第23章 怒り
次の日の朝。
丈太郎は、静寂に包まれた野営地でショートソードを振り続けていた。振り下ろすたびに汗が滴り、乾いた地面に小さな水玉の染みを作っていく。びっしょりと濡れたシャツが、彼がすでにどれほどの回数を重ねてきたかを物語っていた。
その風を切る音に気づいてか、フィリスがテントから顔を出した。一心不乱に剣を振る丈太郎の姿を見つけると、彼女は腕を組み、じっとその様子を見守る。
(……筋はいいのよね)
内心でそう呟きながら、彼に声をかけた。
「おはよー、丈太郎くん」
「おはようございます、フィリスさん」
「朝から素振りとは感心感心。でも……ちょっと中心がずれてるわよ」
そう言ってフィリスは丈太郎の背後に回り、剣を握る彼の手をそっと包み込んで、軌道を軽く修正してみせた。
丈太郎は姿勢を正し、教えられた通りの軌道で再び剣を振る。
「どうですか?」
「うん。いい感じ」
フィリスは満足げに頷くと、そのまま焚き火に薪をくべ、朝食の準備を始めた。
剣が風を裂く鋭い音と、焚き火がはぜる温かな音。二つの音が、旅の朝を穏やかに彩っていた。
やがて二人は焚き火を囲み、簡素ながらも温かな朝食を取った。
こんがり焼いたパンと、香り高いキノコのスープ。いつの間にか、それは彼らの旅の定番になりつつあった。
「今日から稽古を本格的に再開するわよ。まずは――基礎体力ね」
フィリスがパンをちぎりながら宣言する。
「はい。自分でも体力不足は痛感してます」
丈太郎は真剣な顔でうなずいた。
「ってことで、まずは走り込み。移獣に頼らず、自分の足でね」
「はいっ!」
食事を終えた二人はテントを片付け、野営地を後にした。
丈太郎は荷物を移獣に預け、自らは街道をランニングする。その横で、フィリスは移獣の上から丈太郎を見下ろし並走していく。
最初こそ軽快に駆けていた丈太郎だったが、やがて息は荒くなり、足ももつれはじめる。
「ぜぇ……ぜぇ……っ」
ついに丈太郎は限界を迎え、道端に倒れ込んでしまった。
「こらこら、もうギブアップ?」
フィリスがニヤリと意地悪く笑い、呆れたように覗き込む。
「はぁ……はぁ……思った以上に……キツいです……」
丈太郎は顔を真っ赤にして、地面に手をついたまま喘いだ。
フィリスは腰に手を当て、からからと豪快に笑う。
「はっはっは! やっぱり基礎体力が足りないわねぇ!」
丈太郎は悔しさを滲ませながらも、必死に立ち上がろうとした。だが足がすくみ、ついにフィリスの合図で移獣の背にまたがることになった。
「ふぅ……ふぅ……」
揺れる背に身を預けながら、必死に呼吸を整える。
だが、息が落ち着いたと見るやいなや、フィリスの鋭い声が飛んだ。
「はい、降りて! 次はまた走る!」
「……はいっ!」
丈太郎は移獣から飛び降り、再び街道を駆けだした。
――休憩も兼ねて移獣に乗り、息が整えば走る。
それを繰り返しながら、二人は街道を進んでいった。
その横で、移獣は鼻を鳴らし、どこか楽しそうに歩を進めている。まるで主人の奮闘を面白がっているかのようだ。
丈太郎の足取りは鉛のように重いが、その瞳だけは決して折れることなく、真っ直ぐ前を向いていた。
途中、簡単な昼食を取りながらも、丈太郎のランニングは夕暮れまで続いた。
西の空が茜色に染まり、二人の長い影が街道に伸びていく。
ようやく今日の野営地に辿り着いた頃には、丈太郎は今にも倒れそうなほど息も絶え絶えだった。
「お疲れさま、丈太郎くん。野営地についたわよ」
フィリスが労うように微笑みかける。
「はぁ……はぁ……」
丈太郎は膝に手をつき、荒い息を吐き出す。
「今日はここまで。夜ご飯食べて、ゆっくり休みましょ」
その一言に、丈太郎はようやく安堵の息を漏らし、その場にへたり込んだ。
野営地にはすでに数台の移獣車が停められており、その周囲では冒険者や商人風の人々がキャンプの準備をしていた。
あちこちから上がる焚き火の煙と賑やかな笑い声が、夕暮れの野営地を彩っている。
(あの人たちはアウトリアから出てきて、ルノア村へ向かう途中なのだろうか……)
丈太郎はそんなことを思いながら、ちらりと彼らの姿を眺めた。
