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第35章 出発

次の日から、丈太郎たちはメイキュリアへ向けての出発準備に取りかかった。

食料や保存食、薬士ギルドで揃えた回復薬、移獣舎での移獣の手配……細かな確認を終えると、あとは旅立ちを待つばかりとなった。


出発前日、ふたりはアウトリアで世話になった人々へ挨拶に回ることにした。



【格闘士ギルドにて】


訓練場では、ちょうど朝稽古を終えた門下生たちが掃除をしていた。


「丈太郎、もう行くのか」


オルドが歩み寄り、いつもの穏やかな笑みで声をかける。


「はい。ここで学んだこと、絶対に無駄にしません」


丈太郎が深々と頭を下げると、オルドは静かに頷いた。


「空蝉の型は君にこそ相応しい。誇りを持って進め」


その横でリーファが目を潤ませながら声を張った。


「丈太郎! いつか必ず追いついてみせるからね!」


「ありがとう、リーファ。俺も強くなる」


リーファは拳を握りしめ、力強く頷いた。



【冒険者ギルドにて】


執務室前に行くと、ギルドマスターのブラッドが腕を組んで待っていた。


「おう、不滅のジョー……いや、丈太郎だったな」


「やめてくださいよ!」


丈太郎が苦笑すると、ブラッドは豪快に笑った。


「まあ、お前ならどこに行ってもやっていける。気をつけてな。フィリスの弟子だからって甘えるなよ」


「はい! 肝に銘じます!」


丈太郎の力強い返事に、ブラッドは満足げに頷いた。



【薬士ギルドにて】


最後に薬士ギルドへ立ち寄ると、カウンターの向こうでアイナが微笑んだ。


「丈太郎さん……出発なんですね」


ほんの少し寂しげに揺れるその瞳に、丈太郎は胸が詰まる。


「今まで本当にありがとうございました。アイナさんのポーション、すごく助かりました」


差し出した手を、アイナはそっと両手で包み込むように握る。


「……また必ず顔を見せてくださいね。お元気で」


丈太郎は力強く頷いた。

横で見ていたフィリスは、ひきつった笑顔を浮かべながらその様子を見守っていた。



そして、出発の朝。

空は雲ひとつない快晴。吐く息はまだ白いが、どこか春の訪れを予感させる清々しい冷気が頬を撫でていた。


宿の玄関を出たとき、フィリスがふと足を止めた。


「この宿ともお別れね」


長く滞在した宿を振り返り、木造の梁や、夜毎に灯っていたランプの柔らかな光を思い出す。

丈太郎もつられて後ろを振り返る。


「ここに来てから、本当にいろんなことがありましたね……」


初めての温泉、初めての依頼、毎日の食事や稽古。全てが懐かしく胸に刻まれている。


「また戻って来られるといいわね」


フィリスがそう言って微笑んだ。

しかしその言葉に、丈太郎は胸の奥が少しだけざわついた。


(日本に帰れば、もうここには来れない……それでも、また来たいという気持ちも事実だ)


思わず目を伏せる。けれど、顔を上げたときには力強く頷いていた。

フィリスも丈太郎の雰囲気を察したのか、どこか寂しげに微笑む。


こうして二人は宿に背を向け、新たな旅立ちの一歩を踏み出した。

名残惜しさを抱えながらも、春の光がその背を静かに押していた。


 * * *


アウトリアを出発した二人。

かつて一面を覆っていた雪原は雪解けが進み、土や若草がまだらに広がっている。

道の脇には小さな花々が咲きはじめ、雪解け水が小川となってさらさらと流れていた。

鳥のさえずりが頭上から降りそそぎ、頬をなでる風もどこか柔らかい。

移獣の背に揺られながら、二人は春の訪れを肌で感じつつ、南へと歩みを進めていった。


最初の目的地は、アウトリアから二日ほどの位置にある宿場町。そこはメイキュリアへと続く「山越えルート」と「街道ルート」が分岐する要所であり、行き交う冒険者や商人が必ず立ち寄る町だ。


