第36章 山越え(後編)
死を覚悟した。
――なのに、衝撃がない。痛みも、ない。
……痛みも感じずに死ぬって、こういうこと……?
ミュリナは恐る恐る目を開いた。
そこには、ひとりの青年が立っていた。
彼は片腕で、ハイ・トロールの棍棒を受け止めていた。
信じられない光景だった。
あの一撃を――まるで枝でも掴むように、軽々と止めている。
「……っ?」
ガルドの前にいたもう一体のハイ・トロールが標的を変え、咆哮を上げて青年に向かって棍棒を振り下ろす。
青年はそれをひらりとかわし、流れるような動きで棍棒を掴んだ。
そして、力を入れるでもなく、いなすように腕を返す。
――ドンッ。
巨体が宙に浮き、地面へ叩きつけられた。
大地が震え、土煙が舞う。
さらに、棍棒を受け止められたハイ・トロールが再び突進してくる。
青年はわずかに身を捻り、相手の突進の勢いを利用して体勢を崩させ、沈み込んだ額に的確に剣の柄頭を打ちつけた。
刹那の出来事だった。
ハイ・トロールの瞳が虚ろになり、巨体が前のめりに倒れる。
ミュリナは息を呑んだ。
現実感が追いつかない。
何が起きているのか、理解できない。
「……誰……?」
ハッとしてエレナの方を振り向く。
彼女に迫っていた最後のハイ・トロールが、今は燃え上がっていた。
爆炎に包まれ、断末魔の叫びを上げる。
炎の向こうから、ひとりの女剣士が現れた。漆黒の鎧に身を包み、金の髪を風になびかせる。
燃えさかる光の中で、蒼い瞳がまっすぐにこちらを見据えていた。
その眼差しに、迷いも恐れもなかった。
ただ、燃えるような意志の光だけがあった。
彼女は静かに歩み寄ると、剣を一閃した。
――キィン、と高い音が響く。
次の瞬間、炎が弾け、風が吹き抜けた。
ミュリナは思わず目を細める。
熱を感じて振り返ると、先ほど青年が倒した二体のハイ・トロールたちも、炎に包まれ、灰と化していくところだった。
ただ、呆然と見つめるしかなかった。
地を揺らしていた咆哮は止み、あれほど重かった空気が嘘のように静まっている。
春の山に、穏やかな風が吹いた。
その風は、焦げた匂いをさらい――
ほんの少し、温かかった。
* * *
「間一髪だったわね。」
フィリスは《イグニシア》を背中の鞘に納め、肩で息をついた。
炎の残り香が、春の風に流れていく。
「間に合って良かったです。」
丈太郎もほっと息を吐いた。
辺りを見回すと、倒れたトロールたちはすでに灰と化し、わずかに焦げた土の匂いだけが残っていた。
「大丈夫ですか?」
丈太郎は、呆然と座っている治癒士の女性に声をかけた。
「あ、はい……私は、大丈夫です……」
女性――ミュリナは我に返るように答えると、はっとして膝元を見る。
そこには、仰向けに倒れた剣士がいた。
「レオンが……! 重傷です。でも息はあります。このままヒールを続ければ……!」
ミュリナは慌てて詠唱を始めた。
淡い光がレオンの体を包み、微かに呼吸が整っていく。
「た、助かったぁ……!」
盾を抱えた戦士――ガルドが、全身の力を抜いて叫んだ。
その声には、緊張の糸が切れたような安堵が滲んでいた。
「ありがとう。本当にありがとう……!」
ガルドは丈太郎とフィリスに頭を下げる。
続いて、魔術師の女性――エレナが震える声で言った。
「……あなたたちが来なければ、全員……本当に、ありがとうございました」
丈太郎は軽く首を振った。
「無事で何よりです」
その言葉に、ミュリナの目からぽろりと涙がこぼれた。
それは、恐怖からの涙ではなく――命がつながったことへの涙だった。
誰も言葉を発さなかった。
ただ、風が木々を揺らし、灰をさらっていく音だけが響いていた。
春の山に、穏やかな風が吹き抜けた。
まるで“死の山”が、ようやく息をついたかのように。
ミュリナの掌から、淡い光が零れていた。
その光がレオンの体を包み、やがて彼の瞼がわずかに震える。
「……俺は……助かったのか? トロールは……?」
レオンがゆっくりと上体を起こし、きょろきょろと周囲を見回した。
そこにあったのは、灰と焦げ跡、そして穏やかな風だけ。
「良かった……!」
ミュリナは胸の前で手を組み、涙交じりの声を漏らした。
ガルドとエレナもほっと息をつき、互いに顔を見合わせる。
「この人たちが助けてくれたんだよ」
ガルドがそう言って、丈太郎たちに視線を向けた。
フィリスが微笑みながら一歩前に出る。
