第36章 山越え(中編)
山越えルート、四日目の朝。
朝日が峠の稜線を照らし、黄金の光が二人の背を押すように差し込んでいた。
丈太郎とフィリスは、白く息を吐きながら再び峠道を進み始める。
道は緩やかな下りへと変わり、標高が下がるにつれて残雪も次第に消えていく。
木々の枝先には新芽が顔を出し、冬の終わりと春の訪れを告げていた。
ここ三日、相変わらず魔物の襲撃は多かった。それでも宿営中に襲われることは一度もなく、しっかり眠ることができたのが救いだった。十分な休養を取れたおかげで、二人の足取りは軽い。
今日の夕方には宿場に辿り着ける――そう思うと、自然と表情にも笑みが浮かんでいた。
しばらく歩いたその時、前方から何かの音が聞こえてきた。
地響き――そして、金属がぶつかり合うような激しい衝撃音。
「誰かが戦ってるみたいね……観に行ってみましょ!」
フィリスは移獣から軽やかに飛び降り、嬉々として音のする方へ駆け出す。
「ま、待ってくださいフィリスさん!……まったく、野次馬だな……」
丈太郎は小さくため息をつきながらも、その背中を追いかけた。
見えてきたのは――三メートルはあろう巨躯。
緑灰色の肌が陽光を受けて鈍く光り、体表の苔が微かに揺れていた。
岩を擦るような呼吸音が谷にこだまし、空気が重く震える。
「……トロールね」
フィリスが低く呟く。
さらに近づくと、三体のトロールが暴れているのが見えた。
誰かが戦っている――冒険者たちだろう。
辺りには荷物が散乱し、移獣が四体、すでに息絶えていた。
二体のトロールも倒れているが、その死骸がむしろ戦いの激しさを物語っている。
前方では、頑強そうな男がトロールの攻撃を必死の形相で受け止めていた。
だが彼の盾はすでにひしゃげ、足元は血で赤く染まっている。
その背後には、倒れ伏した剣士風の男。鎧はボロボロで、息があるかどうかも怪しい。
治癒士と思しき女性が必死に魔法をかけているが、その手も震えていた。
さらに後方――魔術士らしき女が片膝をつき、呆然とその光景を見つめている。
その瞳は、絶望に染まったように虚ろだった。
瞬時に状況を把握したフィリスの表情が、一変した。
「……まずいわね」
さっきまでの野次馬じみた軽さは消え、鋭い眼差しが戦場を捉える。
二体のトロールが、それぞれ治癒士と魔術士に向かって動き出していた。
地を震わせる足音が谷に響く。
「丈太郎くん! 治癒士の方をお願い!」
言うが早いか、フィリスはイグニシアを抜き放ち、魔術士に迫るトロールへと駆け出した。
「了解です!」
丈太郎も応じて駆け出す。
胸の奥に焦りが走る――(間に合え!)
* * *
――こんなはずじゃなかった。
治癒士ミュリナは、湿った風の中で小さくつぶやいた。
同郷の幼なじみと共に冒険者になり、パーティー《リッジ・ヴァンガード》を結成して三年。
剣士でリーダーのレオン。
盾役の戦士ガルド。
冷静な魔術師エレナ。
そして、自分。
幼い頃からいつも一緒だった四人。
息もぴったりで、どんな依頼も乗り越えてきた。
苦しい日々も、笑い合いながら前へ進んできた。その結果、今冬――四人そろってのBランク昇格。
ギルドでも“新進気鋭の若手”と呼ばれ、期待を寄せられる存在となった。
春の訪れと共に、レオンが言った。
「昇格祝いに温泉街アウトリアへ行こうぜ。雪も溶けてる頃だ」
ミュリナは喜んだ。
ずっと行ってみたかった場所。
ガルドもエレナも、すぐに賛成した。
アウトリアへ向かう道は二つ。
安全だが遠回りの街道ルートと、危険だが近道の山越えルート。
“死の山”と呼ばれるその道は、雪解けでぬかるみ、魔物の縄張りが広がっている。
「せっかくだし、腕試しも兼ねて山越えルートを行こう!」
レオンの明るい笑顔に、誰も反対しなかった。
春の陽気に包まれ、道端には黄色い花が咲き始めていた。
風はまだ少し冷たいが、心は高揚していた。
空は青く澄み、鳥の声が響く。
あのときは、本当に“冒険の旅”が始まる気がして――楽しかった。
……ここまでは、順風満帆だったのだ。
山越えルートの麓にある宿場街。
夜明けの鐘が鳴り、空がかすかに白み始めたころ、ミュリナたちは宿を後にした。
吐く息はまだ冷たいが、空気には春の気配が混じっている。
小鳥の声が遠くで響き、東の空には柔らかな陽光が差し込み始めていた。