「まずはここを目指すわ。補給もできるし、情報も集められるからね」


フィリスがそう説明すると、丈太郎は緊張と期待が入り混じった表情で頷いた。

宿場町に着けば、いよいよ帝都への旅路が本格的に始まる。二人にとって、それは新しい物語の幕開けを告げる節目でもあった。


街道を進む丈太郎たち。

整備された道には荷馬車や行商人、護衛を従えた旅の一団など、様々な人々の姿があった。


(賑やかだな……)


丈太郎は目を丸くする。ルノア村からアウトリアへと向かった初めての旅路は、森を抜け山を越える孤独な道行きだった。それに比べ、ここには人の営みと往来が確かに息づいていた。


夕刻、野営地に着くと、すでに数組の旅人が焚き火を囲んでいた。湯気の立つ鍋、笑い声、子どもたちのはしゃぐ声。その光景を見て、丈太郎は不思議な安心感を覚える。同時に、旅の広がりを実感していた。

この道を進めば、さらに大きな街や、まだ見ぬ人々が待っているのだ――。


丈太郎とフィリスは、久しぶりの野営に取りかかった。

丈太郎が手際よく布を広げ、支柱を組み上げて二人分のテントを設営する。その姿を横目に、フィリスは焚き木を集め、魔法で火を灯し、鍋に野菜と干し肉を放り込んでいく。


「丈太郎くん、杭は少し斜めにした方が風に強いわよ」


「了解です、師匠」


「頼んだわ、我が弟子よ!」


笑いながら、二人は作業を進める。

手順はもう言葉にしなくても分かるほどに噛み合っていた。ルノア村から始まった旅で培ったコンビネーションは、今も健在だ。


やがてテントは整い、鍋からは食欲をそそる香りが立ち上る。周囲の旅人たちがちらりと羨ましそうに視線を送るほどに。

丈太郎はその光景を見ながら、胸の奥に温かいものが広がるのを感じた。


「それにしても、本当に賑やかですね。ルノア村からの道中とは大違いだ……」


丈太郎は、野営地に並ぶ灯りを眺めながら呟いた。商人の馬車の横で子供たちが笑い声を上げ、旅人たちは焚き火を囲んで酒を酌み交わしている。

フィリスは微笑んで答える。


「みんな雪解けを待ちわびていた人たちよ。物資を補給する商人、観光に来た旅人、そして帝都を目指す冒険者たち……この時期の街道は一番活気づくの」


そこでふと、フィリスが楽しげに付け加えた。


「雪解けのタイミングに合わせて、南からも温泉を目指してやって来ている人達もいるわね」


丈太郎は思わず笑った。


「温泉目当てですか? 確かにアウトリアの温泉は最高でしたけど……みんな考えることは同じなんですね」


フィリスは得意げに頷いた。


「そうよ。温泉は旅の疲れを癒す最高のご褒美だから。ね、丈太郎くん?」


丈太郎は頷きながら、少し照れくさそうに笑った。


「ええ……フィリスさんに連れて行ってもらわなかったら、きっと気づけなかった楽しみです」


「これだけ賑やかだと、野盗の心配はしなくてよさそうですね」


丈太郎は焚き火の光に照らされながら、ほっとした表情で言った。

フィリスは腕を組んで頷く。


「そうね。アウトリアから南の街道沿いは人通りも多いし、宿場町も点在してるから野盗はまずいないわ。奴らの縄張りは辺境や人気のない獣道ばかり。街道で動くなんて自殺行為よ」


丈太郎は安心したように息をつき、改めて周囲の賑わいを見渡した。


「なるほど……それなら安心ですね」


だが、ふと気づいて、焚き火の影で不安そうに眉をひそめる。


「……じゃあ、これから俺たちが向かう山越えルートは、野盗の縄張りなんじゃ?」


フィリスは首を横に振る。


「野盗はいないわ。あそこは魔物の巣窟だもの。それに人通りも少ないから、野盗にとってはリスクだらけよ」


「……いいんだか悪いんだか」


丈太郎は複雑な顔をし、火に照らされた赤い焔をぼんやりと見つめた。

フィリスは、不安げな表情を浮かべる丈太郎に柔らかく言った。


「あなたの実力なら大丈夫。そう、私が判断したんだから。――もっと自信もちなさい」


その言葉に丈太郎の胸の奥に温かいものが広がる。


「……はい!」


力強く頷いた。フィリスの言葉は、迷いを吹き飛ばすお守りのようだった。

フィリスは酒瓶を傾け、コップに琥珀色の液体を注ぐと、丈太郎へと差し出した。


「さ、ということで――久々の野営に乾杯!」


「乾杯」


丈太郎はコップを掲げ、フィリスの持つ酒瓶に軽く当てる。カチンと澄んだ音が夜気に響いた。


(やっぱり……フィリスさんとの旅は楽しいな)


