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第2話「聞こえない声、届く言葉」


 

 武内絵美は、よく喋る人だった。


 朝、教室の扉を開けて、誰かに挨拶をするとき。

 授業中、不意に先生から名前を呼ばれたとき。

 昼休み、隣の席の子に消しゴムを拾ってあげるとき。


 彼女は必ず、声を使った。


「おはよう!」

「そこ、落ちてるで」

「今の先生の説明、分かった人おる? うち、半分くらい置いてかれたわ」


 たったそれだけのことなのに、彼女は教室で少しだけ浮いて見えた。

 この世界では、必要なことのほとんどが心で完結してしまう。

 声は、必要なときだけ引き出しから出される、少し古びた道具みたいなものだった。


 けれど僕には、その浮き方がひどく眩しく見えた。


「武内さんってさ」


 昼休み、購買のパンの甘い匂いが漂う中、僕は尋ねた。


「なんでそんなに、声に出すの? 疲れない?」

 

 彼女はメロンパンを両手で持ったまま、きょとんと僕を見つめる。


「え、うち、そんなうるさい?」


「うるさいっていうか……この世界だと珍しいと思う」


「ああ、まあ、そうやね」


 彼女は小さく笑って、袋をかさかさと鳴らした。


「うちな、言葉には形があると思ってるねん」


「形?」


「うん。自分の気持ちって、すぐ形変えてまうやろ。嫌いやって思った次の瞬間、ほんまは寂しかっただけやって気づいたりするやん」


 彼女がパンをひとかけちぎると、甘い香りがふわりと揺れた。


「でも、声に出した言葉は、一回外に出るやん。誰かの耳に届いたら、もうなかったことにはできへん」


「怖くないの?」


「怖いよ」


 彼女は、あっさり言った。


「でも、怖いから、ちゃんと選ぶんやと思う」

 

 彼女の声は、昼休みのざわめきの中でも、妙にはっきり届いた。

 

 心に直接流れ込んでくる侵食のような感覚とは違った。

 空気を震わせ、僕の鼓膜を叩き、ゆっくりと胸に落ちてくる。

 

 僕にとって言葉は、頼らざるを得ない杖のようなものだった。

 けれど、彼女にとっての言葉は、大切に包んで手渡すものみたいだった。


「春樹くんは? 言葉、嫌い?」


 思いがけない問いだった。

 僕を、欠陥品と呼んだのも、言葉だった。

 僕を笑い、透明な壁の向こうに追いやったのも、言葉だった。


「気にしすぎだよ」と軽く流されたのも。

「かわいそう」と勝手に決めつけられたのも。

 

 その全部が、言葉だった。


 けれど。


「……嫌いじゃない」


 僕は、自分の指先を見つめながら言った。


「ただ、怖いだけだと思う」


 彼女は、まっすぐ僕の目を見て、軽く微笑んだ。


「そっか」


 それだけだった。


 『分かるよ』なんて安易な同情も、『大丈夫』という無責任な励ましもない。

 ただ、その短い返事が、僕の強張った肩を少しだけ解いた。

 

「春樹くん」


「何?」


「春樹くんの声、けっこう好きやで」


 不意を突かれて、飲みかけていた紙パックのジュースにむせた。


「……いきなり、何?」


「思ったから言うたんや。心で思ってるだけやったら、春樹くんには届かへんやろ?」


「いや、普通は言わないだろ」


「普通って誰が決めたん?」


 彼女はメロンパンの端を口に運びながら、平然と言った。


「春樹くんの声って、なんか名前に合ってるねん。春の陽だまりみたいで、ぽかぽかしてる」

 

「ぽかぽか?」


「うん。ぽかぽか」

  

「それ、褒めてる?」


「めちゃくちゃ褒めてる」


「分かりにくいな」


「じゃあ、分かりやすく言うわ。春樹くんの声、うちは好きやで」


 彼女はそう言って笑った。

 その笑顔のまわりに、淡い桃色が広がる。

 けれど、その奥にほんの少し、濁った黄色が揺れた。


 嘘の色、だと思った。


 いつもの僕なら、そこで心を閉ざしていただろう。

 けれど、彼女がわざわざ「声」を選んで届けてくれたことが、僕の疑念を押し留めた。

 

 だから、聞けなかった。

 聞いてしまえば、この人を信じたいと思っている自分まで、嘘になる気がした。

 だから僕は、笑うことも、怒ることもできないまま、視線だけを窓の外へ逃がした。

 

 外では、白い雲がゆっくり形を変えていた。

 あんなふうに、見なかったことにしたものも、どこかへ流れて消えてくれたらいいのに。

 けれど、黄色は消えなかった。


 彼女の笑顔の奥で、ほんの少しだけ揺れたまま、僕の中に残り続けた。

 

「春樹くんってさ、人の色が見えてたりする?」


 不意に言われて、僕は紙パックのストローから口を離した。


「なんで」


「いや、めっちゃ見るやん」


「見る?」


「人の顔っていうより、その周り。視線の置き方が、ちょっと変わってるなあって」


 その言い方は、少しだけ強引だった。

 けれど、聞き返す勇気もなかった。


 実際、僕はいつも見ている。

 見すぎてしまうくらいに。

 

