第36章 山越え(前編)
次の日、二人は山越えルートの峠道を進んでいた。
道は申し訳程度に整備されてはいるが、ところどころ崩れており、道幅は狭い。移獣がぎりぎりで通れる程度だ。
左右には切り立った崖が連なり、落ちればただでは済まない。
吹き抜ける山風は冷たく、木々のざわめきがやけに耳につく。
誰も通りかからない。
聞こえるのは移獣の足音と、二人の呼吸だけ。
「……魔物の巣窟だからね。このルートを選ぶのは余程の強者か、物好きくらいよ」
そう言っていたフィリスの言葉を、丈太郎は今さらながら実感していた。
つづら折りの峠道を、二人は慎重に進んでいく。
斜面にはまだ残雪が張りつき、日陰には白い塊が固く残っている。
人が通った気配はまるでない。踏み跡も車輪の跡もなく、そこにあるのは自然の厳しさだけだった。
吹きだまりになった場所は腰の高さほども雪が積もり、移獣の足が取られそうになる。
そのたびにフィリスが片手をかざし、炎を走らせて雪を溶かしていく。
「ほんと助かります」
「当然でしょ、弟子を雪に埋めるわけにはいかないもの」
丈太郎は、頼れる師匠の背中を見つめながら歩みを進めた。
前を進んでいたフィリスが、不意に移獣を止める。
風に揺れる金髪が、冷たい空気の中で一瞬だけ張り詰める。
その横顔の青い瞳が、鋭く細められていた。
丈太郎も自然と足を止める。
胸の奥に、微かなざわめきが広がっていた。
――いる。
二人は移獣から降りる。
「丈太郎くん……」
フィリスは愛剣イグニシアを構え、静かに息を整える。
丈太郎は無言で頷き、背中を彼女に預けるように振り向きざまに身構えた。
――ガサリ……ガサリ……。
雪解けのまだ残る木々の間から、灰白の影がぞろぞろと現れる。
先頭の一体が口元を歪め、カッと牙を剥いた。
皮膚は灰白色、体毛は淡い灰や白。
小柄な成人ほどの体格ながら、赤や黄色の光を宿した瞳が、群れ全体で不気味に瞬いている。
粗末な剣や弓、歪な杖を握り、じりじりと二人を包囲していく。
吐息が白く広がる。
張り詰めた空気が、峠道を覆った。
「……スノウホブゴブリン。しかも群れで来たわね」
フィリスは鋭く呟くと、目を細めた。
「丈太郎くん、後ろは任せるわ!」
「了解です」
丈太郎の声が、静かに響く。
フィリスが片手を突き出し、炎の玉を放つ。
轟音とともに爆炎が咲き乱れ、前方のホブゴブリン達を一瞬で飲み込んだ。
それが合図だったかのように、丈太郎の前へ別の群れが殺到する。
(――一匹たりとも、フィリスさんには近付けさせない!)
