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第3話「欠けたまま、響きあう」

 

 その黄色が形を持ったのは、雨の日だった。


 朝から空は低く、教室の窓には細い雨粒が斜めに流れていた。

 湿った空気のせいか、人のオーラもいつもよりぼやけて見える。

 赤も青も灰色も、水に溶かした絵の具みたいに輪郭を失っていた。


 絵美はその日、少し遅れて教室に来た。


「おはよう」


 いつもの声だった。けれど、僕には分かった。

 いや、分かった気になっただけかもしれない。


 声の終わりが、ほんの少しだけ沈んでいた。


 僕は彼女の色を見た。

 青。灰色。そして、今までで一番鮮烈で、毒々しいほどの黄色。


「絵美」


「ん?」


「何かあった?」


 彼女は一瞬だけ瞬きをして、それから笑った。


「なんもないよ。ちょっと雨に濡れただけ」


 黄色が爆発するように揺れた。

 目の奥が焼けるようにチカチカする。

 僕は初めて、その色から目を逸らさなかった。

 逸らしてはいけないと思った。


「嘘だ」


 口にした瞬間、教室の空気が凍りついた気がした。

 絵美の笑みが、仮面が剥がれ落ちるように固まる。

 周りの何人かがこちらを見た。


 白が弾け、灰色が濁り、桃色が好奇心に尖る。

 好奇心や困惑の混じった心の声が、色の奔流となって教室中を飛び交っている。


 でも、僕には聞こえない。

 僕には、彼女の色しか見えない。


「何か、隠してる」


「春樹くん」


「ずっとだ」


 声が震えた。

 怒っているのか、怖いのか、自分でも分からなかった。


「転校してきたあの日から、ずっと黄色が見えてた。嘘の色が。だけど僕は、見ないふりをしてた。絵美が僕と同じだって、そう信じたかったから!」


 絵美は何も言わなかった。

 その沈黙が、鋭いナイフとなって僕の胸を刺す。


「本当に、心が読めないの?」


 問いは、自分でも驚くほど鋭かった。

 絵美の顔から、笑みが完全に消える。


 教室中を音が支配していた。

 窓を叩く、無数の指先のような雨の音。

 蛍光灯の小さな唸り。誰かが息を呑む音。


 やがて彼女はひどく小さな、けれど拒絶できないほどはっきりとした声で言った。


「……読める。うちは、人の心が、嫌っていうほど読めるんや」


 一瞬、教室の色が乱れた。


 読めること自体は、この世界では普通だ。

 けれど絵美は、読めないと言った。

 僕と同じだと、僕に思わせた。


 ――なんだ、読めるんだ。

 ――じゃあ、なんで「読めへん」なんて言ったの。


 そんな声が本当に耳に届いたのか、僕の想像だったのかは分からない。


 その瞬間、僕の中で何かが音を立てて崩れ去った。


 同じ欠け方をした仲間だと思っていた。

 この孤独な世界で、唯一、同じ景色を見ているのだと。


 けれど彼女は、僕と同じ側ではなかった。

 僕を見透かす側にいた。


 僕の椅子が床を引っかく音が、静まり返った教室に響く。


「なんで……」


 それ以上、言葉が出なかった。


 なんで嘘をついたのか。

 なんで僕に近づいたのか。

 なんで同じだと思わせたのか。


 なんで。

 なんで。


 口にできない問いばかりが、喉の奥で泥のように詰まった。


 絵美は唇を噛んだ。


「ごめん」


 その言葉に、僕の中の何かが熱くなる。


「ごめんで済むの?」


 自分の声とは思えないほど、冷たく響く。


「僕がどれだけ嬉しかったか、分かる? 初めて、僕だけじゃないって思えたんだ」


 分かっているはずだ。

 彼女は分かっている。

 心が読めるなら、僕の言葉にならない部分まで、全部。


 それがたまらなく嫌だった。


「読まないで」


 僕は震える声で言った。


「今、僕の心を読まないで。分かったみたいな顔をしないで!」


 絵美のオーラが小さく揺れた。


「この世界も、言葉も……嫌いだ」


 僕は鞄を掴み、教室を飛び出した。


 廊下を走る背中に、いくつもの視線を感じる。

 きっと、無機質な心の声が飛び交っている。


「ほら、やっぱりな」

「あいつ、また変なこと言ってる」


 聞こえないはずの声が、色の奔流となって僕を飲み込もうとしていた。


 僕には聞こえない。

 それなのに、今だけは聞こえないことがありがたかった。


 ◇ ◇ ◇


 屋上へ向かった。


 雨の日の屋上は、誰もいない。

 鍵はかかっているはずだったけれど、その手前の踊り場なら座る場所があった。


 僕は階段に腰を下ろした。


 雨音が遠い。

 胸の中だけが、やけにうるさかった。


 嘘をつかれた。

 裏切られた。


 そう思った。


 でも、本当にそれだけだろうか。


 僕は知っていた。


 転校してきたあの日から、彼女の周りには黄色があった。

 メロンパンを食べていた昼休みも。

 名前で呼び合った朝も。

 言葉を信じられへん時期があったと話してくれた、あの時も。


 僕は何度も見ていた。


 見ていたのに、聞かなかった。


 聞けば、同じじゃなくなるから。

 聞けば、僕の安心が壊れるから。


 僕は彼女の嘘を責めながら、自分もまた、その嘘に寄りかかっていたのだ。


「……最悪だ」


 誰に向けた言葉なのか分からなかった。


 彼女にか。自分にか。

 それとも、心が読めることを当たり前にしたこの世界にか。


 分かりあえないと決めたのは、僕だった。

 この世界は孤独だと決めたのも、僕だった。 

 初めてできた友達を手放そうとしているのも……。

 

