表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
41/47

第36章 山越え(中編)

山越えルート、四日目の朝。


朝日が峠の稜線を照らし、黄金の光が二人の背を押すように差し込んでいた。


丈太郎とフィリスは、白く息を吐きながら再び峠道を進み始める。

道は緩やかな下りへと変わり、標高が下がるにつれて残雪も次第に消えていく。

木々の枝先には新芽が顔を出し、冬の終わりと春の訪れを告げていた。


ここ三日、相変わらず魔物の襲撃は多かった。それでも宿営中に襲われることは一度もなく、しっかり眠ることができたのが救いだった。十分な休養を取れたおかげで、二人の足取りは軽い。


今日の夕方には宿場に辿り着ける――そう思うと、自然と表情にも笑みが浮かんでいた。


しばらく歩いたその時、前方から何かの音が聞こえてきた。


地響き――そして、金属がぶつかり合うような激しい衝撃音。


「誰かが戦ってるみたいね……観に行ってみましょ!」


フィリスは移獣から軽やかに飛び降り、嬉々として音のする方へ駆け出す。


「ま、待ってくださいフィリスさん!……まったく、野次馬だな……」


丈太郎は小さくため息をつきながらも、その背中を追いかけた。


見えてきたのは――三メートルはあろう巨躯。


緑灰色の肌が陽光を受けて鈍く光り、体表の苔が微かに揺れていた。

岩を擦るような呼吸音が谷にこだまし、空気が重く震える。


「……トロールね」


フィリスが低く呟く。


さらに近づくと、三体のトロールが暴れているのが見えた。


誰かが戦っている――冒険者たちだろう。


辺りには荷物が散乱し、移獣が四体、すでに息絶えていた。

二体のトロールも倒れているが、その死骸がむしろ戦いの激しさを物語っている。


前方では、頑強そうな男がトロールの攻撃を必死の形相で受け止めていた。

だが彼の盾はすでにひしゃげ、足元は血で赤く染まっている。


その背後には、倒れ伏した剣士風の男。鎧はボロボロで、息があるかどうかも怪しい。


治癒士と思しき女性が必死に魔法をかけているが、その手も震えていた。


さらに後方――魔術士らしき女が片膝をつき、呆然とその光景を見つめている。

その瞳は、絶望に染まったように虚ろだった。


瞬時に状況を把握したフィリスの表情が、一変した。


「……まずいわね」


さっきまでの野次馬じみた軽さは消え、鋭い眼差しが戦場を捉える。


二体のトロールが、それぞれ治癒士と魔術士に向かって動き出していた。


地を震わせる足音が谷に響く。


「丈太郎くん! 治癒士の方をお願い!」


言うが早いか、フィリスはイグニシアを抜き放ち、魔術士に迫るトロールへと駆け出した。


「了解です!」


丈太郎も応じて駆け出す。


胸の奥に焦りが走る――(間に合え!)


