序章 風切る音と、見知らぬ森
夏の日差しが木々の隙間から降り注ぎ、セミの鳴き声が山の静けさを破っていた。
山之内丈太郎は、近所の山道をマウンテンバイクで駆け抜けていた。地元の氏神である『第六天神社』の脇を抜け、裏山へと続く未整備のルート。スピードに乗った下り坂、空気を裂く風圧、全身を包む緑の匂い。そのすべてが、彼の心を解き放つ。
舗装されていない未整備のルート。だが、彼にとっては小学校の頃から走り慣れた“ホームコース”だ。細かい石や木の根、急斜面すらもリズムに乗って乗りこなしていく。
──もっと速く、もっと自由に。
彼はハンドルを握る手に力を込めた。
だが、次の瞬間――!!
茂みから、唐突に大きな影が飛びだしてきた!
(鹿!?)
慌てて急ブレーキをかけ、ハンドルを切る。だが、運悪く前輪が大きな石に弾かれ、バイクごと体が空へ放り出された。
「……っ!」
丈太郎の体は、ガードレールのない崖下、深い谷底へと落ちていく。
猛スピードで地面が迫る。死の恐怖に意識が白く染まりかけた瞬間、彼は心の底から叫んだ。
「――死にたくない!」
その一言と同時に、眩い光が視界を覆った。
◆ ◆ ◆
気がつくと、丈太郎は仰向けに倒れていた。
見上げた空は、さっきまでとは違っていた。木々の葉の形も、空の色も、空気の匂いも。どこか違和感を覚える。
ゆっくりと体を起こし、周囲を見回す。深く、生い茂る森。濃密な緑と、風に混じる甘い香り。聞き慣れない鳥のさえずりが、まるで音楽のように森の奥から聞こえてくる。
「……ここ、どこだ……?」
自分の体に意識を向ける。手足を動かし、頭や胴体を軽く押さえる。泥はついていたが、かすり傷一つない。打撲や骨折といった重傷も負っている様子はなかった。
「……無事……か? いや、おかしいだろ。あんな崖から落ちて……」
あれほどの勢いで真っ逆さまに落ちたのにだ。普通なら命がないか、良くて大怪我のはずだ。それが無傷だなんて、奇跡としか言いようがない。
ズボンのポケットからスマートフォンを取り出す。だが、画面はヒビだらけで真っ暗だった。
丈太郎はしばらくそれを見つめ、眉をひそめると、静かに息を吐いた。
――つい最近、ようやく両親を説得して買い替えてもらった最新機種だった。
バイト代も足りず、頭を下げて手に入れたばかりのスマホが、こんな形で壊れてしまうとは……。
「……下山しよう」
混乱していても、じっとしていても何も変わらない。まずは家に戻るしかない――そう思い、彼は周囲を見回した。
「マウンテンバイク……」
あの事故の直前まで乗っていた愛車を探そうと、丈太郎は草むらや倒木の裏、少し離れた斜面の下まで歩き回った。
だが、どこにもない。タイヤの跡も、金属のきらめきも、影すらも。
「うそだろ……」
丈太郎の声がかすれた。何度も転びそうになりながら木々の間をかき分け、あちこちを探したが、結果は同じだった。
あのバイクは、去年の誕生日に両親がくれたものだ。父と一緒にショップを回って選んだこだわりの一台で、母は半年以上前から積み立てしてくれていた。手元に来たときの感動と、二人の笑顔が頭に浮かぶ。
「なんで……」
声が震えた。
スマホは、壊れた。
バイクも、なくなった。
「くそっ……」
丈太郎は木の根元にへたり込み、膝を抱えた。落ち葉の匂いがやけに濃く、どこか甘ったるい風が肌を撫でる。だけど、そんなものを感じる余裕はなかった。
じわり、と目に熱いものがこみ上げてきた。
「父さん、母さん、ごめん…」
ぽろぽろと涙がこぼれた。悔しさと、寂しさと、不安が一気に胸を押しつぶす。
一人ぼっちの森の中。壊れたスマホ。姿を消したマウンテンバイク。
何もかもが、手のひらからこぼれ落ちていく。
丈太郎は顔を腕に埋め、小さくしゃくり上げながら泣いた。情けなくても、止められなかった。
それでも――彼はまだ、立ち上がることを諦めてはいなかった。
「……とにかく、帰ろう」
小さく呟く。涙を拭った頬はまだ熱を帯びていたが、心は少しずつ前を向き始めていた。
スマホも使えず、バイクもない。それでもじっとしているわけにはいかない。
丈太郎は辺りを見回し、判断する。下手に斜面を降りて迷うより、高いところから周囲を見渡したほうがいい。ここがどこか、道があるのか、方角は合っているのか――それを知るには尾根筋に出るのが賢明だった。
森の中を登るのは簡単ではなかった。折れた枝や滑りやすい岩場に足を取られながらも、彼は一歩ずつ歩みを進めた。幸い、日差しはまだ高く、方向感覚を失わずに済んでいる。
やがて、斜面の傾斜が緩み、地形が開けてくる。
「……ここだ」
丈太郎は大きな岩のそばに立ち、期待を胸に視線を遠くへと投げた。しかし、眼下に広がっていたのは、見慣れた近所の町並みやアスファルトの道路ではなかった。
「……嘘だろ……」
そこにあったのは、見渡す限りどこまでも続く、深く見知らぬ森の海だった。山の稜線までびっしりと覆う濃緑の木々は、丈太郎の知る地元の山の景色とは明らかに違う。あまりにも広大で、人の手の入っていない圧倒的な自然の力強さが、彼の胸に冷たい不安を這い上がらせる。
「俺、どんだけ山奥に……」
呆然と立ち尽くし、ただ緑に埋め尽くされた景色をさまよわせる。だが、絶望に染まりかけた視界の端に、ふと違和感が引っかかった。
「……ん?」
目を凝らす。深く生い茂る森の海の一角、わずかに開けた平地。そこには、明らかに自然のままではない、人工的な形があった。
「……村?」
木造の家が十数軒、周囲を柵のようなもので囲まれている。煙が立ち上り、人影のようなものが動いているのも見える。
丈太郎の胸に、安堵が広がった。
(……よかった。人が、いる)
どこかに遭難したのか、それとも山の向こう側まで来てしまったのか。理由はわからない。だが、まずはあそこへ行って助けを求めよう。人がいれば、状況が変わる。
「よし……」
緊張を抱えたまま、丈太郎は深く息を吸った。甘いような、土のような、湿った匂いが鼻を突く。
そして彼は、緑の海へと足を踏み出した。




