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第2章 獣と少女

森を下りはじめて、どれくらい経っただろうか。


丈太郎は周囲を警戒しながら、慎重に足を運んでいた。道なき道を進む足元はぬかるみ、枝葉が体に触れるたびに不安が募る。だが、空はまだ明るく、陽は十分に高い位置にあった。


「この調子なら……日が暮れるまでには集落に着けるかもな」


見たこともない植物、聞き慣れない鳥の鳴き声。すべてが異質だ。けれど、かすかに踏みならされたような地面や、切り揃えられた枝を見ると、“人の気配”のようなものを感じる。


「町があるなら……電話借りて、母さんたちに連絡……」


ポケットに手を入れる。手探りで壊れたスマートフォンに触れ、胸の奥が冷える。


──使えない。


それでも、希望は捨てたくなかった。どこかに人がいる。そんな気がした。


その時だった。


「きゃあああっ!!」


甲高い悲鳴が、森の奥から響いた。


「……!」


丈太郎は思わず立ち止まり、目を見開く。息をひそめて耳を澄ませると、再び──


「た、助けてっ!!」


少女の声だった。間違いない。


「マジかよ……」


全身がこわばる。心臓がドクドクと脈打ち、足がすくむ。


だが──


「……行くしかない!」


丈太郎は自分に言い聞かせるように叫び、声のする方へ駆け出した。


丈太郎が悲鳴の方向へ駆け出すと、草むらの奥からひとりの少女が転がるように走ってきた。


「た、助けてっ!」


丈太郎に気づくと、少女はまっすぐ彼のもとへ駆け寄ってくる。その顔は涙と泥でぐしゃぐしゃだった。


──ドォン!


地響きのような音と共に、森の奥から“それ”が現れた。


「……ッ!!」


丈太郎は息を呑んだ。


クマだった──だが、ただのクマではない。

近所の山でツキノワグマを見たことはある。だが、それよりも遥かに巨大。まるで黒い岩のような体躯。目は血走り、唸り声はまるで獣ではなく怪物のものだった。


「う、うそだろ……!」


その“化け物”は少女のすぐ背後に迫っていた。丈太郎は一瞬、足がすくみそうになった。


だが、考えるより先に体が動いた。


「危ないッ!」


丈太郎は少女の手を掴み、力いっぱい引き寄せた。

そのまま両腕で抱きしめるように庇い、クマに背を向けてしゃがみこむ。


「ッくそ、来るなよっ……!」


背後から荒れ狂うような唸り声が響いた。地鳴りのような足音、空気を裂く風圧。

肌を切り裂くような“何か”が、すぐそこまで迫ってくるのがわかる。


直後──


「グアアアアアッ!!」


クマの咆哮とともに、巨大な前脚が丈太郎の背に振り下ろされた。


──その瞬間。


クマの爪が丈太郎の背に届く寸前──それは、無音のままぴたりと止まった。


まるで不可視の壁に阻まれたかのように、凄まじい衝撃も、肉を裂くはずの音すらも、すべてが吸い込まれるように消え去った。


丈太郎の体は、びくともしなかった。


(…………!!?)


背中に風がぶつかった感覚はある。荒い呼吸と咆哮は、耳のすぐそばで鳴っている。

けれど──痛みも、衝撃も、何もない。



 ◆ ◆ ◆


──“それ”は、感じていた。


この人間から漂う、異質な気配。


攻撃の感触がなかった。肉に食い込む手応えも、骨を砕く快感も。

爪が確かに届いたはずなのに、「何もなかった」ような奇妙な感覚。


瞬間、“それ”の本能が警鐘を鳴らす。


(違う。こいつは──危険だ)


