第37章 決闘(前編)
宿屋の大浴場──四日ぶりの湯は、丈太郎の疲れをゆっくり溶かした。
肌を包む熱、立ちのぼる湯気、木桶の濡れた匂い。つい漏れる吐息が、どこか幸福に響く。
今日は本当に大変だった。リッジ・ヴァンガードの面々が無事でよかった。
トロールは巨大で、戦いは激しかった。ほかにも幾種もの魔物に襲われたが、不思議なことにどれも動きがゆっくりに見えた。
まるでスローモーションだ——アウトリアでの修行、フィリスの剣を受け続けた成果なのだろうか。彼女の斬撃は速く美しい。視界にとらえられるようになったが、まだ完全には制せていない。
そして、最後のとどめはいつもフィリスが刺してくれた。助けられている事実は否定しない。だが、それでいいのかと自分に問いかける。
もし自分がとどめを刺さなければ、いつか同じ魔物が誰かを襲うかもしれない。今の自分は、殺すことへの躊躇を彼女に委ねているだけではないか——甘えているだけではないか。
とどめを刺そうとすると、どうしても手が震える。胸が締めつけられる。湯面に映った自分の顔を見つめ、丈太郎は静かに目を閉じた。
(──俺は、どうしたいんだ?)
風呂を出た丈太郎は、湯衣姿のまま宿屋の食堂へ向かった。
廊下を抜けて扉を開けると、木と酒の匂いが心地よく鼻をくすぐる。
カウンターには、すでにフィリスの姿があった。彼女も湯衣姿で、片手には当然のようにエールのジョッキ。
その表情はどこか嬉しそうで、喉を鳴らしてごくりと飲んでいる。
遠目に見れば、ただの綺麗なお姉さんが湯上がりに酒を嗜んでいるようにしか見えない。
甲冑を脱いだせいだろう。
おそらく、誰もこの女性が“神炎のフィリス”だとは気づいていない。
周囲の客たちがちらちらと視線を送っていた。男だけでなく、女でさえ息をのむように見惚れている。
フィリスの持つ美しさと存在感が、まるで静かな焔のようにその場の空気を支配していた。
丈太郎はその隣の席に腰を下ろす。
ほぼ同時に、店員がジョッキを運んできた。
「そろそろ来ると思って、頼んでおいたわよ」
フィリスがにっこり笑う。
「ありがとうございます」
丈太郎も笑い、ジョッキを掲げる。
「死の山越え、お疲れ様!」
「お疲れ様でした!」
ジョッキが軽くぶつかる音が響く。
泡がこぼれ、麦の香りがふわりと広がった。
丈太郎はごくごくとエールを流し込む。
酒に酔わない体質とはいえ、この味と喉ごしは最高だった。
湯上がりの熱が、心地よく胸の奥まで広がっていく。
(……こうして笑って飲める時間が、いちばん幸せだな)
「明日からは街道沿いの宿場町を経由していくから、しばらく野営はないわ」
「野営がないのは少し寂しいけど、毎日お風呂に入れるのは助かりますね」
「ほんと、お風呂好きねぇ」
そんな他愛もない会話を交わしている最中――
丈太郎は、ふと神妙な面持ちで口を開いた。
「俺、これまで……ずっとフィリスさんにとどめを刺してもらってて。なんだか申し訳なくて。でも、やっぱり殺すことに抵抗があって……このままじゃ、フィリスさんに甘えてばかりでいけないってわかってるんですけど……もう、どうしたらいいのか分からなくて」
丈太郎は胸の内を赤裸々に打ち明けた。声は震え、目は真剣だった。
フィリスはじっと彼を見つめ、ふっと柔らかく笑った。
「……甘えなさい。私はあなたの師よ。私があなたの剣になればいい。だから、あなたは自分の信念を貫きなさい」
「でも、それだとフィリスさんにばかり負担が……」
「負担? むしろ楽させてもらってるわよ。あなたが背中を守ってくれるから、私は目の前だけに集中できる。こんなに楽なことはない。ひとりで旅していたときは、全方位に気を配らなきゃいけなかったからね」
フィリスはジョッキを置き、真剣な目で続ける。
「それにね、私は思うの。あなたが『他人を傷つけたくない』という信念があるからこそ、ここまで強くなれたんだと。だから――あなたはそのままでいい。遠慮せず、私を頼りなさい」
