第56章 報告
夜の冷たい風が頬を撫で、丈太郎はゆっくりと重い瞼を開けた。 視界に飛び込んできたのは、――心配そうに覗き込んでくるフィリスの顔だった。 ここは帝都、魔術師ギルド本部五十階の屋上。どうやら無事に帰り着いたらしい。
「丈太郎くん、着いたわよ! お疲れ様!」
フィリスが明るく声をかけるが、丈太郎の反応は鈍い。
「あ……俺、また気を失ってたのか……」
空での急降下と大回転コンボの恐怖を思い出し、丈太郎はげっそりとした顔で身を起こす。
「ごめんごめん、ついピーちゃんと調子に乗って飛ばし過ぎちゃって!」
てへっと笑って誤魔化そうとするフィリスに、丈太郎はジト目を向けた。
「……フィリスさんなんか、嫌いです……」
ぽつりと呟き、丈太郎はふてくされたようにスタスタとマスター室へと続く階段に向かって歩き出す。
「えっ!? ちょ、ちょっと待ってよ! 冗談でしょ!?」
背後でフィリスの焦った声が響く。あわてふためきながら、丈太郎の背中を追いかけてきた。
「ねえ、機嫌直して! ね?」
無言で歩き続ける丈太郎の隣を小走りでついてきながら、フィリスはあたふたと言い訳と謝罪を繰り返す。
「ごめんてばー! もう急降下しないから! ね? 許してよー……」
フィリスは今にも泣き出しそうな顔をしていた。
そんな師匠の珍しい姿に、丈太郎は思わず足を止める。 小さく、やれやれと溜め息をついた。
「……もう、いいですから……」
「えっ! ホント!? 怒ってない!?」
フィリスがぱっと顔を輝かせて身を乗り出してくる。
「はい、怒ってないですよ。……次からは本当に勘弁してくださいね」
「良かったー!!」
フィリスの顔に、ぱぁっと花が咲いたような満面の笑顔が広がった。 その裏表のない無邪気な笑顔を見せられると、丈太郎の胸に残っていたわずかな苛立ちもすっかり消え去ってしまう。 丈太郎も、つられて思わず微笑みをこぼした。
(ホント、かなわないな……この人には……)
心の中でそっと呟きながら、丈太郎はフィリスと共にマスター室の扉へと向かった。
重厚な黒檀の扉を開けると、そこは昨日までの洗練された空間とは打って変わり、まるで雑然とした研究室のようだった。
中央に置かれたアンティークテーブルには、大図書館の『禁書庫』から持ち出したのであろう分厚い古書が散乱し、難解な書類の山がいくつもできている。部屋のあちこちに設置された魔導板は五つにも増え、そこには素人目には意味不明な術式や数式がびっしりと刻み込まれていた。 その魔導板の前に立ち、セラフィーナとリシェルが真剣な面持ちで議論を交わしている。
「ただいま戻りましたー!」
部屋の静寂を破るように、フィリスの快活な声が響いた。 その背後から、げっそりした顔の丈太郎が部屋に入ってくる。
セラフィーナとリシェルが、揃って二人のほうへ振り返る。
「おかえりなさい、二人とも。無事でなによりだわ」
セラフィーナが、いつもの気怠げで艶やかな笑みを浮かべた。
「おかえりなさい、フィリスさん、丈太郎さ……」
にこやかに迎えようとしたリシェルだったが、丈太郎のげっそりとやつれた顔を見てぎょっと目を剥いた。
「じょ、丈太郎さん!? どうされました!? 大丈夫ですか!?」
リシェルは血相を変えて丈太郎に駆け寄ると、彼の手をガシッと両手で握りしめた。その声には過剰なほどの心配が滲んでいる。
「いや、まあ、大丈夫ですよ……。ちょっと空の旅が激しかっただけで……ご心配なく」
丈太郎は引きつった笑みで答えようとするが、顔色は文字通り真っ青だ。
「そんなはずありません! 今にも倒れそうじゃないですか! 私の自室はこの五十階にありますから、よろしければそこのベッドをお貸しします! すぐにお休みになってください!」
「い、いえ、そんな! ほんとに大丈夫ですから!」
と、丈太郎は慌てて手を振る。
「遠慮なさらずに! なんでしたら……そのまま泊まっていかれてもいいんですよ?」
丈太郎の言葉を遮るように、リシェルがグイグイと顔を近づけてくる。その勢いと無防備さに、丈太郎はタジタジになって後ずさった。
「ちょっと、リシェルちゃーん。丈太郎くんは大丈夫だから」
不意に、二人の間にフィリスが割って入った。にっこりと笑っているのに、なぜか丈太郎は背筋がひやりとした。
フィリスは引きつった笑顔のまま、丈太郎の腕をガシッと掴むと、リシェルから半ば強引に引き剥がした。
「コホン」
そんな三人の賑やかな様子をいさめるように、セラフィーナが小さく咳払いをした。