  そして、誰よりも言葉を欲しがったのは、自分の方だった。


 だからこそ、同じだと思っていた絵美が、とても眩しく見えたのかもしれない。 


 足音が聞こえた。


 階段の下から、ゆっくり近づいてくる。

 絵美だった。


 彼女は僕から三段ほど下で止まった。

 近づきすぎず、けれど逃がさないような、絶妙な距離。


「ここにおると思った」


 彼女が言った。


「読んだの?」


 僕は冷たく返した。

 絵美は首を横に振る。


「読んでへん。……いや、正確には、読まんようにしてるんよ」


「そんなことできるの?」


「完全には無理。でも、耳を塞ぐみたいに、ぼんやりさせることはできる」


 彼女はそこで一度、言葉を切った。


「ここにおると思ったのは、音や。春樹くん、怒ってるとき、足音が軽くなるんよ。逃げたいときの音になる」


 僕は何も言わなかった。


 そんなことまで分かるのかと思った。

 同時に、そんなことまで聞いてくれていたのかとも思った。


 それが腹立たしかった。

 少しだけ、嬉しくもあった。

 そんな自分が嫌だった。


「座ってもええ?」


 僕は答えなかった。

 絵美は少し待ってから、階段の端に腰を下ろした。

 僕とは、手を伸ばしても届かないくらい離れていた。


「ごめん」


 彼女はぽつりと零した。


「嘘ついて、ごめん」


 僕は黙っていた。


「言い訳に聞こえると思うけど、言わせてほしいねん」


「心を読めるなら、言わなくてもいいんじゃないの」


 自分でも嫌になるくらい、棘のある言い方だった。

 絵美の視線が揺らいだ。


「そう思ってた時期もあった」


 雨音が強くなった。

 外の光が雨粒に乱反射し、踊り場を青白く照らしている。


「心が読めるって、便利やと思うやろ」


「思うよ」


「うん。みんなそう言う。相手の気持ちが分かったら、傷つけへんで済む。嘘を見抜ける。嫌われる前に距離を取れる。失敗せんで済む」


 彼女の声は、どこか遠い。


「でも、読めるもんって、きれいなもんばっかりやないねん」


 僕は彼女を見た。


「優しい言葉の奥にある面倒くささも、笑顔の裏の退屈も、大丈夫って言いながら全然大丈夫じゃないことも、全部、勝手に入ってくるんや」


 絵美のオーラに、青が濃く滲む。


「小さいころ、お母さんに言われたことがある。絵美は賢いねって。でも心の中では、『この子は怖い』って思ってた」


 僕は息を呑んだ。


「友達に、ずっと一緒にいようねって言われた。でも心の中では、『絵美ちゃんといると疲れる』って聞こえた」


 彼女は笑おうとした。

 けれど、うまく笑えなかった。


「言葉って、嘘をつくやん。心のほうが本物みたいに思えるやん。だから昔のうちは、言葉を信じられへんかった。どんな優しい言葉も、その裏側ばっかり探してたんや」


「……じゃあ、どうして今は言葉を大事にするの」


「心も、嘘つくから」


 絵美は真っ直ぐに、僕を見つめて言った。

