第39章 迷宮(前編)
フィリスはカウンターで現金を受け取り、立ち去ろうとした――その時だった。
「フィリスじゃないか!」
カウンター横の扉から、ひとりの男が声を上げた。
「あ、ギールさん。お久しぶりです」
フィリスは軽く手を上げて挨拶する。
丈太郎は“ギール”と呼ばれた男を観察する。灰色の短髪に片目の眼帯、鍛え上げられた体躯――いかにも歴戦の猛者といった風貌だ。
「ちょうどいい。来てくれ!」
ギールは短く言い、足早に扉の中へと入っていく。扉の上には《治癒所》と刻まれたプレートが掛かっていた。
フィリスは肩をすくめて苦笑し、ギールの後に続く。丈太郎も慌てて後を追った。
中に入ると、複数のベッドと魔法治療の器具が並んでいた。薬草の匂いが鼻をかすめ、丈太郎はルノア村の治癒院を思い出す。
ギールはフィリスの後ろに立つ丈太郎へ視線を向けた。
「そいつが――不滅のジョーか?」
「ええ。私の弟子です」
「丈太郎くん、この人は冒険者ギルドのマスター、ギールさんよ」
「初めまして。丈太郎と申します」
丈太郎は姿勢を正して頭を下げた。
「ジョウタロウ、か。ギールだ。よろしく頼む」
「で、用件はなんですか?」
フィリスが促すと、ギールは短く答えた。
「おまえの知り合いだったよな。こっちだ」
ギールは治癒所の奥へ進み、さらに奥の扉を開ける。中にはベッドが一つ。そこに、ひとりの若い女性が横たわっていた。傍らには治癒士らしき男が立ち、ギールの方を見て首を振る。
「……マリナ!!」
フィリスは息を呑み、思わず声を上げた。
「《ディスペル・カース》でも駄目でした……」
治癒士らしき男が沈痛な声で言った。
「なんてことだ……上級魔法でも駄目とは……」
ギールの低い声が治癒所に落ちる。
「どういうことですか!? なんでマリナがここに!?」
フィリスの声には、焦りと動揺が混じっていた。
「知りたいのは俺の方だ」
ギールは深く息を吐く。
「今朝方、迷宮入口の門兵達が連れてきた。マリナを含む三人が、ふらつく足取りで出てきたらしい。迷宮から出て来たときは、まだ意識があったそうだ。だが途中で……気を失った」
ギールは目を伏せる。
「結論から言えば――マリナは強力な呪いを受けている」
「そんな……他の二人は?」
フィリスの声は震えていた。
「ここに運ばれたときには……もう息がなかった。さっき地下の遺体安置所に運んだところだ…」
ギールはうつむき、静かに首を振った。
「……マリナは、Aランクの治癒士だ。今も無意識のうちに《浄化魔法》を発動し続けている。だが、それがいつまで持つか……」
ベッドの上で眠るマリナは、苦悶の表情を浮かべていた。その姿を見て、丈太郎は息を呑む。
(意識がないのに……自動で浄化魔法を……? すごい……)
フィリスはマリナに駆け寄り、目を見開いた。
「これは……」
丈太郎もベッドの傍に立つ。
マリナの身体には、黒いイバラのようなものが絡みついていた。
淡い紫の光を放ち、脈動している。
「ああ……こんな呪いは見たことがない」
ギールの声は重く沈んでいた。
「《ディスペル・カース》が効かないとなれば……相当な“高位呪詛”だ。おまえなら何か分かるかと思ったんだが、どうだ?」
「こんな呪い私も見たことありません……でも、もしかしたら――」
フィリスが小さく呟き、ゆっくりと丈太郎の方を振り向く。
丈太郎は何も言わずに頷いた。
その瞳には、確信と覚悟の光が宿っていた。
「……ギールさん、人払いをお願いします」
「……わかった。……俺も出た方がいいか?」
ギールの声は低く、重かった。
フィリスは真剣な眼差しで頷く。
「お願い。少しだけでいいの」
ギールと治癒士は無言で部屋を出ていった。扉が閉まり、静寂が訪れる。
「丈太郎くん――お願い」
フィリスの声は静かだったが、微かに震えていた。
丈太郎は深く息を吸い、頷く。
「……わかりました」
丈太郎は静かにマリナへ歩み寄り、
その手をそっとかざした。
指先が彼女の肌に触れた瞬間――。
バチッ!
