第9章 魔剣士フィリス
帝都へ戻ったのは、ほんの気まぐれだった。
好きな場所で、好きな酒を飲む。そんな旅暮らしに飽きたわけではない。ただ、少しだけ落ち着きたくなったのだ。
ギルドに立ち寄ると、掲示板に辺境の「ルノア村」付近に出没したグランドグリズリーの討伐依頼が張り出されていた。
それを眺めていると、背後からギルドマスターに声をかけられ、依頼を頼み込まれた。
正直、気は進まなかった。
しかし、帝都の許可区域も危険地帯も顔パスで突破できるAランクの称号は、フィリスにとって“旅する自由”そのものだった。
称号を維持するためには年に一度の依頼達成が義務であり、彼女は渋々それを受けざるを得なかった。
かくして辺境のルノア村へとやってきたフィリスは、活気に満ちた酒場のカウンター席で、無言でエールを飲み干していた。
金色の髪を無造作に後ろで束ね、黒の軽甲冑に身を包んだ目の覚めるような美貌。背に漆黒の大剣を負った彼女の存在感に、周囲の男たちの喧騒が一瞬だけ止まる。
「おい……あれ、神炎のフィリスじゃねえか?」
「え!? あのAランクの!?」
「ああ、あの風貌と黒い剣……噂の特徴と一致する。なにより、あの雰囲気……ただ者じゃねぇな」
「なんでそんな大物が、こんな辺鄙な村に……?」
「ひょっとして、三ヶ月くらい前に出たグランドグリズリーの討伐依頼か?」
「確かそのとき、森で少女を助けた青年がいたって話だったよな。しかも無傷で……」
「ああ。助けた青年ってのが今、アンクの治癒院で働いてるって話だ」
そんな男たちの会話の輪に、漆黒の女性は静かに近づいた。
「……その話、詳しく聞かせてくれないかしら?」
男たちから詳しい話を聞いたとき、フィリスは真っ先に「胡散臭い」と思った。
Bランクでも手こずるグランドグリズリーを、少女を庇いながら無傷で退けたなど、あり得ない。逃げ切っただけだとしても眉唾だ。
だが、語る者すべてが同じ事実を口にしており、嘘にしては筋が通りすぎている。
そして、誰もがその青年の名前を「丈太郎」と呼んだ。
聞いたことのない響き。発音も綴りも、この大陸の言葉とはどこか違う。
フィリスの胸に、久しく味わっていなかった強い好奇心がわき上がっていた。
* * *
村の酒場に《神炎のフィリス》が現れたという噂は瞬く間に広がり、治癒院で働く丈太郎の耳にも届いた。
丈太郎がこの村での生活にすっかり馴染んでから、およそ三ヶ月が過ぎた頃のことだ。
開院準備の最中、丈太郎は薬草の仕分けをしながらアリスに尋ねた。
「神炎のフィリスって、どんな人なんだろう?」
「とにかく強くて、カッコいいらしいですよ」
あまりにざっくりした返答に苦笑が漏れる中、薬品庫から現れたアンクが補足した。
「Aランク冒険者だ。冒険者のランクはFから始まり、Aが実質的な最高位。Sランクはもはや伝説とされる存在なんだ。彼女の振るう剣は、天をも焼き切ると言われている」
「へぇ……それだけ強い人が、どうしてこの村に?」
「目的はグランドグリズリーの討伐だろうな」
その名を聞いた瞬間、丈太郎の手が止まる。
「そう。君がミィナを助けたときの、あのグリズリーだよ」
丈太郎は、あの日のことを思い出した。
グランドグリズリーはBランク冒険者でもてこずる存在であり、安全を期すにはAランクの力が必要だが、手配が難しく討伐がここまで遅れたのだとアンクは静かに語る。
その時、治癒院の木製扉が音を立てて開いた。
「すみません、治療の受付はまだ――」
アリスの声が途中で止まる。
扉の向こうに立っていたのは、黒の軽甲冑に身を包み、背には漆黒の大剣を背負った金髪の女性だった。
目の覚めるような蒼い瞳が、静かに室内を見渡す。
「ここに“丈太郎”という人、いらっしゃいますか?」