 その言葉は、雨音よりも強く僕の鼓膜を叩いた。


「心は嘘つかへんって言うけど、うちは逆やと思う。心って、一瞬の感情に流される嘘つきなんよ」


 絵美は両手をぎゅっと握りしめた。


「怒りも、嫉妬も、面倒くささも、その瞬間は本物なんやと思う。でも、それがその人の全部やない。うちはそれを勝手に読んで、勝手に傷ついて、勝手に決めつけてた」


 コンクリートの冷たい空気に、湿った雨の匂いが混じる。


「せやから、言葉を聞きたかった。心に何が浮かんでも、その人が最後に何を選んで口にするんか。そこを、信じてみたかったんよ」


 僕は何も言えなかった。


 心が読めるから、みんな分かり合えているのだと思っていた。

 けれど本当は、分かったつもりになるのが、少しだけ早いだけだったのかもしれない。


 この世界も、僕と同じくらい不器用だ。


「春樹くんと初めて会った日」


 絵美が続けた。


「黒板の前に立ったとき、聞こえたんよ」


 胸の奥で、薄い氷が割れるような嫌な音がした。


 僕にできないのは、読むことだけだ。

 僕の中に浮かんだものが、誰にも届かないわけじゃない。


 僕だけが相手の声を受け取れないまま、こちらの内側だけは相手に触れられてしまう。

 その不公平さを、僕はずっと見ないふりをしてきた。


「何が」


「春樹くんの心」


 やめてほしいと思った。

 けれど同時に、剥き出しの自分を誰かに見つけてほしくもあった。


「僕だけが欠けているって」


 喉の奥が、ぎゅっと熱くなる。


「誰か一人くらい、同じ人がいればいいのにって」


 そんなことを、僕は思っていたのか。


 いや、思っていた。

 ずっと、言葉にならない澱のように、腹の底に溜まっていた熱。


「それを聞いたとき、嘘をついた」


 絵美の声が、湿り気を帯びて震えた。


「うちも読めへんって言えば、春樹くんが少し楽になるかもしれんと思った。最低やな。助けたかったんは嘘やない。でも、それだけやなかった」


「……なんで」


 僕はようやく、肺に残った空気を絞り出した。


「なんで、僕だったの」


 絵美は顔を上げた。


「春樹くんの心の声が、あまりにも痛かったから」


「痛い?」


「そう。自分を欠陥品やと思って、誰にも届かへん場所で震えてる。その声を聞いたとき、うちは……初めて、言葉を信じてみたいと思ったんよ」


 僕は眉を寄せる。


「僕、絵美に嫉妬してたよ。堂々としてて、ずるいって思った。心が読めないのに平気そうで、腹が立ったんだ」


「聞こえてたよ」


 彼女は静かに、けれど逃げずに言った。


「でも、それだけやなかった。春樹くんは、ずるいって思いながら、うちが笑ったら安心してた。嘘かもしれんって思いながら、それでも信じたいって願ってた」


 彼女は、困ったように少しだけ笑う。


「人の心って、ひとつやないねん。嫌いと好きが、同じ熱で混ざり合ってる。怒りと寂しさが、境界線もなく溶け合ってる。信じたい気持ちと、疑う気持ちが、同じ場所で呼吸してるんよ」