「私はフィリス」
「丈太郎です」
2人は静かに名乗る。
フィリスが軽く笑みを浮かべた。
「パーティー名は――《紅き絶防》。よろしくね!」
その瞬間、丈太郎の胸に熱いものが灯った。
初めての名乗り。
それは、ただの呼称ではなく――彼らの歩みを象徴する旗印のように感じられた。
その言葉に、レオンが目を丸くした。
「紅き……絶防? 聞いたことのない名前だな。でも……強い響きだ」
ガルドが照れくさそうに頭をかく。
「失礼、自己紹介がまだだったな。俺はガルド」
「リーダーのレオンだ。パーティー名は《リッジ・ヴァンガード》。助けてくれてありがとう!」
レオンは深々と頭を下げた。
「魔術師のエレナです」
「治癒士のミュリナです。……改めて、本当にありがとうございました」
四人の声が重なり、静かな森に響いた。
丈太郎とフィリスは顔を見合わせ、穏やかに頷く。
春風が木々を揺らし、灰をさらっていく。
まるで、彼らの新しい旅路を祝福するかのように。
「とにかく、ここにずっといるのは危険ね。一旦引き返すしかないんじゃない?」
フィリスは四人を見渡しながら言った。
「そうするよ。装備もボロボロだし、移獣も失ってしまった」
レオンの声には、悔しさと安堵が入り混じっていた。
その言葉に、他の三人も静かに頷く。
皆、どこか呆けたような表情をしている。
極限の緊張から一気に力が抜けたのだろう。
丈太郎は周囲を見回し、深く息を吐いた。
焦げた匂いがまだ残っている。
けれど、それはもう――「死の匂い」ではなかった。
「私たちも一緒に行くわ。どうせ麓の宿場街までは同じ道だし」
フィリスは軽く笑みを浮かべる。
「助かるよ」
レオンが頭を下げた。
「心強いです」
ミュリナも続ける。
エレナがふと、燃え尽きた灰を見つめながら呟いた。
「……本当に、助かったんですね」
その声は震えていたが、確かに“生きている”実感に満ちていた。
「旅は道づれ、ね!」
フィリスは明るく言い放ち、少しだけ肩の力を抜いた。
その笑顔につられて、ミュリナたちもようやく微笑みを返す。
森の静けさの中に、柔らかな空気が戻っていた。
レオンたち四人は、散乱した荷物をまとめて丈太郎たちの移獣に載せた。
六人は並んで峠道を下り始める。
谷風が木々を揺らし、枝葉の間から柔らかな日差しが差し込む。
さっきまで“死の山”と呼ばれていた場所とは思えないほど穏やかだった。
「ところで、“紅き絶防”ってパーティーは二人だけなのか?」
レオンが歩きながら話しかけてくる。
「そうよ。私と丈太郎くんの二人だけ」
フィリスが答えると、ミュリナが驚きに目を丸くした。
「えっ! たった二人でこの峠を越えてきたんですか!?」
「すごいな……」
ガルドが低く唸るように言い、エレナも静かに頷いた。
「ちなみに、あんたら冒険者ランクは?」
レオンの問いに、フィリスはさらりと答える。
「私はAよ」
「俺は……Cです」
「ふふ、それでいて丈太郎くんは――相棒兼、弟子ってところね」
(相棒……なんか、いい響きだな……)
丈太郎の胸はじんわり温かくなる。
「Aか……そりゃすげえな」
レオンが感嘆の声を上げる。
「あの強さも納得ですね……」
エレナが先の戦闘を思い出すように呟いた。
「……ランクA、フィリス……ってまさか! あんた、“神炎のフィリス”か!?」
ガルドが目を見開く。
フィリスは肩をすくめ、口元に笑みを浮かべた。
「私って有名人!?」
「有名人どころか、帝都の冒険者なら知らない奴いねぇぞ!」
レオンが半ば呆れたように言うと、ミュリナもぱちぱちと手を叩いた。
「本物だ……すごい、伝説級の人たちに助けられたんだ……!」
丈太郎は苦笑しながらも、どこか誇らしかった。
(何故か俺まで伝説の仲間入りしてる…)
フィリスはそんな丈太郎の横顔を見て、少しだけ柔らかく微笑んだ。
* * *
ミュリナは、歩きながらそっと丈太郎を見つめていた。
フィリスさんがAランクなのは、見ていればすぐに分かる。
あの動き、あの魔力の流れ――まるで伝説に語られる冒険者そのものだ。
でも――丈太郎さんも、凄かった。
トロールの一撃を片腕で、まるで枝でも掴むみたいに受け止めていた。
しかも盾もなしに。そしてあの華麗な動き…彼がトロールを投げ飛ばした光景を思い出す。
あんな芸当、Aランクでもそうそうできるものじゃない。
(あの人……一体、何者なの……?)