胸の奥でそう呟きながら、丈太郎は口元に笑みを浮かべる。

焚き火のぱちぱちと弾ける音に混じり、二人の笑い声が星空の下の野営地をさらに賑やかに彩っていった。


 * * *


次の日、丈太郎とフィリスは街道を南へ歩みを進めた。

遠くに霞んでいた山並みが少しずつ大きさを増し、目の前に迫ってくる。

その頃になると、街道沿いには旅人のための宿屋が点々と姿を現し、やがて宿場町の中心部にたどり着いた。通りには複数の宿が並び、旅人や商人たちでそこそこ賑わっている。


「さ、今日の宿はあそこにしましょう」


フィリスはそう言うと、迷いなく通りの中でもひときわ豪奢な装飾を施した宿の扉を押し開けた。

煌びやかな看板と立派な造りに丈太郎は思わず苦笑する。

――彼女に“節約”という言葉は、やはり不要のようだ。


宿の扉を開けると、ふわりと暖かな空気と香ばしい料理の匂いが二人を包み込んだ。

外観に違わず、中も広々としており、磨き上げられた木の床はランプの光を反射して艶やかに輝いている。壁には絵画や装飾品が飾られ、入口脇にはふかふかのソファまで置かれていた。


「いらっしゃいませ。旅のお客様ですね」


上品な物腰の宿の女将が笑顔で出迎える。


「一番いい部屋をお願い」


フィリスは即答した。値段も聞かずに。


「え!? い、いちばん……」


丈太郎は思わず声を詰まらせる。

庶民的な宿で十分だと心の中で思ったが、すでに女将は慣れた手つきで帳簿を開き、宿泊の手続きを進めている。


「丈太郎くん、旅はね、ちゃんと休むことが一番大事なのよ。だから、いい宿に泊まるのは当然でしょ?」


フィリスは当たり前のように言ってのける。


(お金のかかる人だなあ……)


丈太郎はため息まじりに心の中で呟いたが、口元はどこか楽しそうに緩んでいた。


丈太郎は部屋に入ると、思わず感嘆の息を漏らした。

アウトリアで長期滞在していた宿の部屋と比べても、広さも内装も遜色ない。磨き上げられた床に厚手の絨毯、そして中央には大きなベッドがひとつ。窓からは夕日に照らされた街並みが見下ろせた。


(……本当に贅沢だな)


そう思ったが、不思議と心は落ち着いていた。

アウトリアでの依頼の数々、特にアイスゴーレムの討伐報酬は桁違いだった。このグレードの部屋でも、もはや財布を心配する必要はない。


「休むときにしっかり休む。それも冒険者の心得よ」


以前フィリスに言われた言葉を思い出し、丈太郎は納得するように頷いた。


部屋には柔らかな肌触りの湯衣も用意されていた。

丈太郎はそれに着替え、肩の力を抜きながら大浴場へと向かった。


大浴場に入ると、丈太郎は体を丁寧に洗い流した。

湯気がもうもうと立ち込める中、広々とした湯船にゆっくりと身を沈める。


「ああ……」


思わず声が漏れる。

湯の温かさがじわじわと体に染みわたり、張り詰めていた筋肉の緊張をほどいていく。

石造りの浴場の壁を伝う雫の音、心地よい湯気の匂い、すべてが心をほぐしていくようだった。


(明日からは山越えだ……次にこんな風に湯に浸かれるのはいつになるんだろう)


そう思うと、今この瞬間を逃すまいと、丈太郎はじっくりと湯に身を委ねた。


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