第44章 思案
翌朝。
丈太郎は、久しぶりのベッドの感触を確かめるように、ゆっくりと目を開けた。
柔らかな朝日が、窓の隙間から差し込んでいる。
身体を起こし、窓へと歩み寄ると、そのまま静かに開け放った。
胸いっぱいに吸い込んだ空気は、決して澄んでいるとは言えない。
土と汗、料理の匂い、行き交う人々の気配――
雑多で、少し騒がしい街の匂いだった。
(……帰ってきたんだ)
その実感が、ようやく胸に落ちてくる。
丈太郎は洗面台へ向かい、顔を洗う。
冷たい水が頬を打ち、目が覚める感覚がはっきりと伝わってきた。
鏡に映る自分の顔をじっと見つめ、両手で頬を「パン」と軽く叩く。
水しぶきが跳ね、額を伝って落ちた。
(今日は……ギールさんに報告に行く)
自然と表情が引き締まる。
(その前に……フィリスさんには、昨日迷宮で起きたことを全部話さないと)
あの空間のこと。
仁と紗菜のこと。
手紙と魔石、そして《絆の石》。
(……正直に話そう)
それから――
どこまでを、ギールに伝えるのか。
丈太郎は深く息を吸い、吐いた。
(覚悟を決めないと)
その時だった。
コンコン。
控えめなノック音が、扉の向こうから響く。丈太郎がドアを開けると――
そこに立っていたのは、フィリスだった。
「おはよー!丈太郎くん!朝ご飯、食べに行こ!」
いつも通りの、明るく弾んだ声。
目の下にあったはずの隈はすっかり消え、
表情は驚くほど晴れやかだった。
昨日までの憔悴が嘘のように、元気そのものだ。
まるで――
長く張りついていた“憑き物”が、すっかり落ちたかのように。
丈太郎は、思わず小さく息を吐いた。
(……よかった)
その一言が、胸の奥で静かに広がっていった。昨日は宿に着くと、食事もとらずにそれぞれの部屋に帰った。
お互いに疲れていた。肉体的にも、精神的にも。
丈太郎はベッドに横になると、泥のように眠った。フィリスも恐らく同じだっただろう。
丈太郎はフィリスと並んで、宿屋の一階にある食堂ホールへ向かった。
朝の時間帯ということもあり、ホールにはすでに多くの宿泊者が集まっている。
中央には、宿泊者用のビュッフェ台。
焼き立てのパン、湯気を立てるスープ、卵料理、肉料理、山盛りの果物――
素朴だが食欲をそそる料理がずらりと並んでいた。
「よしっ」
フィリスは迷いなく皿を手に取ると、次々と料理を盛っていく。
パンを二つ、厚切りのベーコン、山盛りのスクランブルエッグ、ソーセージ。
さらに野菜も――一応、形だけは。
あっという間に皿は料理で埋まり、もはや平地が見えない。
(……今日も爆盛だ)
見慣れた光景に、丈太郎は思わず口元を緩める。二人は空いている席に向かい合って腰を下ろした。
「あー、お腹減ったー。いただきまーす!」
フィリスは両手を合わせると、すぐさま料理に手を伸ばす。
豪快に、しかし実に美味しそうに頬張っていく。
「んー! やっぱ朝はこれだよね!」
満足そうに頷きながら、次の一口へ。
その勢いは止まらない。
丈太郎はその様子を横目で眺めながら、パンを一つ手に取った。
噛みしめると、ほんのり甘く、温かい。
(……戻ってきたんだな)
何気ない朝の光景。
向かいで無邪気に食べ続けるフィリス。
丈太郎は静かにパンをかじりながら、
この“当たり前”の時間を、胸の奥で噛みしめていた。
「あー、お腹いっぱい! 幸せー!」
フィリスは満足そうに背もたれにもたれ、湯気の立つお茶をゆっくりとすする。
ついさっきまで皿を山のようにしていたとは思えないほど、晴れやかな表情だった。
丈太郎は一瞬、言葉を探してから、意を決して口を開いた。
「あの……フィリスさん……」
声の調子がいつもと違うことに、フィリスはすぐ気づいた。
カップを置き、丈太郎の方を見る。
「うん。……迷宮で、何があったのか話してくれるのよね?」