空気が弾けるような音とともに、
黒いイバラが光を散らしながら霧のように消え去っていく。
「……やった!」
フィリスは喜びの声をあげた。
マリナのまぶたが、ゆっくりと震える。
次の瞬間、彼女は小さく息を吸い、目を開いた。
「マリナ!」
フィリスは涙ぐみながら駆け寄り、力いっぱい抱きしめた。
「えっ……フィリス? ここは……?」
マリナは混乱した表情で周囲を見渡す。
丈太郎は静かに立ち上がり、扉を開ける。
「もう大丈夫です」
ギールたちが駆け込んでくる。
マリナの姿を見て、目を見開いた。
「バカな……どうやって……」
「信じられません……呪詛の痕が完全に消えている……!」
治癒士が慌ててマリナの脈を確かめる。
ギールは丈太郎を見つめ、言葉を失っていた。
マリナはゆっくりと身を起こし、ぼんやりと周囲を見渡した。
「マリナ、大丈夫?」
フィリスが心配そうに問いかける。
「ええ……なんともないわ。あの呪い、フィリスが解呪してくれたのね」
「うん……まあ、彼がね」
フィリスは丈太郎の方を向く。
マリナもその視線を追い、静かに言った。
「そう……あなたが……ありがとう」
「いえ。無事でよかったです」
丈太郎は穏やかに答えた。
その瞬間、マリナはハッと何かを思い出したように目を見開く。
「ニックとビリーは!? 二人は無事なの!?」
マリナの声が震える。フィリスは視線を落とした。
「……残念だが、間に合わなかった」
ギールが静かに告げる。
「そんな……!」
マリナは唇を噛みしめ、肩を震わせた。
悔しさと悲しみが一気にあふれ、涙が頬を伝う。
フィリスはそっと彼女の手を握った。
「……マリナ」
だが次の瞬間、マリナは勢いよく顔を上げる。
「――ダリオが! ダリオはまだ迷宮にいるの! 助けに行かないと!」
「なんだって!?」
ギールの声が低く響く。
マリナはベッドから降りようとするが、フィリスが慌てて押しとどめた。
「マリナ、落ち着いて! あなた、ダリオと一緒に潜ってたのね?」
「ダリオは……私たちをかばって……! 一人で迷宮に残されたの!」
マリナの瞳が潤み、声が震える。
「わかったから、落ち着いて。ちゃんと順を追って話して」
フィリスはマリナの肩を支え、優しく諭した。
マリナは深呼吸をひとつして、小さく頷いた。
「……ごめんなさい。少し混乱してたわ」
「いいの。ゆっくりでいいから、話して」
室内には静寂が戻る。
丈太郎とギールは、息を詰めてマリナの口を待った――。
マリナは静かに語り始めた。
「私たちは一昨日、財宝採取の目的で迷宮に潜ったの。目標は二十階層。そこなら比較的安全で、良質な宝が手に入るはずだった。途中、十階層で休憩をとったの。その時、シーフのビリーが“ちょっと探検してくる”って言って、どこかへ行ったのよ。しばらくして戻ってきたとき、彼は興奮していた。“隠し部屋を見つけた!”って。
私たちは彼の案内でそこへ向かったわ。マップ上では行き止まり。目の前にはただの壁しかなかった。でも、ビリーは“この壁の向こうに空洞がある”って言い張ったの。私は半信半疑で、隠ぺい解除魔法をかけてみたの。すると――壁が淡く光り、扉が浮かび上がった。
……その瞬間、嫌な予感がしたわ。微かだけど、中から“瘴気”を感じたの。ダリオは“いったん戻ってギルドに報告しよう”って言った。でもビリーは反対したの。“すごいお宝があるかもしれない”って……。ダリオが止めるのも聞かず、ビリーは扉を開けてしまったの。
その途端、ものすごい濃度の瘴気が溢れ出した――。息が詰まるような圧迫感。今まで感じたこともない禍々しさだった。……中から、何かがこっちを“見ている”のを感じたの。ダリオは私たちを突き飛ばした。
次の瞬間、彼の身体は扉の奥に吸い込まれたの。そして――扉は、私たちを残して閉じた。どうやっても、開かなかった。気づいた時には、私たちは“呪われていた”の。救援を呼ぶために地上へ戻ろうとしたけれど……迷宮の出口までたどり着いたところで、私は――記憶が途切れている」
マリナはそこまで話すと、両手を膝の上で握りしめた。彼女の指先は、まだわずかに震えていた。
話を聞き終えた一同は、沈黙に包まれていた。
「十階層か……まさか、そんな浅い階層に未探索エリアがあったとはな」
ギールは腕を組み、深く考え込む。
「救援隊を送るか……うーむ」
その時、治癒士が声を上げた。
「危険すぎます! Aランクの冒険者が二人も死亡し、一人は行方不明ですよ!まだ生きているかどうかもわからない者のために救援隊を編成するなんて……!」
そこまで言って、治癒士ははっとして口をつぐむ。マリナを横目に見て、気まずそうに視線を逸らした。
マリナは俯いたまま、唇を噛みしめている。