リーダーのレオンが伸びをしながら笑う。
「よし! この峠を越えて、5日後には温泉だ!」
「本当に入れるといいね。宿はちゃんと空いてるの?」
エレナがからかうように言うと、レオンは胸を叩いた。
「もちろん! 俺がちゃんと予約してある!」
「……レオンが、ちゃんと?」
「うっ……そこは信用してくれよ!」
そんなやり取りに、ミュリナは思わず笑った。ガルドも苦笑しながら、移獣の手綱を軽く引く。
「まあいい。まずは怪我なく山を越えることだな」
歩みを進めるにつれ、陽が昇り、森の木々が朝の光を受けてきらめき始めた。
雪解けのせせらぎが小さく流れ、湿った土の匂いが鼻をくすぐる。
“死の山”――そんな不吉な名が似つかわしくないほど、穏やかな風景だった。
「なあ、アウトリアに着いたらさ、まずは温泉だろ? それから……うまい酒!」
「また酒の話? まだ朝だよ」
「朝でも考えるのは自由だろ!」
みんなが笑い、会話が弾む。
魔物の気配もなく、山鳥が横切る音だけが静かな山道に響いた。
移獣の背に揺られながら、ミュリナは胸いっぱいに春の空気を吸い込む。
陽の光がまぶしくて、思わず目を細めた。
このまま何事もなく旅が終わればいい――そんなことを、ふと思った。
昼前には、みんなで早めの昼食を取ることにした。早起きしたせいで腹が減ったとレオンがぼやいたからだ。
ガルドが火を起こし、レオンが干し肉を炙り、エレナが小鍋でスープを温める。
風は穏やかで、空には雲一つない。
まるでピクニックだった。
誰も、この先に待つ惨状を、まだ想像すらしていなかった。
食事を終えた四人は、森の中を抜ける峠道を進んでいた。木漏れ日が道を照らし、若葉の匂いが漂う。頭上では小鳥が鳴き、足元では虫が跳ねた。
魔物の気配は、相変わらずない。
「なぁ、なんだか拍子抜けだな」
レオンが笑う。
「“死の山”なんて呼ばれてるから、もっと殺伐としてるかと思ったぜ」
「油断しないでよ」
エレナがたしなめるが、その声にもどこか柔らかさがあった。
「でも……確かに、静かすぎるね」
ミュリナは移獣の背で振り返りながら呟く。
「鳥の声、いつの間にか……聞こえなくなった気がする」
ガルドが短く鼻を鳴らした。
「……風向きが変わったな」
さっきまで春の香りを運んでいた風が、いつの間にか冷たく乾いた匂いを帯びていた。草の間に、黒い羽根が落ちている。
その先には、土が抉れたような跡。
レオンが移獣を止めた。
「……足跡、か?」
地面には、巨大な爪痕が深く刻まれていた。指の一本一本が、成人の腕ほどの太さがある。土の匂いに混じって、腐敗したような臭気が漂った。
エレナが眉をひそめる。
「最近通ったものじゃない。けど、まだ乾いてない……」
「ここ数時間ってとこか」
ガルドが低く呟いた。
その声に、三人の表情が引き締まる。
「……引き返す?」
ミュリナが言うと、レオンは首を横に振った。
「いや、行こう。たぶん魔物の通り道だ。巣が近いってわけじゃない」
「ほんとにそう思う?」
「思いたい」
軽口のように笑ってみせたレオンだったが、その声にはもう覇気がなかった。
空が少し曇り始める。
太陽の光が木々に遮られ、森の色が濃く沈んでいく。さっきまで明るかった道が、どこか薄暗く感じられた。
風の音が耳に残る。
ミュリナは無意識に手を胸に当てた。
――何か、遠くで聞こえた気がした。
低く、くぐもった呻きのような声。
「……今、何か……」
「聞こえた」
エレナが即座に答える。
レオンが手を上げ、全員が移獣を止めた。
静寂。
森が、息を潜めた。
次の瞬間――。
谷の向こうから、木々を薙ぎ倒すような轟音が響く。
鳥が一斉に飛び立ち、枝葉が揺れた。
地面が震える。
「戦闘準備!」
レオンの怒声が響く。
四人は一斉に移獣から降りて構える。
木立の影から現れたのは、灰緑の巨体。
高さ三メートルはあろうかという怪物。
その背には苔が垂れ、濁った息を吐き出している。
「トロール……!しかも5体!」
エレナが叫ぶ。
レオンが剣を抜き、光を反射させた。
「来るぞっ!」
地響きを立てて、五体の影が森を割る。
その一歩ごとに、大地が鳴動した。
――“死の山”が牙をむいた。
トロールたちが木立を薙ぎ倒し姿を現した瞬間、エレナが魔法を放つ。