 その言葉は、僕の目に映る色の話によく似ていた。


 赤いから、怒り。

 青いから、悲しみ。

 黄色いから、嘘。


 そんなふうに記号のように決めつけて、僕は何度も、彼女の本当の輪郭を見失ってきた。

 聞こえてしまう彼女も、同じだったのだろうか。

 溢れてくるからこそ、何かにすがり、決めつけずにはいられなかったのだろうか。


「僕は」


 声がかすれた。


「嘘をつかれたのが、嫌だった」


「うん」


「でも、それだけじゃない」


 絵美は、降る雨の音を聴くような静けさで僕を見ていた。


「僕も、聞かなかった。黄色が見えてたのに、聞こうとしなかった。絵美が僕と同じじゃないかもしれないって、本当は気づいてた。でも、気づきたくなかった」


 口にして初めて、それが僕の本音なのだと突きつけられる。


「僕は、絵美を見てたつもりだった。でもたぶん、見てなかった。僕と同じでいてくれる絵美だけを、勝手に欲しがってたんだと思う」


 言葉にすると、胸が痛んだ。

 でも、言わないで抱えていたときより、少しだけ息がしやすかった。


 それがまた、嫌だった。


 絵美は首を横に振らなかった。

 ただ、祈るように言った。


「春樹くんがいてくれたら、うちも楽になれる気がしたんやもん」


「絵美が?」


「うん。春樹くんと一緒におったら、心を読まずに、言葉を聞く練習ができる気がしてん。読めてしまうもんやなくて、ちゃんと届いた言葉を信じられる自分になれる気がしたんよ」



 彼女はまっすぐに僕を見た。

 その瞳は、もうどこにも逃げていなかった。


「言い方、ひどいけど」


 絵美は少しだけ息を吸った。


「でも、ちゃんと言わなあかんと思う」


 雨音が、踊り場の奥で細かく爆ぜた。


「それって、ずるいよな」


 きつい言葉だった。

 けれど彼女は、それを剥き出しのまま放った。

 自分に都合のいい、やわらかい言い方を選ばずに。


 僕は、彼女のオーラを透かし見る。

 黄色はまだ、そこにある。

 けれど、それだけではなかった。


 青もある。白もある。桃色もある。震えるような灰色もある。

 幾重にも重なった色が、複雑な心境を描いて揺れているようだった。


 ひとつの色だけで、彼女を決めつけることなんてできない。


 それだけは、今の僕にも分かった。


「絵美」


 僕は言った。


「心を読まないでって言ったら、できるだけそうしてくれる?」


「する」


「できなかったら、できなかったって言って」


「言う」


「嘘をついたら、僕はたぶん、すごく怒る」


「うん」


「でも、僕も聞く。見えた色だけで決めつけないようにする。黄色が見えたら、嘘だって決める前に、何を言えずにいるのかをちゃんと聞くよ」


 絵美の目が、雨に濡れた硝子みたいに、少しだけ揺れた。


「うん」


「それから」


 僕は大きく息を吸った。

 言葉は、いつだって怖い。

 けれど、怖いままでも踏み出さなければ、永遠に届かない場所がある。


「僕は……まだ怒ってる。すぐには許せない」


「うん」


「でも、君の声は、ちゃんと届いた。話したいとは思ってるんだ」


 絵美のオーラが、小さく震えた。

 それは桃色に近い、やわらかな光の色だった。


「ありがとう」


 彼女は言った。


「心で思うだけやなくて、声にしてくれて、ありがとう」


 その言葉に、僕は泣きそうになった。

 でも、泣かなかった。


 窓の外の雨が、僕の代わりに泣いてくれているような気がした。


「よろしく、絵美。……今度は、ちゃんと聞く」


 彼女は、泣きそうな顔で頷いた。


「うん。うちも、ちゃんと言う」


 雨音が、踊り場の奥でまだ震えていた。


 何も解決していない。


 怒りも、痛みも、嘘も、黄色も、まだそこにある。

 それでも、彼女の声だけは、僕のところまで届いていた。


 

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