「……確かに、二次遭難だけは避けたい」
ギールの声は重かった。
「見捨てるっていうんですか!?」
フィリスが立ち上がり、怒りをあらわにする。
「そんなことは言っていない!」
ギールも声を荒げた。
「犠牲をこれ以上増やしたくないだけだ!」
だが、フィリスの怒りは収まらなかった。
拳を握りしめると、そのまま無言で部屋を出て行った。
丈太郎は小さく息を吐き、彼女の後を追う。
廊下の長椅子に腰を下ろし、フィリスはうつむいたまま動かない。その横顔は、いつもの快活さが消えていた。
丈太郎はそっと隣に座る。
「どうしたんですか? フィリスさんらしくないですよ」
「……うるさい」
小さな声が返ってくる。
(危険なのはわかってる……それでも助けに行きたい。マリナを…ダリオを救いたい。――でも、丈太郎くんを巻き込むわけにはいかない……帝都に向かわなくちゃいけないのに……)
「フィリスさん」
丈太郎はまっすぐに彼女を見た。
「ダリオさんを助けに行きましょう」
「え?丈太郎くん……でも……」
フィリスは驚いて顔を上げる。
丈太郎は穏やかに微笑んだ。
「俺は大丈夫です。帝都行きは逃げるわけじゃない。それに――フィリスさんが行かないなら、俺がひとりで助けに行きます」
「……まったく、困った弟子ね」
フィリスは小さく笑った。
そして立ち上がり、力強く頷く。
「――わかったわ。助けに行きましょう!」
丈太郎も立ち上がり、同じように笑みを浮かべた。
「それでこそ、フィリスさんです」
「生意気なんだから……」
そう言いながら、フィリスはマリナのいる部屋の扉へ歩いていく。
取っ手に手をかけたまま、少しだけ振り返り言った。
「……でも、ありがと」
その声は小さく、それでいて確かな決意を帯びていた。
「マリナ! 私たちがダリオを助けに行くわ!」
「フィリス……でも、あなたまで危険な目に……!」
マリナは驚き、目を見開く。
「私と丈太郎くんに任せなさい!」
フィリスは胸を張って言い切った。
「マリナさん。ダリオさんは必ず助けます。安心してください」
丈太郎の言葉に、マリナの瞳が潤む。
「丈太郎さん……ありがとう……」
「ギールさん、これで文句はありませんよね!」
フィリスはきっぱりと言い放つ。
「しかし……二人だけでは危険ではないか? 増援を――」
「なまじ人数を増やすとかえって危険よ。それに時間が惜しいの。準備ができたら、すぐに潜るわ。――丈太郎くん、それでいい?」
「了解しました」
丈太郎は即座に頷いた。
その時、マリナが静かに声を挟む。
「それに……二人じゃないわ。私も行く」
「マリナ!? 本気なの?」
「ええ。呪いが解けた今は、もう何ともないわ。それに――現場を知ってる私が案内した方が早いでしょう?」
フィリスは少しだけ目を見開いたが、すぐに笑った。
「オッケー。じゃあ決まりね! 準備ができ次第、迷宮入口に集合!」
明るく言い放つその姿に、さっきまでの沈んだ面影はもうない。
――フィリスは、すっかりいつもの調子を取り戻していた。
丈太郎とフィリスは、準備のために宿へ戻っていた。
夕暮れの街を並んで歩きながら、丈太郎が口を開く。
「フィリスさん、マリナさんとはどういう関係なんですか?友達……ですか?」
フィリスは少し宙を見つめ、考えるように言った。
「うーん……友達とはちょっと違うかな。そうね――“戦友”って感じかしら」
「戦友?」
「ほら、昨日話したでしょ。駆け出しの頃、迷宮に潜ったって。あの時、一緒にいたのがマリナとダリオなの。なんとなくウマが合ってね。メイキュリアにいた頃はよくつるんでたわ」
フィリスの表情が、少しだけ懐かしげにゆるむ。
「マリナとダリオは恋人同士だったのよ。
……まさか、まだ一緒にいたとはね。」
「そうだったんですか。最近は会ってなかったんですね?」
「うん。三年前に別れて以来、全然会ってなかった。ふたりがAランクになったって噂は聞いてたけど――まさか、こんな形で再会するなんてね……」
フィリスはうつむき、ほんの一瞬、足を止めた。丈太郎は静かに言葉を添える。
「大丈夫ですよ。きっとダリオさんは助かります」
その言葉に、フィリスははっとして顔を上げる。そして、いつもの笑顔を取り戻した。
「……そうね! 絶対に助けましょ!
ダリオに酒を奢らせてやるんだから!」
「俺も便乗します!」
ふたりは顔を見合わせて笑った。
やがて宿に着く。
フィリスは扉を開けながら、すっかり実務モードに戻っていた。
「十階層までは、だいたい一日。往復で二日分の食料と水があれば十分ね。この酒場のカウンターで買えるから、お願いできる?」
「わかりました」
「――あ、あと、お酒も忘れずにね!」
「……了解です」
丈太郎は苦笑しながら返事をした。