ハッとして三人が彼女の方へ向き直る。リシェルは、もう少し話していたかったのか、少しだけ残念そうに表情を緩めていた。
セラフィーナは椅子に腰掛け、気怠げな仕草で足を組み直すと、妖艶な紫の瞳を愛弟子へと向けた。
「……それでフィリス。星の神殿に棲みついていた古赤竜はどうだったの?」
「はい。問題なく説得できました。星の神殿の祭壇、それから転移魔法陣も使用可能です!」
フィリスは快活な笑顔で、さも簡単な任務だったかのようにあっさりと報告する。
「それはなにより。……神殿騎士団もすんなり通してくれたようね」
セラフィーナは安堵したようにふうと息を吐いた。融通の利かない彼らのことだ、多少の厄介事は覚悟していたのだが。
「いえ。それが頑なに拒まれたので、ユリウスを決闘にて倒してきました」
フィリスが、まるで「今日の夕食は肉料理よ」とでも言うような軽い調子で、得意げに語った。
「……え!?」
常に気品と余裕を崩さない『帝都の魔女』の顔から、さーっと血の気が引いていく。
「あ、あなた……Sランクの神殿騎士団長であるユリウスを、倒してしまったの!?」
「はい。……あ、正確には私じゃなくて丈太郎くんが倒しました。あの様子だと、当分は再起不能だと思いますよ。あ、でも命は奪ってないので安心してください。騎士団全員の無事は保証します。いまは帝都への帰路についてる最中かと」
(いや、俺は何もしてないし、向こうが勝手に心が折れて気絶しただけなんだけど……)
「さ、再起不能……!?」
「それから、今日から星の神殿はセラフィーナ先生の管理下に置くって、神殿騎士団にはしっかり伝えておきましたから!」
「え? え?」
「ちょ、ちょっと待ちなさいフィリス。……お願いだから、もうすこし詳しく話しなさいな」
偉大なる魔女は、頭を抱えながら深々と重いため息をつく。
事の顛末を聞き終えたセラフィーナは、こめかみを押さえながら言葉を絞り出す。
「……たしかに、向こうにも落ち度はあるわ。でも、Sランクであるユリウスを叩きのめしたというのは、少々問題ね」
「そう……ですね」
傍らに控えるリシェルも、困ったように眉を下げて神妙な面持ちを見せる。
「SランクがAランクに倒されるなど前代未聞よ。それに、ユリウスは教皇直属の神殿騎士団団長。このことが耳に入れば、教皇が黙っていないわね。下手すれば皇帝まで出てきかねない。……帰還術式どころの騒ぎではなくなるわ」
「そ、そんな!」
事の重大さに、丈太郎は思わず声を上げた。
「でも、先生! あの時はそうするしかなかったんです!」
フィリスが慌てて身を乗り出し、抗議の声を上げる。
「わかっているわ。神殿騎士団が対ドラゴン用に構築した『ドラゴン級拘束術式』を人に使うなんて……ユリウスの暴走の責任は向こうにある。ただ、面倒な事になるのは間違いないわね」
セラフィーナは組んだ指に顎を乗せ、紫の瞳を細めた。
「幸い、騎士団は徒歩で帰ってくることになるから、彼らが帝都に着くまで半月の猶予はあるわ。それまでに帰還術式を完成させれば問題ないでしょう」
「でも! 先生は前に『完成までに一ヶ月はかかる』って……!」
フィリスの言葉に、セラフィーナはふわりと微笑んだ。
「それが、思ったより順調なのよ。まあ、一度組み上げているということもあるし……何より、リシェルの協力が大きいわね。術式だけなら、あと三日もあれば完成すると思うわ」
セラフィーナの言葉に、リシェルは少し照れたように控えめに頷く。
「三日!? すごい!」
丈太郎が元気な声を上げると、セラフィーナは静かに言葉を続けた。
「ええ。まあ、術式が完成した後にも、しなければならないことがあるのだけれど……とりあえずは完成を急がないとね。術式が出来上がった後は、フィリス、あなたにも手伝ってもらうわよ」
「はい! 私にできることならなんでもします」
フィリスは力強く頷いた。
「というわけだから、術式が完成するまでは、丈太郎に帝都の案内でもして自由に過ごしなさいな」
「あ、それなら私が案内しますよ、丈太郎さん!」
セラフィーナの提案を聞いた瞬間、リシェルがいつもの洗練された態度をかなぐり捨て、ズイッと丈太郎の前に身を乗り出した。
「リシェルちゃ〜ん? あなたは先生の“大事な”お手伝いがあるでしょ? 案内は、私・に・任・せ・て・ね」
「あ……そうでした……」
リシェルは心底残念そうに肩を落とし、すごすごと引き下がった。
丈太郎を巡る弟子たちの牽制し合いを眺めながら、セラフィーナはやれやれと、今日一番の大きな溜息をつくのだった……。