横顔は穏やかで、年も自分たちと大して変わらない。
それなのに、あの場では誰よりも“強さ”を感じた。
少なくとも、私たち《リッジ・ヴァンガード》よりは、はるかに上だ。
……とても、Cランクとは思えなかった。
* * *
「へぇ〜! あんたがあの有名なフィリスか! そんなに強かったのか?」
レオンが半ば呆れたように振り返る。
「そりゃあもう……ハイ・トロールを一撃だぞ」
ガルドが感嘆の息を漏らした。
「炎の塊が空を裂いたんだ。見てた俺でも背筋が凍った」
「凄まじい炎だったわ。あんなの、見たことないわよ」
エレナが静かに言葉を添える。
その目には、恐れではなく純粋な尊敬の色が宿っていた。
「そんなにかぁ……上はまだ遠いな」
レオンは苦笑し、空を見上げる。
「“神炎のフィリス”は誰とも組まない――孤高の魔剣士って聞いてましたけど……
パーティーを組んでたんですね」
ミュリナが興味深そうにフィリスと丈太郎を見比べた。
「まあ、色々と事情があってね。パーティーを組んだのも最近よ」
フィリスは軽く肩をすくめる。
その言葉に、丈太郎が少し照れくさそうに続けた。
「フィリスさんは、俺の家族を探すために付き合ってくれて……今は帝都に向かってるんです」
「家族……を探して……」
ミュリナはそっと目を見開いた。
その声には驚きと、どこか温かいものが混じっていた。
春の風が吹き抜ける。
峠道の先には、薄く霞む谷と、遠くに見える宿場の屋根。
ただその風に背を押されるように歩き出した。
他愛もない会話を交わしながら、一行は魔物の襲撃を受けることもなく、やがて麓の宿場街へと辿り着いた。
辺りはすでに薄暗く、街灯の明かりが石畳を淡く照らしている。
昼の喧騒を終えた街は、どこか穏やかな温もりを帯びていた。
「今朝出たばかりなのに、すぐにここへ帰ってくることになるとはなぁ」
レオンが苦笑交じりに呟く。
「一からやり直しだな」
ガルドが隣で肩を叩く。
「ここまでありがとう。あんたたちには助けられた。この恩はいつか必ず返す」
レオンは深く頭を下げた。
仲間たちも同じように、静かに頭を垂れる。
「じゃあ、今度一杯おごりなさいよね!」
フィリスが軽やかに言う。
「ああ……そんなことでいいなら、いくらでも」
レオンが笑う。
その笑いに、仲間たちも釣られて笑った。
「じゃあ、約束ね! さあ、さっさと宿を探して飲むわよ、丈太郎くん!」
フィリスは明るく言い、宿場の中心へと歩き出す。
「了解です」
丈太郎は少し呆れたように答え、
けれどその表情にはどこか嬉しさも滲んでいた。
「丈太郎さんも……ありがとうございました。お元気で。早く、ご家族に会えるといいですね」
ミュリナが控えめに声をかける。
丈太郎は優しく頷き、微笑んだ。
「ありがとうございます。ミュリナさんたちも、どうかお元気で」
彼はフィリスの後ろ姿を追って、夜の街へと歩き出した。
その背を、四人はしばらく無言で見送る。
街灯の光が揺らぎ、夜の空気が少しだけ暖かくなる。
長い峠の旅は、静かに幕を閉じた。
けれどその出会いは、確かに彼らの胸に刻まれていた。




