8 冬の百雷
その日は、朝から灰色の雲が重く立ち込めていた。陰鬱な気配と、氷を含んだ冷たい風。重苦しい空気は昼になっても明るく転じないまま、時間だけがただ過ぎていく。
「おや、先生。今日はもうお帰りですか」
砦を行き交う人の中に見知った顔を見かけて、ジークは何気なく声を掛けた。
「ああ、ジーク君。元気そうだね」
彼の人生でもっとも尊敬する師であり、カナタの義父でもあるノエンは、その声に振り返って穏やかに頷く。
「今日は冬の百雷になりそうだからね。早めに帰らないと」
「冬の百雷、ですか……?」
「ああ、君は辺境領の冬は初めてだったね。――ここではね、本格的な雪が降り始める前に必ず嵐がやって来るんだよ。激しい雷とあられの吹き荒れる嵐だ。大の大人でも大怪我をしかねない天気だよ。ジーク君も今日は一日、外に出ない方が良い」
実を言うとね、と声を潜めてノエンはくすりと笑う。
「あのコは雷の音がすごく苦手なんだ。こんな日くらい、早く帰ってあげたくてね」
「あのコって、カナタのことですか……?」
苦手なモノなんてなさそうな元気満点の彼女の意外な弱点に、ジークは目を丸くした。
そんな彼の反応に、ノエンは楽しそうに頷く。王都を含めても三本の指に入る腕前を持つ名医であるはずの彼の笑みは、積み重ねた年を感じさせない少年のような悪戯な光に満ちている。
「そうさ。可愛い弱点だろう? だから……」
ノエンがその先に何を言うつもりだったのかはわからない。突然、和やかな会話を遮るようにドタドタとあわただしい足音が近づいてきたからだ。
「ドクター、急患です! 厩の馬が暴れだして、馬丁が大怪我を……すぐ来ていただけますか!」
火急の報告に、ノエンの表情が一気に引き締まる。
「わかった。どれくらい前の話だい? ケガ人は今どこに? ああ、報告は歩きながらで構わないから」
そう言いながらノエンは早くも歩きはじめる。その背中に、ジークは慌てて声を掛けた。
「先生。もし良かったら僕が、カナタの様子を見て来ましょうか?」
「ジーク君が?」
歩みを止めないまま振り返って、ノエンは少しだけ考えてから頷いた。
「そうだね。頼めるかな。あんまり弱音を吐かない不器用な子だけど、きっとジーク君が来てくれたら喜ぶと思う」
外へ出ると、既にぱらぱらと痛いくらいの勢いであられが降りはじめていた。嵐の気配に、行き交う人も少ない。動物たちも落ち着かない様子でねぐらへと帰っていく。
やがて、分厚い雲の中からごろごろという雷の音が聞こえてきた。確実に崩れていく空模様に、ジークの歩みも知らず知らずのうちに加速していく。
目的地である町外れの家に着いたときには、もう嵐はすぐそこまで来ていた。骨まで凍りつきそうな冷たい風に震えながら、ジークは扉をたたく。
「カナタ。俺だ、ジークだ。急患で帰れなくなった先生の代わりに、様子を見に来た」
「ジーク……? 待ってて、開けるから」
ばたばたと足音がして、扉が開けられた。出迎えたカナタは何故か頭からすっぽりと毛布をかぶった希妙な格好をしている。
「寒いから、早く中へどうぞ」
促されて家の中へ足を踏み入れようとしたところで、目が眩むほどの閃光が空を走った。間髪入れず、思わずジークも身を竦める程の大轟音が鳴り響く。随分と近くに雷が落ちたらしい。
「ぴぎゃァっ!」
情けない悲鳴を上げて、カナタが飛び上がった。かぶっていた毛布を離すまいと握り締めていた所為で、毛布の裾がカナタの足に絡みつく。
「危ない!」
バランスを崩してそのまま尻餅をつこうとしたカナタの身体を、ぎりぎりのところで受け止めた。腕の中のカナタは身を縮めて震えていて、いつもよりひと回り小さく見える。
「驚いた、本当に雷が苦手なんだな。大丈夫か?」
いつもの彼女なら、この程度で転ぶことなどないだろう。後ろ手で扉を閉めながら、そんなことを思う。
うう、と涙目のカナタを地面に下ろしたところで、ジークは彼女の様子にぴんと来るものを感じた。
「カナタ、ひょっとして今、獣が出てるんじゃないのか?」
泣きそうな顔でジークを見上げ、カナタはこくんと頷いた。ゆっくり毛布をどければ、ぺしゃんと潰れた耳と前回見た時より三倍は膨らんだ尻尾が現れる。
(か……可愛いっ!)
怯えた仔猫のような彼女の姿に、ジークは状況を忘れてついそんな感想を抱いてしまった。慌てて首を振ってそんな感情を振り払い、努めて優しく声を出す。
「先生が帰れない代わりに、俺が一緒に居るから。温かいモノ飲んで一旦落ち着こう、な? 台所借りるぞ」
「……うん、ありがとう」
もう一度毛布をかぶりなおしてから、カナタは力なく頷く。窓の外がまた一瞬明るく照らし出されて、カナタが怯えたようにジークの服の裾を掴んだ。
……今度の雷は、遠かったらしい。数秒経ってから遠くに雷鳴の音が響く。
「一緒に、行く」
服の裾を掴んだまま、カナタはジークの後ろをついて立ち上がる。
初めての感情に心が震えて、ジークは思わず天井を仰いだ。
(これが……庇護欲……ッ!)
普段の力強いカナタからは想像もできないほど弱り切った反応。それを見て突き動かされた感情の正体に、ジークは感動にも似た感慨を覚えていたのだった――。