* * *


――こんなはずじゃなかった。


治癒士ミュリナは、湿った風の中で小さくつぶやいた。


同郷の幼なじみと共に冒険者になり、パーティー《リッジ・ヴァンガード》を結成して三年。


剣士でリーダーのレオン。


盾役の戦士ガルド。


冷静な魔術師エレナ。


そして、自分。


幼い頃からいつも一緒だった四人。

息もぴったりで、どんな依頼も乗り越えてきた。


苦しい日々も、笑い合いながら前へ進んできた。その結果、今冬――四人そろってのBランク昇格。


ギルドでも“新進気鋭の若手”と呼ばれ、期待を寄せられる存在となった。


春の訪れと共に、レオンが言った。


「昇格祝いに温泉街アウトリアへ行こうぜ。雪も溶けてる頃だ」


ミュリナは喜んだ。


ずっと行ってみたかった場所。

ガルドもエレナも、すぐに賛成した。

アウトリアへ向かう道は二つ。

安全だが遠回りの街道ルートと、危険だが近道の山越えルート。


“死の山”と呼ばれるその道は、雪解けでぬかるみ、魔物の縄張りが広がっている。


「せっかくだし、腕試しも兼ねて山越えルートを行こう!」


レオンの明るい笑顔に、誰も反対しなかった。


春の陽気に包まれ、道端には黄色い花が咲き始めていた。

風はまだ少し冷たいが、心は高揚していた。


空は青く澄み、鳥の声が響く。


あのときは、本当に“冒険の旅”が始まる気がして――楽しかった。


……ここまでは、順風満帆だったのだ。



山越えルートの麓にある宿場街。


夜明けの鐘が鳴り、空がかすかに白み始めたころ、ミュリナたちは宿を後にした。


吐く息はまだ冷たいが、空気には春の気配が混じっている。

小鳥の声が遠くで響き、東の空には柔らかな陽光が差し込み始めていた。


リーダーのレオンが伸びをしながら笑う。


「よし! この峠を越えて、5日後には温泉だ!」


「本当に入れるといいね。宿はちゃんと空いてるの?」


エレナがからかうように言うと、レオンは胸を叩いた。


「もちろん! 俺がちゃんと予約してある!」


「……レオンが、ちゃんと?」


「うっ……そこは信用してくれよ!」


そんなやり取りに、ミュリナは思わず笑った。ガルドも苦笑しながら、移獣の手綱を軽く引く。


「まあいい。まずは怪我なく山を越えることだな」


歩みを進めるにつれ、陽が昇り、森の木々が朝の光を受けてきらめき始めた。

雪解けのせせらぎが小さく流れ、湿った土の匂いが鼻をくすぐる。


“死の山”――そんな不吉な名が似つかわしくないほど、穏やかな風景だった。


「なあ、アウトリアに着いたらさ、まずは温泉だろ? それから……うまい酒!」


「また酒の話? まだ朝だよ」


「朝でも考えるのは自由だろ!」


みんなが笑い、会話が弾む。


魔物の気配もなく、山鳥が横切る音だけが静かな山道に響いた。


移獣の背に揺られながら、ミュリナは胸いっぱいに春の空気を吸い込む。


陽の光がまぶしくて、思わず目を細めた。


このまま何事もなく旅が終わればいい――そんなことを、ふと思った。


昼前には、みんなで早めの昼食を取ることにした。早起きしたせいで腹が減ったとレオンがぼやいたからだ。


ガルドが火を起こし、レオンが干し肉を炙り、エレナが小鍋でスープを温める。


風は穏やかで、空には雲一つない。


まるでピクニックだった。


誰も、この先に待つ惨状を、まだ想像すらしていなかった。


食事を終えた四人は、森の中を抜ける峠道を進んでいた。木漏れ日が道を照らし、若葉の匂いが漂う。頭上では小鳥が鳴き、足元では虫が跳ねた。


魔物の気配は、相変わらずない。


「なぁ、なんだか拍子抜けだな」


レオンが笑う。


「“死の山”なんて呼ばれてるから、もっと殺伐としてるかと思ったぜ」


「油断しないでよ」


エレナがたしなめるが、その声にもどこか柔らかさがあった。


「でも……確かに、静かすぎるね」


ミュリナは移獣の背で振り返りながら呟く。


「鳥の声、いつの間にか……聞こえなくなった気がする」


ガルドが短く鼻を鳴らした。


「……風向きが変わったな」


さっきまで春の香りを運んでいた風が、いつの間にか冷たく乾いた匂いを帯びていた。草の間に、黒い羽根が落ちている。

その先には、土が抉れたような跡。


レオンが移獣を止めた。


「……足跡、か?」


地面には、巨大な爪痕が深く刻まれていた。指の一本一本が、成人の腕ほどの太さがある。土の匂いに混じって、腐敗したような臭気が漂った。


エレナが眉をひそめる。


「最近通ったものじゃない。けど、まだ乾いてない……」


「ここ数時間ってとこか」


ガルドが低く呟いた。


その声に、三人の表情が引き締まる。


「……引き返す?」


ミュリナが言うと、レオンは首を横に振った。


「いや、行こう。たぶん魔物の通り道だ。巣が近いってわけじゃない」


「ほんとにそう思う?」


「思いたい」


軽口のように笑ってみせたレオンだったが、その声にはもう覇気がなかった。


空が少し曇り始める。


太陽の光が木々に遮られ、森の色が濃く沈んでいく。さっきまで明るかった道が、どこか薄暗く感じられた。


風の音が耳に残る。


ミュリナは無意識に手を胸に当てた。


――何か、遠くで聞こえた気がした。

低く、くぐもった呻きのような声。


「……今、何か……」


「聞こえた」


エレナが即座に答える。


レオンが手を上げ、全員が移獣を止めた。


静寂。


