第15章 帰還の兆し
丈太郎は、その日どうにも治癒院の仕事に身が入らなかった。
包帯を巻く手も、薬草を仕分ける指も、どこか上の空だ。
アンクとアリスが、心配そうにその様子を見ていた。
昨夜の晩餐の余韻が、まだ胸の奥に残っている。
テラの作る温かな料理。ミィナの無邪気な笑い声。アンクの皮肉交じりの冗談。
そして、向かい合ってジョッキを傾けるフィリスの笑顔――。
あの光景は、まるで日本にいた頃の家族団らんを切り取ったようだった。
父と母。食卓に並ぶ湯気立つご飯。足元で尻尾を振るロッキー。
それらを思い出した瞬間、胸の奥に押し込めていた感情が、堰を切ったように溢れ出す。
――帰りたい。
そう強く願ったのは、初めてかもしれない。
今までは「どうせ無理だ」と自分に言い聞かせ、考えないようにしてきたのに。
仕事を終えると同時に、丈太郎は一目散にフィリスのもとへ向かった。
宿屋の庭先で、フィリスが剣を磨いている姿が見える。
夕陽を受け、赤く染まった横顔は、妙に凛としていて近寄りがたいほどだった。
だが、迷いはなかった。
丈太郎に気づいたフィリスが、にこりと笑って手を振る。
「丈太郎くん、そんなに私が恋しかったの?」
軽口を叩くその声に、息を切らしたまま近づきながら答える。
「……フィリスさん、少し真面目な話をしてもいいですか」
「ん? 改まってるじゃない。いいわよ、聞くわ」
丈太郎は深く息を吸い、彼女の青い瞳をまっすぐに見つめた。
「俺……この世界の人間じゃないんです」
フィリスの手がぴたりと止まる。
驚きに揺れる青い瞳。開かれた唇が、言葉を探して宙を彷徨う。
「……どういう、意味?」
丈太郎は、転移してきた瞬間からの出来事を、すべて打ち明けた。
日本という別の世界のこと。あの日、森で目覚めたこと。
そして、帰る方法を探し続けてきたことを。
「……で、召喚術を探してるってわけね」
「はい。村長から聞きました。召喚術は異世界から異能の者を呼び出す術だと。呼び出せるなら、逆に帰すこともできるかもしれないと……可能性は低くても、俺は元の世界に帰りたいんです。フィリスさんなら何か知ってるかと思って…」
フィリスはゆっくりと立ち上がり、剣を鞘に収めると、低い声で言った。
「召喚術は古代魔術のひとつ。危険すぎて禁術扱いされてるわ。使える人なんて、私の知る限りいない……」
「禁術……」
「でも、帝都の大図書館には古代魔術の文献が残ってるって話は聞いたことがある。行くなら、そこしかないわね」
丈太郎は小さくうなずき、決意を込めた声で言った。
「……行きます。帝都へ」
その瞬間、フィリスの口元がにやりと上がった。
「なら、私も一緒に行くわ。あなた一人じゃ、道中で何が起こるかわからないしね」
「えっ……でも――」
「でもじゃないの! あなたの能力、私が一番理解してるんだから。……それに、面白そうじゃない」
挑むように輝く青い瞳。
丈太郎はその目を見て、胸の奥に頼もしさと温かさが同時に灯るのを感じた。
「それにしても……まさかの異世界かー。そりゃ魔力の気配がないわけだし、絶対防御なんて異能まで持ってるわけね」
フィリスは腕を組み、真剣に丈太郎を見据える。
「でも、帝都への道のりは長いわよ。いくつもの街を抜け、山も谷も越えなきゃならない。この村を出たら、しばらく戻ってこれない覚悟はある?」
「……覚悟の上です」
丈太郎は迷いのない目で頷いた。
フィリスは一瞬だけ口元を引き締め――そしてにやりと笑う。
「よし、じゃあ明日から特訓ね」
「……え? 特訓!?」
「いくらその能力があるとはいえ、この世界で冒険するには丈太郎くんは危なっかしすぎるの。無駄にトラブルに巻き込まれないよう、私が“冒険者の心得”ってやつを叩き込んであげる」
そう言うフィリスの声は、妙に楽しげだった。
夕食後、アンクの家の居間。
薪のはぜる音と、テラが淹れたハーブティーの香りが部屋に広がっていた。
丈太郎は、テーブルの上で組んだ自分の手をじっと見つめる。
「……俺、帝都へ行こうと思います」
ぽつりと放たれた言葉に、場の空気が止まった。
アンクは少しだけ目を細め、丈太郎をじっと見つめる。
「そうか……行くか。今朝から何か考え込んでいたから、もしやとは思っていたが……」
テラは湯気の立つカップを置き、穏やかに微笑んだ。
「寂しくなりますね」
「旅の準備もあるので、すぐにではありません。まだしばらくは……」
そう言いかけた丈太郎の言葉を、小さな声が遮った。
「お兄ちゃん! いっちゃヤダー!!」
ミィナが椅子から飛び降り、丈太郎にしがみつく。
小さな腕の力は意外なほど強く、その必死さが胸を締めつけた。
「ミィナ……ごめん。でもね、俺、家に帰りたいんだ。父さんと母さんに……会いたい」
丈太郎はしゃがみこみ、彼女の頭を優しく撫でる。
「それに、帰れるって決まったわけじゃない。もし帰れなかったら……またここに戻ってくる」
ミィナはしばらく黙っていたが、やがて小さく呟いた。
「……わかった」
アンクが腕を組み、ゆっくりと頷く。
「ああ、いつでも戻ってくるといい。この家はもう、お前の家だ」
テラも静かに頷き、その瞳に温かな光を宿す。
――翌朝。
目を覚ますと、ミィナが腕にしがみついたまま眠っていた。
その寝顔を見て、丈太郎は心の奥で改めて誓う。
(……確かに寂しい。けど、このままここにいたら、もっと寂しい。だから、俺はもう迷わない)




