第1章 丈太郎の日常
山に囲まれた小さな一軒家。静かな朝、鳥のさえずりが窓越しに聞こえてくる。ベランダからは、遠くに街並みが霞んで見えた。
丈太郎が目を覚ますと、キッチンでは母がエプロン姿でせっせと弁当を詰めていた。手際よく卵焼きを切り、煮物を詰める様子は、毎朝の風景のひとつ。
「おはよう、丈太郎。ちゃんと起きた?」
「……ん、うん……」
寝ぼけまなこでぼんやり答えると、制服に袖を通し、洗面所の鏡の前に立つ。両親と一緒に見た昔のドラマの俳優に憧れて、定期的に美容院で整えてもらっているこだわりの髪型だ。ボサボサの寝癖を丁寧に直していく。こういうところには、彼の几帳面な性格が出る。
リビングでは、父が作業着姿のままソファに腰かけ、朝のニュースを眺めていた。林業の現場仕事に出る前のひとときだ。
「天気は晴れ。山の方は午後から風が出るかもな」
父はぼそりとつぶやき、コーヒーを一口。
テーブルには、母が用意してくれた朝食が並んでいる。焼き鮭、味噌汁、納豆ごはん。毎朝変わらぬ安心のメニュー。
その足元では、黒いラブラドールレトリバーのロッキーがのんびりと寝そべっている。丈太郎が席に着くと、のそのそと起き上がり、しっぽを振りながら近づいてきた。
「おはよう、ロッキー」
声をかけると、ロッキーはペロリと手を舐めた。何気ないが、朝の癒やしのひとつだった。
黙々と朝食を食べ終えると、身だしなみの最終チェック。制服のネクタイを軽く締め直し、姿勢を正す。
「よし」
準備完了。
玄関で革靴を履いていると、ロッキーがすかさず寄ってきて、鼻先で丈太郎の膝を軽くつついた。外に行きたそうな目をしている。
「散歩は夕方な。今日は母さんが当番だぞ」
そう言い聞かせると、ロッキーはしぶしぶソファに戻っていった。
父と一緒に軽トラックに乗り込む。駅までは車で十五分。これは毎朝の決まりごと。父の出勤ルートの途中にあるから、自然な流れだ。
車の窓から流れていく森と田んぼの風景。季節の香りが鼻をくすぐる。
「今日は帰り、母さんが迎えに行くってさ」
「了解」
短い会話。静かな空気。けれど、そこには確かな安心感があった。
駅前で車を降り、丈太郎は軽く手を上げて父と別れる。
そこから電車に揺られて、およそ一時間。
制服姿の高校生たちに紛れ、丈太郎もいつもの一日を始める。
――これが、彼の満たされた日常だった。
高校に着くと、丈太郎は昇降口で上履きに履き替え、そのまま静かに教室へ向かった。
2年B組。扉を開けると、すでに数人のクラスメイトが席についていた。教室には朝のざわめきが広がり、窓の外には夏空が広がっている。
自分の席に着くと、丈太郎は鞄からノートを取り出し、机に広げた。今日は朝イチで英語の小テストがあるのだ。
ノートの単語を黙々と目で追いながら、頭の中でつぶやくように発音をなぞる。
「おはよー、丈太郎くん」
隣の席から、澄んだ声がかかった。
「おはよー、塩原さん」
顔を上げて軽く微笑む。
それは、いつもの挨拶。けれど、それだけでなんとなく胸の奥がくすぐったくなる。
今日も塩原橙子は清楚な雰囲気で、長い黒髪をまとめ、涼しげな表情をしている。
ただのクラスメイト。それ以上でも、それ以下でもない。だけど、目を引かれるのはどうしようもなかった。
そこへ、元気な足音とともに、親友の大樹が駆け寄ってきた。
「おはー、丈太郎!」
「おはよー」
少し気だるげに答える丈太郎に構わず、大樹は机に手をついて身を乗り出す。
「なーなー、明日休みだろ?久々にカラオケ行かね!?駅前のとこ、新機種入ったらしいぞ!」
丈太郎は少し考えてから、申し訳なさそうに答えた。
「ごめん。明日は山に行こうと思ってて」
「……またマウンテンバイクかよ!全日本ジュニアで3位に入ったからって、休日のたびに山ばっかじゃねーか。たまには息抜きしろよ。第一、最近模試の成績で悩んでただろ?」
「息抜きのために山に行くんだよ。それに、大学の工学部に入ってバイクの設計をしたいなら、もっと走って構造を体で覚えないと」
「そんなんだから彼女できねぇんだよ!な、塩原さんもそう思うだろ~?」
いきなり話を振られて、塩原さんは一瞬、目を白黒させた。
「え、えっと……私は別に、いいと思うけど……?」
少し戸惑いながらも、困ったように微笑む塩原さん。
「ほら見ろ、大樹。勝手に巻き込むなよ」
丈太郎は苦笑しながら肩をすくめる。
「いやいや、塩原さんにそんなフォローされたら余計に嫉妬するっての。くそー、イケメンは得だな……」
そう言ってわざとらしくうなだれる大樹。
そんなやり取りを横目に、丈太郎はもう一度ノートに目を戻す。
カラオケも悪くない。でも――今は風を切って山道を走るあの感覚が、どうしても恋しかった。
歴史の授業。
教壇の前では教師が、第二次世界大戦の話をしていた。
パワーポイントに映し出されるのは、モノクロの写真。廃墟となった街、やせ細った兵士たち、避難民の列。
「……戦争は正義のぶつかり合いだ、と言われることもあります。ですが、正義は国や立場によって形を変えます。だからこそ、世界は今も――」
教師の言葉は淡々としていたが、内容は重かった。
丈太郎はノートを開いたまま、ただ前を見つめていた。
(人は、なぜ争うんだろう……)
ふと、そんな疑問が胸をよぎる。
(みんな仲良く生きられたら、それが一番じゃないのか。誰かを傷つけてまで、欲しいものってあるのか……)
けれど同時に、別の考えも浮かんでくる。
(もし、自分や大切な誰かが攻撃されたら……。そのとき、何もしないでいるのが“正しい”んだろうか?)