森が、息を潜めた。


次の瞬間――。


谷の向こうから、木々を薙ぎ倒すような轟音が響く。

鳥が一斉に飛び立ち、枝葉が揺れた。


地面が震える。


「戦闘準備!」


レオンの怒声が響く。


四人は一斉に移獣から降りて構える。


木立の影から現れたのは、灰緑の巨体。

高さ三メートルはあろうかという怪物。

その背には苔が垂れ、濁った息を吐き出している。


「トロール……!しかも5体!」


エレナが叫ぶ。


レオンが剣を抜き、光を反射させた。


「来るぞっ!」


地響きを立てて、五体の影が森を割る。

その一歩ごとに、大地が鳴動した。


――“死の山”が牙をむいた。


トロールたちが木立を薙ぎ倒し姿を現した瞬間、エレナが魔法を放つ。


「――雷撃ライトニング!」


眩い閃光が空気を裂き、先頭のトロールの胸を貫く。


雷鳴と共に焦げた肉の臭いが広がった。

怯み、叫び声を上げたその巨体に、すかさずレオンが飛び込む。


「はああッ!」


鋭い斬撃が脳天を割る。


トロールが仰け反り、地響きを立てて倒れ込んだ。


見事なまでの先制攻撃だった。


数を減らす――それが集団戦の鉄則。


《リッジ・ヴァンガード》は、その基本を確実に実践していた。


残り四体。


怒り狂ったトロールたちが、棍棒を片手に突進してくる。


地面が揺れ、空気が震える。


春の山を満たしていた爽やかな空気が、一瞬で血と鉄の匂いに変わった。


「こっちだ!」


ガルドが前に出て盾を構えた。


ミュリナはすぐに魔法を発動する。


「加護の光よ、守りの盾を――《シェル》!」


次の瞬間、轟音。


一体のトロールの棍棒がガルドの盾に直撃した。

鈍い衝撃音と共に、地面が裂ける。


ガルドの足が土にめり込んだ。


「ぐっ……!」


盾がひしゃげ、衝撃で腕が痺れる。


ミュリナは慌てて治癒魔法を重ねる。


「お願い、耐えて!」


淡い光がガルドを包む。

彼は苦悶の表情を浮かべながらも、踏みとどまった。


その間にエレナが杖を掲げる。


「凍てつけ、氷結のフリーズ・バインド!」


迫り来るトロールたちの足元に氷塊が生まれ、動きを封じる。


その隙に、レオンが回り込み――ガルドを攻撃していたトロールを背後から斬り上げた。


「これで終わりだっ!」


剣が青白く輝く。

エレナのエンチャント魔法が宿っていた。


刃がトロールの首を断ち切り、二体目の巨体が倒れる。


残り三体。


ミュリナは希望を見出しかけた。


このままなら勝てる――そう思った瞬間だった。


バキィッ!


氷が砕ける鋭い音が響いた。


「なっ!?」


エレナが目を見開く。


足止めしたはずの残り三体のトロールが、分厚い氷塊をものともせず、いとも容易く砕き歩いてきたのだ。


その皮膚は、先に倒した二体よりも明らかに厚く、黒光りしていた。


ドガッ。


重い衝撃音。


レオンの体が弾き飛ばされた。


「レオン!?」


先頭の一体が無造作に振り抜いた棍棒が直撃したのだ。レオンは地面に叩きつけられ、もんどりを打つ。


そのまま動かない。


「レオンっ!」


ミュリナは駆け寄った。

まだ息はある。だが意識はなく、白目をむいている。


一目で、危険な状態だとわかった。

震える手で魔法を詠唱する。


「癒えの光よ、彼を――!」


魔法の光が彼を包む。

けれど、汗が額を伝い、声がかすれる。

焦りが魔力の流れを乱していた。


エレナが後方で叫ぶ。


「全力の魔法が効かない……なんで……!?」


雷が炸裂し、森の奥を照らす。

だが、残り三体のトロールは一歩も引かない。全身から湯気のような魔力が立ち昇る。


エレナの表情が凍りついた。


「……あれは、ハイ・トロール!」


ミュリナは息をのむ。


確かに――


その巨体は、先に倒した二体のトロールよりも明らかに異質だった。

眼光は鋭く、体皮は岩のように硬い。

魔力耐性を持つ、上位種。

しかも、それが三体も残っている。


空気が重く沈む。


ミュリナの鼓動が早まった。


戦いは、もう「腕試し」などではなくなっていた。


ハイ・トロールの一体が、ミュリナたちの移獣を薙ぎ払い迫ってくる。


「下がれ、ミュリナ!」


ガルドが前に飛び出し、ひしゃげた盾を構えた。


――バキッ。


鈍い音とともに、盾がさらに歪む。


衝撃でガルドの口から血が飛び散った。

それでも彼は歯を食いしばり、盾を下ろさなかった。


「逃げろ、ミュリナ!」


叫びが森に響く。


けれど、ミュリナの足は動かなかった。

全身が震え、息が詰まる。


さらにもう一体のハイ・トロールが、エレナに迫る。


エレナは片膝をつき、虚ろな目で巨体を見上げていた。

魔力は尽き、唇からは声も出ない。


「エレナ……っ!」


ミュリナの呼びかけに、エレナはかすかに首を振る。


その瞳には、もう戦う力が残っていなかった。


そして、レオンを弾き飛ばした三体目のハイ・トロールが、治癒魔法をかけるミュリナに狙いを定めた。


地を震わせる足音。トロールの巨体が目前に迫る。


濁った瞳が、獲物を見据えるように光っていた。


棍棒が振り上げられる。


空気が裂ける。


ミュリナは目を閉じた。


恐怖も、悲鳴も、何も出ない。


ただ、死を受け入れるように――静かに息を吐いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