自分たちも少し離れた場所に腰を落ち着け、テントの設営や火の準備を始める。
長く続く街道の夜は、今日もさまざまな旅人を飲み込んでいく。
キャンプの準備が整い、二人は焚き火を囲んで食事を始めた。
パンをかじり、温かいスープをすすりながら、張り詰めていた筋肉の疲労が少しずつほぐれていく。
フィリスは火の揺らめきを見つめながら、ふと真剣な声色になった。
「……明日の夕暮れにはアウトリアに到着するわけだけど、その前に注意してほしいことがあるの」
「はい。お願いします」
丈太郎は背筋を正し、耳を傾けた。
「と、その前に、丈太郎くん」
フィリスが無言で手を差し出す。
丈太郎は小さくため息をつきつつも、当然のようにリュックから酒瓶を取り出して手渡した。フィリスも当たり前のようにそれを受け取る。
「ありがと」
一言だけ言うと、酒瓶を傾けて豪快にあおった。
焚き火の炎が揺れ、酒を飲む彼女の美しい横顔を赤く照らしている。
「で、街についてからだけど――」
フィリスが話を切り出そうとした、その時だった。
隣のキャンプから、ひとりの男がふらつく足取りで近づいてきた。
手には酒瓶を抱えており、顔は赤く上気している。
「よぉ、姉ちゃん。そんなガキはほっといて、俺と飲もうぜ!」
男は酒臭い息を吐きながら、下卑た笑いを浮かべた。
フィリスはあからさまに面倒くさそうな表情を浮かべ、忌々しげに眉をひそめる。
丈太郎は隣で息をのむ。焚き火を囲む穏やかな夜の空気が、一瞬にしてざらついたものに変わった。
「なあ、姉ちゃん。かなりのべっぴんだな。一緒に飲もうや!」
男はいやらしい笑みを深め、フィリスの顔の前に酒瓶を突き出した。
それを見ていた丈太郎の胸に、かつて感じたことのない、どす黒く無性な苛立ちがこみ上げてくる。
フィリスは男を完全に無視し、手元の酒をあおった。
「おい、無視してんじゃねえよ!」
男は苛立ち、乱暴にフィリスの肩へ手を伸ばす。
その瞬間――。
「フィリスさんに近付くな」
低く冷たい声と共に、丈太郎の手が男の手首をがっしりと掴んでいた。
「丈太郎くん……?」
フィリスが驚きに青い目を見開く。
「あ? なんだガキ!」
「聞こえなかったのか? 近付くなって言ったんだ……ブタ野郎」
「なにぃっ、このガキ!」
男は怒りに顔を歪め、もう片方の拳を振り上げる。 だが次の瞬間、丈太郎は掴んだ腕を軽々と持ち上げ、男の巨体をふわりと宙に浮かせた。
「なっ……!?」
男は自分が抗う間もなく持ち上げられたことに、驚愕の声を漏らす。
「ブタの割には、随分軽いな」
そう吐き捨てると同時に、丈太郎は男を放り投げる。
「ぐあっ!」
男は無様に転がり、唸り声を上げる。
「こんのガキが……調子に乗りやがって!」
立ち上がった男は、ついに腰の剣に手をかけた。
「やめるんだ!」
鋭い声が響いた。
隣のキャンプから、もう一人の男が足早に歩み寄ってくる。
「こいつ、俺のことを愚弄しやがったんだ! 許せるかよ!」
酔っ払いの男が喚き立てる。
「……止めろと言ったはずだ」
仲裁に入った男は、有無を言わせぬ鋭い眼光で酔っ払いを睨みつけた。
「う……っ」
酔っ払いの男は一瞬で気圧され、口ごもった。
「……あーあ、酔いが覚めちまった」
吐き捨てるように言い、男はすごすごと自分たちのキャンプへ戻っていった。
野営地に残ったのは、焚き火のはぜる音と、気まずい沈黙だけだった。
「ご迷惑をおかけしました。あいつは酔うと見境いがなくてな……」
仲裁に入った男が頭をかきながら謝る。だが、丈太郎の顔をじっと見て、目を細めた。
「ん……? お前……丈太郎か?」
「え?」
名前を呼ばれ、丈太郎は思わず疑問の眼差しを返す。
男はにやりと笑った。
「俺だよ。って言っても、こうして面と向かって話すのは初めてか。俺はゼイン。ルノア村の狩人だ」
「あ……!」
丈太郎ははっと気づいた。村にいた頃、狩り帰りに何度かすれ違った顔だ。口数は少なかったが、確かに見覚えがある。
「ゼインさんは……なぜここに?」
丈太郎は素朴な疑問を返した。
「いや、アウトリアに用事があってな。今はその帰りだ。ちょうど獣車の護衛を頼まれてね、一緒に村に戻るところさ。他のやつらも護衛の冒険者だ」