「――雷撃!」
眩い閃光が空気を裂き、先頭のトロールの胸を貫く。
雷鳴と共に焦げた肉の臭いが広がった。
怯み、叫び声を上げたその巨体に、すかさずレオンが飛び込む。
「はああッ!」
鋭い斬撃が脳天を割る。
トロールが仰け反り、地響きを立てて倒れ込んだ。
見事なまでの先制攻撃だった。
数を減らす――それが集団戦の鉄則。
《リッジ・ヴァンガード》は、その基本を確実に実践していた。
残り四体。
怒り狂ったトロールたちが、棍棒を片手に突進してくる。
地面が揺れ、空気が震える。
春の山を満たしていた爽やかな空気が、一瞬で血と鉄の匂いに変わった。
「こっちだ!」
ガルドが前に出て盾を構えた。
ミュリナはすぐに魔法を発動する。
「加護の光よ、守りの盾を――《シェル》!」
次の瞬間、轟音。
一体のトロールの棍棒がガルドの盾に直撃した。
鈍い衝撃音と共に、地面が裂ける。
ガルドの足が土にめり込んだ。
「ぐっ……!」
盾がひしゃげ、衝撃で腕が痺れる。
ミュリナは慌てて治癒魔法を重ねる。
「お願い、耐えて!」
淡い光がガルドを包む。
彼は苦悶の表情を浮かべながらも、踏みとどまった。
その間にエレナが杖を掲げる。
「凍てつけ、氷結の鎖!」
迫り来るトロールたちの足元に氷塊が生まれ、動きを封じる。
その隙に、レオンが回り込み――ガルドを攻撃していたトロールを背後から斬り上げた。
「これで終わりだっ!」
剣が青白く輝く。
エレナのエンチャント魔法が宿っていた。
刃がトロールの首を断ち切り、二体目の巨体が倒れる。
残り三体。
ミュリナは希望を見出しかけた。
このままなら勝てる――そう思った瞬間だった。
バキィッ!
氷が砕ける鋭い音が響いた。
「なっ!?」
エレナが目を見開く。
足止めしたはずの残り三体のトロールが、分厚い氷塊をものともせず、いとも容易く砕き歩いてきたのだ。
その皮膚は、先に倒した二体よりも明らかに厚く、黒光りしていた。
ドガッ。
重い衝撃音。
レオンの体が弾き飛ばされた。
「レオン!?」
先頭の一体が無造作に振り抜いた棍棒が直撃したのだ。レオンは地面に叩きつけられ、もんどりを打つ。
そのまま動かない。
「レオンっ!」
ミュリナは駆け寄った。
まだ息はある。だが意識はなく、白目をむいている。
一目で、危険な状態だとわかった。
震える手で魔法を詠唱する。
「癒えの光よ、彼を――!」
魔法の光が彼を包む。
けれど、汗が額を伝い、声がかすれる。
焦りが魔力の流れを乱していた。
エレナが後方で叫ぶ。
「全力の魔法が効かない……なんで……!?」
雷が炸裂し、森の奥を照らす。
だが、残り三体のトロールは一歩も引かない。全身から湯気のような魔力が立ち昇る。
エレナの表情が凍りついた。
「……あれは、ハイ・トロール!」
ミュリナは息をのむ。
確かに――
その巨体は、先に倒した二体のトロールよりも明らかに異質だった。
眼光は鋭く、体皮は岩のように硬い。
魔力耐性を持つ、上位種。
しかも、それが三体も残っている。
空気が重く沈む。
ミュリナの鼓動が早まった。
戦いは、もう「腕試し」などではなくなっていた。
ハイ・トロールの一体が、ミュリナたちの移獣を薙ぎ払い迫ってくる。
「下がれ、ミュリナ!」
ガルドが前に飛び出し、ひしゃげた盾を構えた。
――バキッ。
鈍い音とともに、盾がさらに歪む。
衝撃でガルドの口から血が飛び散った。
それでも彼は歯を食いしばり、盾を下ろさなかった。
「逃げろ、ミュリナ!」
叫びが森に響く。
けれど、ミュリナの足は動かなかった。
全身が震え、息が詰まる。
さらにもう一体のハイ・トロールが、エレナに迫る。
エレナは片膝をつき、虚ろな目で巨体を見上げていた。
魔力は尽き、唇からは声も出ない。
「エレナ……っ!」
ミュリナの呼びかけに、エレナはかすかに首を振る。
その瞳には、もう戦う力が残っていなかった。
そして、レオンを弾き飛ばした三体目のハイ・トロールが、治癒魔法をかけるミュリナに狙いを定めた。
地を震わせる足音。トロールの巨体が目前に迫る。
濁った瞳が、獲物を見据えるように光っていた。
棍棒が振り上げられる。
空気が裂ける。
ミュリナは目を閉じた。
恐怖も、悲鳴も、何も出ない。
ただ、死を受け入れるように――静かに息を吐いた。