理性などない。けれど、野生の勘が告げていた。

目の前の“獲物”は、触れてはならない“何か”だ。


背筋にぞわりと冷たいものが走る。


──恐怖。


自分よりも弱いはずの存在に、なぜか感じてしまうそれ。

理由もなく、理解もできず、ただ本能が叫んでいる。


「グ、グルル……!」


クマは一歩、後ずさった。

黒い毛皮の下で、皮膚が粟立つ。目に見えない“何か”が、自分を拒絶していた。


◆ ◆ ◆


丈太郎は、なおも少女を庇ったまま動かない。

ただ、静かに──無防備な背を向けたまま、そこにいるだけだ。


だが、クマには見えていた。

その背に潜む、得体の知れない“異常”が。



クマは、怯えたように身を引き、森の奥へと去っていった。


丈太郎は、いつの間にか恐怖で目を閉じていた。


──クマの咆哮が止んだ。

続いて、重たい足音が地面を揺らしながら遠ざかっていく。


やがて、それも消えた。


森が、静けさを取り戻す。


丈太郎はゆっくりと目を開け、恐る恐る背後を振り返る。


……そこに、あの巨大なクマの姿はもうなかった。


丈太郎は、状況がまったく理解できなかった。

だが──とにかく助かった。それだけで、胸がじんわりと温かくなる。


ふと、自分の腕の中に小さな震えがあることに気づいた。

少女だ。先ほどの、あのクマに追われていた──。


「……もう、大丈夫だよ。」


優しく声をかけると、少女は涙と泥でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。

年の頃は十歳くらいだろうか。

ライトブラウンの髪が乱れて額にかかり、琥珀色の瞳が潤んで揺れている。


「ホントに……もう、いない……?」


丈太郎は笑ってうなずいた。


少女はホッとしたように立ち上がり、あたりを見回してから叫んだ。


「怖かったよぉ!お兄ちゃん、ありがとう!」


その声は、はっきりとした──日本語だった。


(……あれ?この子……外国人っぽいのに、日本語、うますぎないか……?)


丈太郎の心に、じわじわとした違和感が広がっていく。


「どうして、こんな森の中にいたの?」


丈太郎はずっと気になっていた疑問を、そのまま口にした。

こんな危険な場所に、子どもがひとりでいるなんて──普通じゃない。


ミィナはすこしバツが悪そうに、唇を尖らせた。


「……お母さんとケンカして、家を飛び出してきたの。森に来たら、あんなのに会っちゃって……」


「そうだったのか……あんな化け物に遭遇するなんて、怖かったよな」


丈太郎が目線を合わせて優しく言うと、少女はこくりと頷いた。


「君、名前は?」


「私はミィナ!」


「俺は山之内丈太郎。よろしくな、ミィナ」


「じょうたろう……?変な名前!」


「えぇー!?そうかなー?」


思わず笑い合う二人。

丈太郎は内心で、ちょっとだけ複雑な気持ちになる。


(そんなに珍しくないと思うんだけどな……)


「ミィナ、帰り道はわかる?」


丈太郎が尋ねると、ミィナは周囲を見回してから、うなずいた。


「うん!このへんは、お母さんと薬草採りによく来るから大丈夫!」


丈太郎は胸をなでおろした。

人のいる場所へ行ける──それだけで安心感があった。


「じゃあ、俺も一緒に送っていくよ。ひとりじゃ危ないし」


「ありがとう、お兄ちゃん!こっちだよ、ついてきて!」


ミィナが元気よく先に立つ。

丈太郎はそのあとを追いながら、ようやく緊張の解けた空気を感じていた


森の中を、丈太郎はミィナと並んで歩いていた。


鳥のさえずりや虫の音が心地よく、さっきまでの恐怖が嘘のように静かだった。丈太郎はふと思い立って口を開く。


「ねぇ、ミィナ。お母さんとケンカしたって言ってたけど……何があったの?」


ミィナは小さくむくれて、ふんっと顔をそむける。


「おかあさんがね、あたしのこと、まだ子ども扱いするの。薬草の場所だってもう知ってるのに、『一人じゃ危ない』ってついてこようとするし!」


「なるほど……」


「だから言ってやったの!『もう子どもじゃないもん!』って!そしたら、おかあさんすっごい怒って……あたし、カッとなって家を飛び出しちゃった……」


ミィナはしょんぼりとうつむいた。


「でも、本当はちょっと悪かったって思ってる。」


丈太郎は思わず笑みを浮かべた。


「そっか。ちゃんと謝れたら、お母さんもきっと許してくれるよ」


ミィナは恥ずかしそうに笑って、丈太郎の手をぎゅっと握った。


しばらく歩くと、森がぱっと開けた。


整備された広い道が目の前に延びている。舗装こそされていないが、車が一台は余裕で通れそうな幅だった。


「ここまでくれば、もう少し!」


ミィナが嬉しそうに振り返る。


その視線の先──木々の向こうに、いくつかの屋根が見えた。

集落だ。人の暮らしの気配が、確かにあった。


(……助かった。これでやっと、母さんたちに連絡ができる)


丈太郎は深く息を吐き、胸を撫で下ろす。 だが、遠目に見えるその家々の形は、彼が知る日本の風景とはどこか決定的に違っているような気がした。


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