「そうなんですね」
丈太郎は納得したようにうなずく。
ゼインは視線を横に向け、座ったままのフィリスを一瞥した。
「ってことは……そっちがフィリスか。さっきは連れが迷惑をかけたな」
「ほんとよ。仲間の躾くらい、しっかりしてよね」
フィリスはさらりと言い放ち、酒を口にする。
その容赦のない言い方に、丈太郎は思わず苦笑を浮かべた。
ゼインは一瞬だけ口元を引きつらせたが、すぐに肩をすくめて見せた。
「丈太郎たちは、これからアウトリアに向かうのか?」
ゼインが問いかける。
「はい。俺は……自分の家に帰るために。いつになるかわかりませんけど……」
丈太郎は少し俯きながら答えた。それは、ゼインが想像するような単純な道のりではない。 ゼインはその言葉に深くうなずく。村でも、丈太郎の数奇な境遇についてはなんとなく耳にしていたのだ。
「……そうか。早く帰れるといいな」
短いながらも、真っ直ぐで温かい言葉だった。
「はい、ありがとうございます、ゼインさん」
丈太郎は素直に頭を下げた。
ゼインはふっと笑い、改めて言った。
「ほんと迷惑をかけたな。悪かった。……お前たちの旅の無事を祈るよ」
そう言い残し、ゼインは自分たちのキャンプへと戻っていった。
焚き火の灯りの中、その背中はどこか頼もしくもあり、丈太郎には少し眩しく見えた。
「あ、フィリスさん。話の途中でしたよね」
丈太郎は焚き火のそばに座り直し、フィリスの方へ向き直った。
すると、フィリスは酒瓶を片手に、にやにやと笑っている。
「丈太郎くん、さっきの……凄かったじゃない。見直したわ」
「い、いや……なんか、無性に腹が立って……」
丈太郎は自分の突発的な行動を思い出し、耳まで赤くしながら答える。
「ふふふ……ありがと♡」
フィリスはわざとらしく色っぽくウインクして、焚き火越しに柔らかく笑った。
丈太郎は思わず目をそらし、心臓が妙に早く打っているのを感じていた。
「それにしても……『ブタヤロウ』って、どこでそんな言葉覚えたのよ? くくくっ!」
フィリスは思い出し笑いをして、肩を震わせた。
「もういいじゃないですか! なんか自然と出ちゃったんですよ!」
丈太郎は顔を真っ赤にして抗議する。
「まあまあ。でも、特訓の成果はちゃんと出てたわよ。――結構、格好良かったわ」
フィリスはにやにやと笑いながら、わざとからかうように言った。
丈太郎は一瞬、返す言葉を失った。
(……からかわれてるだけなのか、それとも本気で言ってるのか……)
胸の鼓動がやけにうるさく感じられる。
そんな丈太郎をよそに、フィリスは残りの酒をあおり、ふっと表情を改めた。
「さて――街についてからの注意だけどね」
焚き火の炎がぱちりと弾け、夜の空気が再び引き締まる。
「丈太郎くん、改めて確認だけど……あなたのその能力は、知られると色々面倒なことになる。だから、絶対に隠すのよ」
フィリスは真剣な口調で念を押す。
「わかってます」
丈太郎はうなずき、焚き火の炎をじっと見つめた。
「後は――無用なトラブルを起こさないこと。……さっきみたいなのは特にね」
そう言いながら、フィリスは先ほどの光景を思い出したのか、口元を押さえてくすりと笑った。
丈太郎は再び耳まで赤くなり、気まずそうに視線をそらす。
「……努力します」
焚き火のはぜる音だけが、しばし二人の間を満たした。
こうして、街に入る前夜は静かに更けていった――。
***
テントの中で横になったフィリスは、瞼を閉じながらさっきの出来事を思い返していた。
(丈太郎くん……あんなに必死になっちゃって。誰も傷つけたくないとか言ってたくせに……ふふっ)
脳裏に浮かぶのは、酔っ払いに毅然と立ち向かった丈太郎の真剣な表情と、「フィリスさんに近づくな」という低く冷たい声。
その不器用で真っ直ぐな姿を思い出すたびに、胸の奥が妙に高鳴り、ほんのりと熱を帯びていくのを感じていた。
「……ほんと、仕方ない子ね」
小さく呟いて、フィリスは寝袋に身を丸める。
やがて焚き火の残り火の温もりと、街道を渡る夜風の静けさに包まれながら――
彼女はそっと、穏やかな眠りに落ちていった。