丈太郎は言葉を失い、静かに肩を垂れた。胸の中に温かさが広がる。
「フィリスさん……」
その声に、フィリスは小さく頷いた。
「フィリスさん、俺……フィリスさんがもっと楽できるように、全力で背中を守ります!」
フィリスは一瞬だけ目を細め、にっと笑った。
「任せたわよ――相棒!」
二人は顔を見合わせて笑い、ジョッキを軽くぶつけた。
木の音が心地よく響き、夜の食堂に小さな乾杯の音が広がった。
楽しくて、嬉しくて――つい飲みすぎてしまった。
もよおしてきた丈太郎は、席を立つ。
フィリスは「了解」と言わんばかりに、何も言わずにジョッキを傾けた。
用を済ませた丈太郎が席へ戻ろうとすると、 自分の座っていた場所に見知らぬ男が座っていた。
なにやらフィリスに話しかけている。
フィリスは――死んだ魚のような目をしていた。
その表情を見て、丈太郎はすぐに察した。
(ナンパか……)
アウトリアでも滞在当初は、酒場でよく見かけた光景だった。
そのたびにフィリスはあからさまに嫌そうな顔をし、男たちは軽くあしらわれてすごすごと帰っていった。
いずれ彼らは気づくのだ。
その女性が、“神炎のフィリス”であることに。 そして誰も声をかけなくなる。
だからこそ、アウトリア滞在の後半には、
こんな光景を見ることもなくなっていた。
近づくにつれ、会話が聞こえてきた。
「なあ、フィリス。一緒に飲もうぜ」
(こいつ……フィリスさんだと分かってナンパしてるのか)
精悍な顔立ちの男。
自信に満ちた態度――冒険者か。
高級宿に泊まるあたり、相当の実力者なのだろう。
「ごめんなさいね。私は連れと飲んでるの」
フィリスは面倒くさそうに答えた。
「固いこと言うなよ。あんなガキほっといて、同じAランク同士で楽しくやろうぜ」
男がフィリスの肩に手を伸ばした、その瞬間――
ドンッ!
男の身体が横に弾き飛ばされる。
そして、丈太郎が男のいた席に腰を下ろしていた。
――ケツドンだ。
「な、何しやがる!」
食堂が一瞬で静まり返る。
「ん? ゴミかと思った」
丈太郎はさらりと言い放った。
「じょっ、丈太郎くん!?」
フィリスが目を見開く。
「ゴミだと!? 俺を誰だと思ってる!」
「え? ゴミに名前ついてんの?」
「き、貴様ぁっ! フィリスの腰巾着が! フィリスの傘に隠れて調子に乗るな!」
男が拳を握る。
「聞き捨てならないわね」
フィリスの声が低く響いた。
「彼は腰巾着じゃない。――私の弟子よ」
「なっ!? お前が弟子だと? こんな雑魚を? 冗談はほどほどにな!」
男は下卑た笑いを浮かべた。
「いいわ。じゃあこうしましょう」
フィリスはジョッキを置き、立ち上がる。
「あなたが私の弟子を倒せたら、――あなたとデートしてあげる。勝負は明朝、宿屋の前でどう?」
「えっ!? フィリスさん!?」
丈太郎は思わず声を上げた。
「いいだろう! その言葉、忘れるなよ!」
男は勝ち誇ったように笑い、食堂を出ていった。
「面白くなってきやがった!」
「フィリスの弟子と――双牙のレイブンの勝負だってよ!」
「双牙って、あのAランクの!?」
「明日の朝、宿の前で決闘らしい!」
「見に行くしかねぇだろ!」
食堂は一気にざわめき立った。
興奮と好奇心が渦巻き、空気が熱を帯びる。
「……」
丈太郎は無言のまま、うつむいていた。
その拳は膝の上で静かに握られている。
「大丈夫。丈太郎くんなら勝てるから」
フィリスが優しく言った。
その声は、弟子を想う師のものだった。
丈太郎は顔を上げ、まっすぐにフィリスを見る。
「はい。――任せてください。あんなやつに、フィリスさんは渡しません」
真っすぐな眼差し。
その言葉に、フィリスの頬がわずかに赤く染まる。
「……う、うん」
ジョッキの中の泡が、静かに弾けた。