丈太郎は覚悟の表情で駆け出す。
振り下ろされる粗末な剣。その刹那、丈太郎は剣の柄頭で的確に打ち払い、逆に叩き倒していく。
足さばきは水面をすべるように淀みなく、雪上に次々と灰色の体が崩れ落ちた。
後衛の杖持ちが火球を放ち、弓持ちが一斉に矢を射る。
しかし火球は丈太郎の肌に届く前に霧散し、矢は無力に足元へぱらぱらと落ちるだけ。
「ギィィ!」半狂乱になったゴブリン達が武器を捨て、牙を剥いて飛びかかる。
丈太郎が迎え撃とうとした、その瞬間――。
背後から奔る熱風。
爆炎が轟き、丈太郎の周囲を炎の壁が覆った。フィリスの魔法だ。
炎が消えた時、残っていたホブゴブリンの影はどこにもなかった。
残るのは灰と焦げた匂いだけ。
戦闘開始から十秒足らず。
――アウトリアで叩き込まれた、黄金の勝利パターンだった。
丈太郎は荒い息を吐きながらも、背後のフィリスに静かに微笑んだ。
(フィリスさんとなら、どんな敵だって怖くない――)
「背中を気にしなくていいっていうのは、本当に楽ね」
フィリスはイグニシアを背に納め、安堵の吐息をもらした。
丈太郎は肩で息をしながらも微笑む。
「初めて見た魔物でしたけど……なんとか捌けて良かったです」
その瞳には謙虚さの奥に、確かな自信が宿っていた。
フィリスはそんな彼を見つめ、自然と目を細める。
(本当に、強くなったわね……)
周囲はまだ焦げた匂いと薄く漂う煙に包まれている。
雪の上に残る無数の黒い跡が、今しがたの激闘を物語っていた。
けれど、フィリスの胸に広がるのは不思議なほどの安堵と――誇らしさだった。
歩みを進めるたびに、幾度となく魔物の襲撃を受けた。
その都度、丈太郎とフィリスは迷うことなく迎撃し、数秒と経たぬうちに葬り去る。
だが襲撃の頻度は増す一方で、気を張り続けることがじわじわと神経を削っていった。
(これは……結構キツいな……)
額から落ちる汗は冷たい。
フィリスの話では、山越えの行程は四日。
あと四日、この緊張に耐え続ける――『死の山』と呼ばれる所以も納得だった。
けれどフィリスはどこ吹く風。剣を背に収め、軽く鼻歌すら口ずさんでいる。
その背中は頼もしいどころか、まるでこの峠道が散歩道であるかのように軽やかだ。
(フィリスさんは……すごいな。俺もこんな事で弱音を吐いてたら、いつまで経っても追いつけない……)
丈太郎は厳しい表情で、前を歩くフィリスの背中を見つめていた。
やがて道が開け、日当たりの良い平地に出る。雪もほとんどなく、風も穏やかだった。
「少し早いけど、今日はここでキャンプしましょう」
フィリスがそう言って微笑む。
二人で手際よく設営を済ませ、焚き火を囲む頃には、山の端に夕陽が沈みかけていた。
「警戒結界を張ったから、何かあれば警報が鳴ってくれるわ」
フィリスは傍らの金属筒を軽く叩く。手の平に収まるほどのそれは、淡く青い光を脈打っていた。
「へぇ、便利なものですね。この結界って、モンスターの侵入も防いでくれるんですか?」
「そこまで万能じゃないの。あくまでも探知用」
フィリスはそう言って酒瓶を傾け、嬉しそうに目を細めた。
(……つまり、警報は鳴るけど、襲撃そのものは防げないってことか)
丈太郎は内心で苦笑する。
(だったら、いざというときは俺が盾にならないと……)
炎に照らされるフィリスの横顔はどこまでも楽しげで、危機感など微塵もない。
そんな姿を見ているうちに、丈太郎の口元にも自然と笑みが浮かんでいた。
(俺が心配性なだけなのかな……いや、これでいいんだ。俺が備えて、フィリスさんが安心して笑えるなら)
食事を終えた二人はテントに入り、眠りについた。
丈太郎は度重なる襲撃に疲れ果て、寝袋に潜るなりすぐに深い眠りに落ちていった。
フィリスは横になりながら、今日の戦闘を思い返していた。
――丈太郎くんの、あの洗練された動き。
全く無駄がなかった。
あれだけの猛攻を受けながら、一度も剣を抜いていない。
近接攻撃のすべてを相手の動きに合わせて受け流し、柄で打ち据えて意識を刈り取っていた。
とどめはいつも私が刺すことになる。
けれど……あの子はそれでいいと思っているのだろう。
魔物にさえ、殺すことをためらっていた丈太郎がたどり着いた境地――不殺。
簡単なことではない。
相手は殺意をむき出しにして襲ってくるのだから。
それでも、彼は揺るがない。
その強い意思が、背中越しに伝わってくる。
なんとも言えない、温かな感覚――そして、確かな安心感。
今まで、これほどまでに安心して背中を任せられる人はいなかった。
丈太郎くんの手を血で汚させはしない。
その代わりに、私が剣となればいい。――ただ、それだけのこと。
フィリスはそう心に誓い、静かに目を閉じた。




