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第4話 それでも、声は響く

 

 その日の昼休み、僕たちは教室には戻らなかった。


 雨はまだ降っていた。

 踊り場の小さな窓を、細い雨粒が斜めに流れていく。

 さっきまで僕たちの間にあった怒りも、謝罪も、言いそびれた言葉も、階段の冷たい空気の中にまだ残っている気がした。


 近づきすぎない。でも、離れきるわけでもない。

 そんな、どこか不自由な距離で、僕たちは弁当を広げていた。


 ひどく、気まずかった。


 正直、何を話せばいいのか分からなかった。

 口を開けば、また間違える気がした。

 黙っていれば、それはそれで、何かをなかったことにしている気がした。


 箸の先で、白米を少し崩す。

 プラスチックの弁当箱に、こつ、と小さな音が響いた。

 その音だけが、妙にはっきり聞こえた。


「……卵焼き、甘い派?」


 唐突に、絵美が沈黙を破った。

 僕は、その唐突さに思わず顔を上げた。


「……急に何?」


「こういう時こそ、どーでもええ話がいるやろ?」


 絵美は、自分の弁当の卵焼きを箸でつついていた。

 黄色い断面が、雨の薄暗い光の中で、少しだけ柔らかく見えた。


「心で済ませたら一秒のことを、わざわざ喋る。無駄やけど、たぶん今のうちらにはそういうのが必要なんよ」


「……甘い派だよ」


「一緒や。よかった。味覚の不一致で解散せんで済んだわ」


「解散する予定だったの?」


「今のところ保留やな」


 絵美は、ふっと小さく笑った。


 その笑い方は、僕の知っている彼女のものとは少し違っていた。

 強がっていないし、堂々ともしていない。

 ただ、不器用で、少しだけ心細そうな笑い方だった。


 僕は卵焼きをひとつ口に入れた。

 甘かった。

 いつもより少しだけ、喉を通るのに時間がかかった。


「……絵美」


「ん?」


「今の、ちょっと黄色かった」


 彼女の箸が止まる。


 僕も、少しだけ息を止めた。

 言ってから、心臓が遅れて跳ねる。


 けれど絵美は、逃げなかった。


「うん」


 彼女は小さく頷いた。


「解散せんで済んだ、はほんま。でも、保留って言うたんは……ちょっと怖かったからやと思う」


「怖い?」


「うん。春樹くんが、ほんまはまだ怒ってるって分かってるから」


「怒ってるよ」


「うん」


「でも、弁当は一緒に食べてる」


「そこ、だいぶ大事やな」


「だいぶ?」


「めちゃくちゃ大事」


 絵美は、今度はほんの少しだけ、笑った。


 僕も笑いそうになった。

 でも、まだ笑いきれなかった。


 それでいいのだと思った。

 たぶん、今は。


 雨音が、踊り場の窓を細かく叩いている。


 絵美にとっては、心を読めば一瞬で分かることなのかもしれない。

 僕も色を見れば、何かを知った気になれるのかもしれない。


 それでも僕たちは、卵焼きが甘いかどうかなんていう、どうでもいい話から始めるしかなかった。


 どうでもいい話だった。

 けれど、そのどうでもよさに、少しだけ救われていた。


 ◇ ◇ ◇


 あれから数日が過ぎた。


 僕たちの関係は、完全に元通りになったわけじゃない。

 けれど、悪くなっただけでもなかった。


 むしろ、以前よりも少し不便になった。

 絵美はときどき、僕に白状するようになった。


「今、ちょっと聞こえた。……春樹くん、うちのこと『今日もうるさいな』って思ったやろ?」


「……ごめん。つい」


「ひっどいなあ。まあ、聞こえてまうもんはしゃあない。でも、今みたいに謝ってくれたら、そっちを信じる」


 僕も、言葉を返した。


「今、黄色が見えた。……何か、言いにくいことある?」


「……今日の小テスト、春樹くんより点数よかった。自慢っぽくなるかなと思って」


「それは普通にショックだけど、隠される方がもっとモヤモヤする」


「ほな、次から堂々と自慢するわ。覚悟しとき」


「それはそれで腹立つな」


「難しいなあ、人間関係」


 本当に難しかった。


 心を読めば、一瞬で済むこと。

 色を見れば、分かったふりができること。


 それを、僕たちはわざわざ不器用な言葉に乗せた。

 間違えて、訂正して、たまに傷つけて、謝って。

 そんな、どうでもいい遠回りを僕たちは繰り返した。


 亀みたいに遅い。

 けれど、ちゃんと進んでいる気がした。



 ◇ ◇ ◇


 

