第55章 古赤竜
「ピーちゃんはここでお留守番しててね」
「グルルゥ……」
広場の端に退避していたピーちゃんが大人しく伏せるのを確認すると、丈太郎とフィリスは神殿に向かって歩き出した。
広場から続く幅広の石段を上っていく。いよいよ『星の神殿』の威容が目の前に迫ってきた。
それは、等間隔に並んだ巨大な白亜の石柱が重厚な屋根を支える、壮大で美しい建造物だった。
(元の世界で写真で見た、パルテノン神殿みたいだな……)
丈太郎は、見上げるほどの巨大な石柱を眺めながら感嘆の息を漏らした。
風雪に耐えてきたはずの石の表面には、目立ったひび割れや汚れも見当たらない。
「これが星の神殿……。セラフィーナさんは『太古からある』って言ってましたけど、随分と綺麗ですね。俺、もっとボロボロに崩れかけた遺跡みたいなのを想像してました」
丈太郎が素直な感想を口にすると、フィリスはどこか誇らしげに解説した。
「ふふっ。ここは帝都の霊峰であり、昔から重要な神事を行ってきた神聖な場所だからね。定期的に帝都が職人を派遣して修繕を行ってきたのよ」
「なるほど。だからこんなに綺麗に保たれてるんですね」
石段を上りきり、神殿の入り口が目前に迫る。
そこで、丈太郎はすっとフィリスの前に立った。
「ここからは、俺が先頭でいきます」
近づく者には容赦なくブレスの洗礼を浴びせるという古赤竜。何が起きても自分が盾になるという、丈太郎なりの静かな覚悟だった。
「ええ、お願いするわ」
フィリスは彼の頼もしい背中を見て、小さく、けれど嬉しそうに頷く。
丈太郎を先頭に、二人は巨大な列柱の間を抜け、神殿の内部へと足を踏み入れた。
神殿の中に入った瞬間――丈太郎は、肌をピリピリと刺すような異様な空気を感じて思わず足を止めた。
魔力を持たない彼でさえはっきりと分かるほど、空気が重く、ねっとりとしている。
丈太郎は静かに息を呑み再び歩きだす。
「空気が……重いですね」
「ええ。ここが大陸中の地脈が交差する特異点だからよ。それに……」
フィリスは丈太郎の背後で表情を引き締め、愛剣の柄にそっと手を添えながら、神殿の最奥へと視線を向けた。
神殿の奥、本来なら神聖な儀式が行われるはずの広大な祭壇の間。
そこに――山と見紛うほどの巨大な『赤い塊』が、静かに横たわっていた。
丈太郎はごくりと唾を飲み込み、意を決して祭壇へと一歩踏み出した。
コツン、と石畳を鳴らしたその足音に、巨大な赤い塊がピクリと反応する。
ゆっくりと持ち上がった頭部から、爬虫類特有の金色の縦瞳孔が姿を現し、近づく小さな人間たちを捉えた。
古赤竜はひどくめんどくさそうに顔を上げたかと思うと――次の瞬間には、前触れも予備動作もほとんどなしにその巨大な顎をカッと開いた。
ゴウウウウウウッ!!
鼓膜を突き破るような轟音とともに、視界を真っ赤に染め上げる灼熱のブレスが放たれた。空気を焼き尽くし、石畳をドロドロに溶かすほどの圧倒的な熱量が、津波のように丈太郎へと襲い掛かる。
「きた!」
丈太郎は一歩も退かず、腕をすっと前に出し、迫り来る炎の津波に向かって掌を突き出す。
刹那、古赤竜のブレスが丈太郎の掌に触れた。
しかし――轟音も、灼熱の熱量も、そこから先へは一ミリも進まない。
紅蓮の炎が左右に割れて消え去り、あとにはチリチリと焦げた空気の匂いだけが残る。
「……ほんと、問答無用ね」
一切の熱風すら届かず、無傷で立つ丈太郎の背後でフィリスが呆れたように肩をすくめて言った。
「ほう、我のブレスを防ぐか……面白い」
神殿の空気を震わせるような重低音が響いた。
「!? しゃべった!」
「まあ、千年を生きる古赤種だもの。人語くらい話せるわよ」
驚く丈太郎の背後で、フィリスが冷静に補足する。
「いや、あの、少しお話したいだけで……!」
丈太郎は慌てて両手を振るが、古赤竜はそんなことお構いなしに、再び大きく顎を開いた。口の奥で膨大な魔力が集束し、眩い光となって渦巻いていくのが見える。
ゴウッ!!