モヤモヤとした感情が渦巻く。
(相手を傷つけたくはない。でも、ただの無抵抗も違う気がする……)
そう思えば思うほど、答えは遠ざかっていく。
この手の話を聞くと、丈太郎の中にはいつも、自問自答ばかりが残る。そして、結局は答えが出ないまま。
ふと、隣の席に目をやると――塩原さんが、とても真剣な表情で教師の話に耳を傾けていた。
背筋を伸ばし、視線はまっすぐ前へ。目の奥には揺るぎないものが宿っているように見えた。
(……やっぱり、強い人だな)
丈太郎は、そっと目を伏せた。
ノートの余白に、意味のない線を一本、また一本と引いていく。
昼休みのチャイムが鳴った。
ざわつき始める教室。誰かが椅子を引く音、弁当の包みを開く音、友人同士の笑い声が混じり合う中――丈太郎はまだ席を立たず、机に肘をついてぼんやりしていた。
ノートの片隅に、さっきの授業中に書いた線が何本も重なっている。迷いの残骸のように。
そんなとき、隣から声がかかった。
「……丈太郎くん、さっきの授業のこと、考えてた?」
顔を上げると、塩原さんがこちらを見ていた。目元にはやわらかな光。だけどその奥には、静かな強さが宿っている。
丈太郎は少しだけうなずいた。
「うん……なんか、ああいう話聞くと、いつもモヤモヤするんだ。争いって……やっぱり、無くならないのかなって」
「……うん、私もよく考える。人って、きっと完璧じゃないから。理想だけじゃ、生きられないのかもね」
「でも……誰かを傷つけてまで得たいものって、そんなに大事なものかな」
「たぶん、本人にとっては“すごく大事”なんだと思うよ。でも、それが正しいとは限らない。だからこそ……悩むんだよね」
その言葉は、丈太郎の胸の奥に、少しだけ灯をともした気がした。
塩原さんは窓の外をちらりと見て、少し笑った。
「でもさ。私は思うんだ。悩んだり、迷ったりできる人のほうが、きっと優しいよ」
丈太郎は、返す言葉を見つけられなかった。ただ、小さくうなずいた。
どこかで誰かが弁当のふたを開ける音がした。教室には、いつもの昼の空気が流れている。
丈太郎の心にはまだ答えはなかったけれど――さっきより少しだけ、軽くなった気がした。
丈太郎は弁当も広げず、まだ迷いの残る瞳で机の上を見つめていた。
その横で、塩原さんは自分のお弁当の包みをゆっくりとほどきながら、ぽつりとつぶやく。
「私ね、小さいころずっと『戦わない人間になりたい』って思ってたの」
丈太郎は目を上げる。
「え?」
「ケンカとか、悪口とか、そういうのが苦手だったから……平和で、静かで、誰も怒ってない場所が、いちばん安心する。だから、戦いを避けることが“正しい”って、昔は思ってた」
「……今は違うの?」
塩原さんはふっと目を伏せて、箸を止めた。
「今でも、できるだけ争いたくないって思ってる。でも……『守るためには立ち向かわなきゃいけないこともある』って、最近は思うようになった」
「……守るために」
その言葉に、丈太郎の胸が一瞬だけざわめいた。
守るために――戦う。
守るために――傷つくこともある。
けれど、自分は……。
「丈太郎くんは、どう思う?」
「……わからないよ、まだ。でもたぶん、俺は――自分が傷つくのは平気だけど、誰かを傷つけてまで何かを得たいとは思わない。それが甘いって言われても、たぶん、ずっとそうだと思う」
塩原さんは、少しだけ目を見開いて、優しく微笑んだ。
「……そっか。丈太郎くんらしいね」
その笑顔に、丈太郎の胸の中のモヤモヤが、ほんの少しだけ、形を持ち始める。
守るとは、ただ戦うことじゃない。
ただ受け入れることでもない。
その真ん中に、自分なりの答えがある気がする――
その時はまだ気づいていなかった。
この日の会話が、異世界で自分が「絶対防御」という力を得た時――最も大切な心の軸になることを。




