いつぶりかしら」
帽子を押さえながら遠くを見つめる横顔に、一抹の寂しさがよぎる。
元の世界へ帰る日が近づいている。それは、この頼もしくも美しい師匠との別れを意味していた。丈太郎は胸が締め付けられるのを感じながらも、ただ静かに彼女の隣に立っていた。
***
そして、観光最終日。
夜の帝都は穏やかに更けていた。魔力灯の光が、二人の影を柔らかく染める。
丈太郎の目の前には、これまでで一番息を呑むほど美しいフィリスがいた。
深い夜空のようなネイビーのイブニングドレス。背中が大きく開いた大胆なデザインだが、彼女が着ると洗練された気品に溢れていた。長く艶やかな金髪は上品なハーフアップにまとめられ、左手首には丈太郎が誕生日に贈った白金色のブレスレットが静かに輝いている。菱形にカットされた青い宝石が、魔力灯の光を受けて澄んだ輝きを放っていた。
高級レストランで極上の料理とワインを楽しんだ後、二人は帝都を一望できる静かな丘の公園へとやってきた。
「……今日には、先生たちの術式が完成するわね」
夜風に髪を揺らしながら、フィリスがぽつりと呟いた。その声は、いつもの快活さを潜め、ひどく静かだった。
「はい……」
丈太郎は短く答える。明日には、元の世界へ帰るための儀式が始まる。この異世界で、彼女の隣にいられるのは今夜が最後かもしれない。
「……丈太郎くん」
フィリスがゆっくりと振り返り、青い瞳で丈太郎を真っ直ぐに見つめた。
「私と出会ってくれて……私の弟子になってくれて、本当にありがとう」
その瞳には、隠しきれない寂しさと、深い慈愛が滲んでいた。
丈太郎は、彼女の言葉に胸の奥が熱くなるのを感じながら、力強く頷いた。
「俺の方こそ……フィリスさんが師匠で、本当によかったです」
魔力灯の光に照らされた二人の影が、静かに寄り添う。
別れの時が迫る夜。それでも、惜しむように共に過ごしたこの三日間の記憶は、二人にとって決して色褪せない、永遠の宝物となった。
そして、翌朝。
閑静な住宅街にあるフィリスの家。無情にも、玄関の呼び鈴が鳴る。そこには、帰還術式完成の報告をしに来たリシェルの姿があった。