放たれた第二のブレスは、先程の面制圧とは違い、極限まで圧縮されたレーザーのような直線の熱線となって丈太郎を襲う。威力は比べ物にならないほど跳ね上がっていた。
……しかし。
それほどの熱線でさえ、丈太郎の突き出した掌の前では無音のまま霧散していく。
「あの、お願いです。話を聞いてもらえませんか?」
丈太郎は、ブレスを平然と受け止めながら必死に語りかけた。
(な、なんなのだこの人間は……! 我の全力の炎がまるで効かぬどころか、平然と語りかけてくるだと……!?)
古赤竜の金色の縦瞳孔に、明確な混乱の色が浮かぶ。プライドを刺激された竜は、意地になったようにさらに出力を上げていく。
「もう、わからずやのトカゲのおじいちゃんね」
フィリスが痺れを切らしたように前へ出てくる。
「ちょっとフィリスさん、危ないですよ!」
丈太郎が慌てて止めるが、フィリスは背中の《イグニシア》を抜き放った。
「古赤竜っていうから、どんな強烈な炎か楽しみにしてたのに……」
漆黒の刀身が、古赤竜のブレスの熱に呼応するように赤く輝き始める。
「この程度なら!」
フィリスは丈太郎の横を風のようにすり抜け、迫り来る極太の熱線に向かって《イグニシア》を一閃した。
フェニックスの灰を触媒に打たれた不滅の剣は、古赤竜のブレスを見事に切り裂く。そればかりか、その膨大な炎のエネルギーを刃に吸収し、紅蓮の焔として纏い上げた。
「お返しよ!」
そのままフルスイングで、巨大な炎の斬撃として古赤竜へ跳ね返した。
ズドゴォォォンッ!!
激しい炎が竜の顔面で大爆発を起こし、神殿全体が大きく揺れた。
やがて煙が晴れる。
古赤竜の強靭な鱗には傷一つついていなかった。だが――その顔は、完全に唖然としていた。まさか人間の小娘に自分のブレスを跳ね返されるなど、想像もしていなかったのだろう。ぽかんと口を開けたまま固まっている。
「ねえ、話を聞いてくれない、おじいちゃん?」
フィリスは剣を肩に担ぎ、まるで孫が祖父におねだりするかのように可愛らしく小首を傾げた。
無敵の盾を持つ青年と、自分の炎を跳ね返す規格外の剣士。
完全に出鼻をくじかれ、毒気を抜かれた古赤竜は、ふうっと長く太い息を吐き出した。
「……わかった……話を聞こう……」
威厳もすっかり鳴りを潜めた声で、ドラゴンは呟いた。
「マジか……」
圧倒的な力技での交渉成立に、丈太郎が思わず呆れ声で漏らす。
「ありがと!」
フィリスは満面の笑みで応えた。
「……それで、話というのはなんだ。人間よ」
古赤竜は渋々といった様子で、巨大な鼻を鳴らした。
「単刀直入に言うわ。この神殿の祭壇を少しの間、貸してほしいの」
フィリスの言葉に、古赤竜は金色の縦瞳孔を細めた。
「貸してほしいだと? 我の心地よい眠り処をか?」
「ええ。この子……丈太郎くんを元の世界に帰すための『帰還術式』を起動させるのに、ここの特異点のエネルギーが必要なのよ」
「あの、お願いします。儀式が終われば、すぐに出ていきますから」
丈太郎もフィリスに並び、深々と頭を下げた。
古赤竜は、自らのブレスを無音で霧散させた丈太郎をじっと見下ろした。
「ふむ……。異界の者か。道理で我の炎が通じぬ理外の存在というわけだ。……よかろう。我の眠りをひどく妨げぬというなら、好きにするがいい」
「話が早くて助かるわ! それから、もうひとつ」
フィリスは人差し指を立てて、さらに要求を重ねた。
「あなたが無意識に放ってる莫大な魔力のせいで、空間座標が乱れて帝都のギルドと繋がってる『転移魔法陣』が使えなくなってるの。少し魔力を抑えてもらえないかしら?」
「……注文の多い小娘だ」
古赤竜は不満げに低く唸ったが、先ほどのフィリスの容赦ない跳ね返しと、傷一つつけられなかった丈太郎の姿を思い出したのか、諦めたように長く太い息を吐いた。
「わかった。魔力の放出を抑えればよいのだな。ならば――こうしよう」
ズズズ……と、山のような古赤竜の巨大な身体が淡い赤い光に包まれたかと思うと、みるみるうちに縮み始めた。