 ある放課後、僕たちは音楽室にいた。


 雨はいつのまにか上がっていた。

 雲の切れ間から、粒子みたいな光が射し込んでいる。

 湿った空気の中で、埃がきらきらと踊っていた。


 絵美がピアノの前に座り、鍵盤にそっと指を置いた。

 短い音が、午後の静寂に波紋を作った。


「この音、どう思う?」


「どうって……きれいだと思う」


「うん。でも、少しずれてる」


「ずれてる?」


「調律が甘いねん。ほんの少しだけ」


 僕には分からなかった。

 どれだけ耳を澄ませても、ただ美しい響きにしか聞こえない。


 絵美は、鍵盤を見つめたまま、少し笑った。


「分からへんやろ」


「うん」


「うちは、音が分かる。でも、春樹くんには春樹くんにしか見えへん世界の色がある」


「だから、補い合えるってこと?」


 僕が言うと、絵美は鍵盤を指先でなぞりながら、少しだけ考えた。


「うーん。補い合う、も近いけどな」


 彼女はもう一度、低い音の鍵盤を押した。

 音が床を伝って、僕の足元まで届く。


「欠けてるとこを埋めて、ぴったり丸にするんとは、ちょっと違う気がする」


「違う?」


「うん。ずれてるから鳴る音もあるやん。きれいに揃ってへんから、長く残る響きもあるっていうか」


 絵美は、不意に我に返ったように、少し照れたように笑った。


「……今の、うち、めっちゃええこと言ったと思わん?」


「自分で言わなければ、そうだったかも」


「あー、今のなし。今のキャンセル!」


 その声が、雨上がりの音楽室に軽やかに跳ねた。


 僕は彼女の横顔越しに、そのオーラを見た。

 淡い白。静かな青。やわらかな桃色。

 そして、淡雪のような、ほんの少しの黄色。


 もうそれを、嘘という言葉で片付けたりはしない。

 それはきっと、言葉を探している色だ。

 迷いながら、それでも何かを届けようとあがいている色だ。


「僕はずっと、心が読めたら完璧に分かり合えると思ってた」


「うちは、心なんか読めへんかったら、もっと楽に生きられると思ってたわ」


「でも、違ったんだな」


「うん」


 僕たちは、窓の外に広がる柔らかな光を見つめて、少しだけ笑い合った。


 心が読めても、届かないことがある。

 心が読めなくても、相手に届くものがある。


 僕が言葉にする前の沈黙を受け取るように、絵美が続きを繋いだ。


「春樹くん」


「何?」


「うち、まだ嘘つくかもしれん。自分を守るために、また黄色を出してしまうかもしれん」


「……最悪な宣言だな」


「でも、ついたら言う。できるだけ、ちゃんと。……春樹くんは?」


「僕も、また決めつけると思う。色だけ見て、勝手に絶望したりするかもしれない」


「うん」


「でも、そのたびに聞くよ。絵美の声を聞くまで、諦めないようにする」


 絵美の色が、ふわりと揺れた。

 それは何色とも言えない、いくつもの色が重なり合った光だった。


 僕たちは、完璧にはなれない。

 きっとこれからも、正解より失敗のほうを多く積み上げていく。


 言いすぎたり、言えなかったり、分かったふりをして誰かを傷つけたり。


 それでも、僕たちは言葉を探す。

 黙って分かったふりをするよりは、ずっとマシだと思えるから。


 窓の外では、雨上がりの光が揺れていた。

 水たまりに反射した世界が、絵美の横顔に柔らかな色を重ねる。


 その色は決して一つではなかった。

 僕はもう、それを一色に決めつけようとは思わなかった。


 見る角度が変われば、世界の色も変わる。

 それはまだ少し怖いけれど、その怖さごと、僕はこの世界を見てみたいと思った。


「帰ろうか」


「うん」


 たった一音が、鼓膜を震わせる。

 それだけのことが、今は少しだけ嬉しかった。


 僕たちは並んで音楽室を出た。


 不揃いな二人の足音が、放課後の廊下に響く。

 教室の前を通りかかると、前の席の男子がこちらを見た。


「菊田ー。次のプリント、後ろ回しといて」


 あの絵美との喧嘩から、クラスの空気も少しずつ変わっていった。


 普段ならば、無言で視線だけを送り、手渡されて一秒で終わることだった。

 それでも彼は、わざわざ喉を使って、僕に言葉を届けてくれた。


 彼のまわりには、気まずさの灰色と、ほんの少しの桃色が混じっている。


 たぶん、照れ隠しだ。

 それから、ほんの数ミリの歩み寄り。


 でも、正解かどうかは分からない。

 だから僕は、声に出した。


「うん。ありがとう、加藤くん!」


 加藤くんは、少しだけ目を丸くしたあと、照れくさそうに鼻の頭を掻いた。

 その横で、絵美がくすりと声を鳴らす。


 世界は今日も不器用に、けれど確かに、音を立てて巡っていく。

 隣を歩く絵美の歩幅に、自分のそれを重ねる。


 言葉にしなければ届かない。

 言葉にしたところで、全部は伝わらない。


 それでも僕たちは、声を選ぶことをやめない。


 間違えて、傷ついて、何度も言い直しながら。


 欠けたままの僕らの世界で、その声だけが、たしかに響いていた。


 廊下の窓に残った雫が、レンズのように光を集めている。


 遠くで、誰かの笑い声がした。

 濡れた校庭の水たまりに、欠けた空が、いくつも光っていた。


【カクヨム 自主企画参加作品】


『VOICE ―欠けた僕らの世界―』


全4話、無事に書き終えました。

これで完結になります!


欠けているからこそ、言葉を交わす。

そんな二人のお話でした。


企画主様、素敵なお題をありがとうございましたm(__)m


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