冗談めかした口調は消え、真剣な眼差しになる。
丈太郎は小さく息を吸い、頷いた。
「はい。それで……」
言いかけて、周囲を見回す。
食堂はそれなりに賑わっていて、他の宿泊客の話し声が絶えない。
フィリスはそれを察したように、立ち上がった。
「じゃあ、私の部屋に行きましょ。そこで聞くわ」
そう言いかけて――
ぴたり、と足を止める。
「……と、その前に!」
くるりと踵を返し、デザートコーナーへ向かうフィリス。
戻ってきた手には、小ぶりなケーキが載った皿があった。
「これは別腹だから!」
にこにこと嬉しそうに言いながら、ためらいなくフォークを入れる。
丈太郎は思わず苦笑した。
朝食を終えた二人は、そのままフィリスの部屋へ向かう。
廊下を歩きながら、丈太郎の胸はわずかに落ち着かない。
部屋の前でフィリスが扉を開ける。
「どうぞ」
促されるまま中に入り、丈太郎は少しだけ背筋を伸ばした。
(……なんだろう、この感じ……)
理由もなく、少しだけドキドキする。
部屋の中央にある小さなテーブルを挟み、二人は向かい合って腰を下ろす。
フィリスは手際よく紅茶を淹れ、丈太郎の前にカップを置いた。
そして――
自分の手元には、ちゃっかりと食堂から持ち出してきたカップケーキが一つ。
丈太郎は、それを見て小さく笑ってしまう。
「……抜かりないですね」
「当然でしょ?」
フィリスは悪びれもせず、ケーキを少し寄せてから、丈太郎を見た。
「さ。今度こそ、話してくれる?」
その一言で、空気が切り替わる。
丈太郎はカップに両手を添え、深く息を吸った。
「……はい」
迷宮で起きたことを、すべて話す覚悟を決めて。
丈太郎は、ひとつ息を整えてから語り始めた。
言葉を選び、急がず、順を追って。
奈落に落とされた直後のこと。
闇に呑まれ、意識が途切れるはずだったその先で、見知らぬ空間に立っていたこと。
迷宮の階層とは繋がっていない、隔離された場所だったこと。
そこで出会った二人――
仁と、紗菜。
微笑んでいた彼らの目は、どこか寂しげだったこと。
彼らが自分と同じ「転移者」であること。
ただし、丈太郎とは決定的に違う時間を生きてきた存在であること。
「……五百年前に、この世界に来たって言ってました」
フィリスの眉が、ぴくりと動く。
仁と紗菜は、召喚術によってこの世界に呼び出されたこと。
だが帰還術式の負荷に肉体は耐えきれず――
魂だけが残ったこと。
「……そんな……」
フィリスの声が、わずかに掠れる。
それでも二人は、異能の力だけを残して存在し続けていること。
仁の《万物創造》。
紗菜の《無限魔力》。
その二つによって、迷宮が造られたこと。
五百年、人類が解けなかった迷宮の正体が、彼らであること。
「迷宮は……あの人たちの“生きた証”だって……」
そう口にしながら、丈太郎自身も胸の奥が締めつけられるのを感じていた。
フィリスは、言葉を失っていた。
丈太郎は、そこで一度区切りを入れ、最も重要な部分へ進む。
「それから……帰還の話です」
フィリスが、はっと顔を上げる。
「俺の《絶対防御》なら……帰還術式が与える“負荷”に、耐えられるかもしれないって」
絶対防御。
あらゆる干渉を拒む力。
それが、世界を越える際の理の拒絶すら無効化できる可能性がある――。
「だから……帝都で、ある人物に会う必要があるって言われました」
丈太郎が、静かに続ける。
「五百年前、仁さんたちを召喚した魔女です」
その名を口にした瞬間だった。
「……セラフィーナ」
フィリスの肩が、大きく跳ねた。
次の瞬間――
ガタリ、と椅子が音を立てる。
「セラフィーナって……」
フィリスは、立ち上がったまま、信じられないものを見るように丈太郎を見つめる。
「……先生……!?」
声が、わずかに震えていた。
丈太郎はその言葉に驚く。