「えっ!?」
丈太郎が驚きの声を上げる中、光が収まったあとに残っていたのは――子犬ほどの大きさになった、愛らしいミニチュアサイズの赤い竜だった。
「魔力を内側に留め、身体を極限まで収縮させたのだ。これなら地脈への干渉も減り、空間座標の乱れも収まるであろう。……我は隅で寝るゆえ、あとは勝手にしろ」
子犬サイズの古赤竜は、トテトテと短い足で祭壇広間の隅っこへ歩いていくと、くるりと丸くなって再び目を閉じ、すぅすぅと小さな寝息を立て始めた。
「……なんか、急にめちゃくちゃ可愛くなりましたね」
威厳の欠片もなくなった古赤竜の姿に、丈太郎は呆気にとられたように呟いた。
「ふふっ、意外と話のわかるおじいちゃんで助かったわ! さあ丈太郎くん、これで転移魔法陣が使えるようになったはずよ。先生とリシェルを呼びに行きましょ!」
フィリスは満足げに両手をパンと叩き、晴れやかな笑顔で丈太郎を振り返った。
古赤竜との無事な交渉(というか、ほぼ一方的な手懐け)を終え、丈太郎とフィリスは星の神殿の奥から戻ってきた。
「いやー、まさか古竜種があんなに猫みたいに喉を鳴らすなんて思いませんでしたよ……」
丈太郎が疲労と安堵の入り混じった息を吐き出しながら言う。
「言ったでしょ? 竜は強い力を持つ者に従うの。少しばかり撫でてあげたら、すっかり大人しくなったじゃない」
フィリスは悪びれもせず、快活に笑い飛ばした。
神殿の入り口まで戻ってくると、白亜の床に刻まれた複雑な幾何学模様が、淡い光を放っているのに丈太郎は気づいた。
「あれ? フィリスさん、これって……」
「転移魔法陣が復活してるわね!」
フィリスがぱっと顔を輝かせる。
「あの子が大人しくなったおかげで、乱れていた空間座標が元に戻ったのね」
その言葉に、丈太郎の心の中で歓喜のファンファーレが鳴り響いた。
(よし! これで帰りは、あの地獄のような飛行を味わわずに済む……!)
一瞬で帝都の魔術師ギルドへ帰れる。これほどありがたいことはない。
意気揚々と外の広場へ出ると、そこでは巨大なグリフォンのピーちゃんが、主人の帰りを待ちわびていたように「グルルルゥ!」と嬉しそうに喉を鳴らして駆け寄ってきた。
「お待たせ、ピーちゃん! いい子にしてた?」
フィリスはピーちゃんの巨大な顔をわしゃわしゃと撫で回し、そのまま軽快な動きで背にまたがった。
「さ、帰りましょ! 丈太郎くん、乗って!」
フィリスが上から手を差し出す。
「……え?」
丈太郎は差し出された手と、光り輝く転移魔法陣を交互に見て、素っ頓狂な声を上げた。
「え! 転移魔法陣で帰るんじゃないんですか!?」
「何言ってるのよ。転移魔法陣は、ギルド五十階のマスター室の隣の部屋に繋がってるのよ?」
フィリスは呆れたように言うと、ピーちゃんの首筋をぽんと叩いた。
「あんな狭い部屋にピーちゃんが転送されたら、身動きが取れなくて可哀想でしょ!」
「あ、なるほど……たしかに……」
ギルドの五十階にこんな巨大な幻獣が突然現れて暴れる光景を想像し、丈太郎は思わず納得してしまった。
「さ、早く乗って乗って」
「は、はい……」
理屈には勝てず、丈太郎は諦めたようにフィリスの手を取り、恐る恐るピーちゃんの背中へとよじ登る。そしてフィリスの細い腰に、ガシィッ!と命綱のようにしがみついた。
「そんなにガチガチにならないでよ。安心して、帰りは『安全飛行』で帰るから」
フィリスが振り返り、悪戯っぽくウインクをする。
「ほ、本当ですか? 絶対ですよ! お願いしますよ!」
丈太郎の悲痛な叫びを背に受けながら、フィリスは手綱を鋭く引いた。
「行くわよ、ピーちゃん!」
「グルァァァッ!」
巨大な翼が力強く羽ばたき、ピーちゃんは一直線に空へと舞い上がった。
(あれ? 待てよ……俺だけなら転移魔法陣で帰れたんじゃ……)
――それから数時間後。
帝都に着く頃、丈太郎が白目を剥いて完全に失神していたのは言うまでもない。