女性は落ち着いた口調でそう言うと、懐から冒険者証を取り出し、アリスの前に差し出した。黒地に赤い紋章――Aランクの証。
「し、神炎の、フィリス……!」
アリスは目を見開き、呆然とつぶやいた。
室内の空気が、ぴんと張りつめたように静まり返る。
「丈太郎さんってのは……その、あの、えっと……」
しどろもどろになるアリスを見て、フィリスは少しだけ口元を緩めた。
(さて……どんなやつかしら)
本当ならただの確認で終わるはずだったが、自分がわざわざ足を運んでいる事実が、何より彼女の強い興味を物語っていた。
「あの、俺に何か用ですか?」
アリスのすぐ隣。かがんで薬草の仕分けをしていた青年が、ゆっくりと立ち上がり振り返る。
黒髪で長身。女性としては背が高いスレンダーなフィリスよりもさらに高く、自然と彼女が見上げる形となった。
痩せぎすだが無駄のない身体つきの彼こそが、“丈太郎”だった。
フィリスは黙ったまま彼を見つめ――この男が普通ではないことを悟る。
魔力の気配が完全に空っぽの“無”。それでいて、不思議と隙がないのだ。
得体の知れない彼を見つめるうちに、フィリスの口元には自然と笑みが浮かんでいた。
「あなたが、丈太郎さん?」
「……はい。どちら様ですか?」
警戒も威圧もなく、怯えてもいない静かな声。
その自然体な態度に、フィリスはくっと笑った。
「私は、フィリス。冒険者よ。あなたに――ちょっと聞きたいことがあってね」
交差する視線と、抑えきれない好奇心のせいで、治癒院の空気がわずかに張り詰める。
「率直に聞くわ。あなたがグランドグリズリーから少女を庇いながら、無傷で生還したって……本当なの?」
鋭い観察の光を宿した瞳で見つめられ、丈太郎は思わず背筋を正した。
「はい。本当です。でも……あの時は運がよかっただけで。たまたまです」
声がやや硬くなる。あの“能力”のことを知られてはいけないと、丈太郎は直感的に思った。
フィリスはじっと彼を見つめていたが、やがてふっと目を細め、軽く息を吐いた。
「ふーん……そう。ま、いっか」
そう言ってくるりと踵を返すと、片手をひらりと振って見せる。
「丈太郎くん、よろしくね。……あなたとは、長い付き合いになりそうだわ」
冗談めいた言葉を残して、フィリスは出ていった。
* * *
扉が閉まる音がして、治癒院に静けさが戻る。
「フィリスさん、何か……気づいたんですかね?」
アリスが不安げに呟くと、アンクも眉間にしわを寄せて言った。
「うーん……どうだろうな。Aランク冒険者だし、何か感じ取ったのかもしれない。……用心したほうがいいかもな」
そして、アンクは真剣な眼差しで丈太郎を見た。
「丈太郎くん。君もわかってると思うが――君の能力は、非常に危険だ。世間に知られれば、悪用しようとする連中が必ず出てくる。……それは“神炎のフィリス”であっても、例外じゃないかもしれない」
丈太郎は静かに頷いた。
「……わかってます」
声に迷いはなかったが、胸の奥にはフィリスの言葉が妙に引っかかっていた。
一方、治癒院を出たフィリスは静かに歩き出していた。
──グランドグリズリーから、運よく? たまたま?
口元に浮かんだ微笑みが、やがて小さな笑いへと変わった。
「ふふっ……そんなはず、ないわよね」
あれは簡単に逃げおおせる甘い相手ではない。ましてや少女を庇いながら無傷で生還するなどあり得ない。
「丈太郎くん……あなた、絶対に何かを隠してる」
脳裏に浮かぶ、あの時の三人の様子。どこか張り詰めていた空気。それは、確かな何かを守ろうとする者の目だった。
フィリスはふっと空を仰ぐと、満足そうに笑った。
「……これからが楽しみね、丈太郎くん」
黒いマントが風に舞い、彼女は村の雑踏へと消えていった。