「先生!?フィリスさんはセラフィーナって魔女を知ってるんですか?」
「ええ。帝都の……魔術師ギルドのマスター…私の…魔法の師よ…」
フィリスは、その場に立ち尽くしたまま、言葉を失っていた。
フィリスの言葉に、丈太郎は息をのんだ。
偶然ではない――何かが、確かに繋がっている。
「……そうだったんですね……」
丈太郎は少し呆然としたまま呟いた。
「それにしても…まさか先生が…」
「はい……」
丈太郎も、胸の奥がざわついたまま頷く。
「フィリスさんの師匠だと聞いて……正直、俺も驚きました」
少し間を置き、丈太郎は続けた。
「それで……次は、ギールさんへの報告なんですが……どこまで話すべきか……」
「……そうね」
フィリスは椅子に座り直し、カップを両手で包むように持つ。
一口、紅茶を口に含み――静かに息を吐いた。
「仁たちのことは……伏せましょう」
はっきりとした口調だった。
「迷宮の真実も、彼らが転移者だったことも……今この街で明かせば、大混乱を招くわ」
フィリスは視線を落とし、考えをまとめるように言葉を続ける。
「ギールさんには……丈太郎くんは奈落に落とされたあと、見知らぬ場所を彷徨い――そこで偶然、転移陣を見つけて、第十階層に戻ってきた……それだけでいい」
「他のことは……何も見ていない、何も知らない……と」
「……わかりました」
丈太郎は迷いなく頷いた。
「マリナとダリオにも、同じね」
フィリスは顔を上げ、丈太郎を見る。
「彼らを信じていないわけじゃない。でも……これは、知れば知るほど危険な話だから」
「……はい」
短く返事をしながら、丈太郎は胸の奥で、その重みを噛みしめた。
一瞬の沈黙。
そして――
フィリスは、ふっと表情を緩める。
「丈太郎くん……話してくれて、ありがとう」
その微笑みは、柔らかく、温かかった。
「こんなに重大なことを話すのは……相当、覚悟が要ったでしょう」
丈太郎は少し照れたように視線を逸らす。
「……フィリスさんなら……信じていいと思いました」
その言葉に、フィリスの目が一瞬、驚いたように揺れ――
そして、どこか嬉しそうに細められた。
「……ええ」
静かに頷く。
「その信頼……無駄にはしないわ」
紅茶の湯気が、二人の間をゆっくりと漂っていた。
この朝は、まだ始まったばかりだが――
丈太郎とフィリスは、もうひとつ“覚悟”を共有したのだった。
フィリスは、じっと丈太郎の顔を見つめた。
「……他に、言い忘れていることはない?」
探るようではなく、確かめるような視線だった。
丈太郎は一瞬だけ逡巡し、それから思い出したように口を開く。
「あ……仁さんたちから、帝都の魔女――セラフィーナさんへの手紙と、帰還術式に必要になるだろう魔石を預かりました」
フィリスは小さく息を吸い、静かに頷く。
「なるほど……それは重要ね」
そして、少し柔らいだ声で続けた。
「それは丈太郎くんが、大事に持っていて。誰にも見せないで」
「……わかりました」
丈太郎は素直に頷く。
その瞬間、ふと―― 《絆の石》のことが脳裏をよぎった。
(あれは……本当は、フィリスさんに渡したいけど……)
胸の奥が、むず痒くなる。
(さすがに……今は照れくさいな……また、タイミングを見て……)
丈太郎は、そのことを口には出さなかった。
フィリスは、丈太郎の表情のわずかな変化を見逃さなかったが、あえて何も言わず、軽く伸びをする。
「よしっ」
いつもの調子に戻った声だった。
「じゃあ、ギールさんのところに行きましょ。報告、済ませちゃわないとね」
「はい」
丈太郎は立ち上がり、フィリスと並ぶ。
二人は並んで宿を出ると、朝の街を抜け―― 冒険者ギルドへと向かって歩き出した。
これから話すべきこと。 そして、まだ胸の奥にしまったままのもの。
それらを抱えながら、丈太郎は一歩一歩、前へ進んでいくのだった。