「……うん。見えるよ」


「どんな感じなん?」

 

「人によって違うし、気分でも変わる。怒っている人は赤で、悲しい人は青が多い。嘘をついているときは……黄色く見える」


「へえ」


「……でも、本当は、それも正解じゃないんだ」


 自分の言葉に、喉の奥が詰まる。


「嘘なのか、隠し事なのか、言えないだけなのか。僕には、全部が同じ黄色に見えてしまう。だから、いつも間違える」


 彼女は、一度だけ瞬きをした。

 まつ毛の先で光が跳ね、ほんの一瞬の揺らぎを、僕は見逃せなかった。


「便利やな」


 彼女がぽつりと呟く。

 その言葉に、僕は強く首を振った。


「便利なんかじゃないよ」


 自分でも驚くほど、硬い声が出た。


「赤く見えたから怒ってるんだと思ったら、違ったことがある。青いから悲しいんだと思ったら、それも違った。見えるのに、僕には分からないんだ」


 そこまで言って、喉がつかえた。


 昼休みの教室は、相変わらず静かで、騒がしかった。

 

 誰かが笑っている。

 誰かが心の中だけで返事をしている。

 

 けれど僕の耳に届くのは、彼女がメロンパンの袋を小さく丸める、かさ、という音だけだった。


「間違えるんは、悪いことなんかな」


 やがて、彼女が静かに口を開いた。


「え?」

 

「傷つけたら謝らなあかんし、勝手に決めつけるのもあかん。でも、間違えること自体は、そんなに悪いことちゃうと思うよ」

 

「……そうなのかな」


「うん。分からへんから、聞くんやろ?」


 その言葉に、胸の奥が小さく震えた。


「分かってたら、聞かへん。聞かへんかったら、言葉はいらん。言葉がいらん世界って、便利かもしれへんけど、それってちょっと寂しいやん」


「……寂しい?」


「うん」


 彼女は丸めかけたメロンパンの袋を、指先でそっと押さえた。

 

「ありがとうも、ごめんも、好きも、嫌やも、助けても。言わんでも伝わるからって、言わんでええことにはならへんと思う」


 僕は彼女を見つめた。

 青が滲んでいる。

 でも、それが悲しみなのか、諦めなのか、あるいはもっと深い記憶の色なのかは、僕にはまだ分からない。


「春樹くん」


「何?」


「絵美でええよ」


「……絵美」


 初めて口にするその名前は、予想していたよりもずっと近かった。

 彼女は満足そうに目を細める。


「うん」


「絵美は、どうしてそこまで言葉にこだわるの?」


 何気なく聞いたつもりだった。

 けれど、絵美の指が止まった。


 青が滲んだ。

 その奥で、黄色が糸みたいに震えていた。


「……昔、な」


 さっきまで軽かった声が、少しだけ遠くなる。


「うち、言葉を信じられへん時期があったんよ」


「どうして?」


 そう聞きかけて、僕は口を閉じた。


 絵美の指先が、丸めかけた袋の上でほんの少し固まっていた。

 それを見た瞬間、踏み込んではいけない境目に立たされている気がした。

 

 絵美も、それ以上は言わなかった。


 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。

 教室中に、椅子を引く音と、机の脚が床を擦る音が戻ってくる。


 「……次、移動教室やっけ」


「うん。たぶん」


「たぶんて」


 絵美は少しだけ笑った。

 でもその笑い方は、さっきよりほんの少しだけ、透き通っていた。


 僕は、その理由を聞かなかった。

 


 ◇ ◇ ◇


 その夜、自室のカーテンを、雨になりきれない湿った風が揺らしていた。

 机に向かっても、絵美の声だけが、耳の奥で微かな熱を持って残り続けていた。


 ——分からへんから、聞くんやろ。

 

 僕はノートを開いた。

 宿題はさっぱり進まない。シャーペンの先だけが、白いページの上で迷子になったまま止まっている。


 しばらく迷ってから、ページの端っこに小さく書いた。

 

 ——僕は、欠けている。


 その文字は、自分で思っていたよりずっと弱々しかった。

 消そうとして指が動いたけれど、結局消せなかった。


 消したら、少し楽になる気がした。

 でも、消してしまったら、今日、絵美がくれた言葉までなかったことになる気がした。

 

 少しだけ間を空けて、その下にもう一行、書き足す。


 ――だから、誰かの声を聞けるのかもしれない。


 出来る、とはまだ書けなかった。

 その曖昧な言葉だけが、今の僕には精一杯だった。

 

 歪な文字だった。

 けれどその歪さが、今夜だけは、少しだけ自分に似ている気がした。


 ◇ ◇ ◇

 

 翌朝、教室の扉を開けると、彼女はもういつもの場所に座っていた。

 窓から差し込む朝の光が、彼女の肩を白く透かしている。

 

「おはよう、春樹くん」


「おはよう、絵美」


 昨日までとは違う、自分の素直な声が耳に届く。

 

 彼女は嬉しそうに笑った。

 その輪郭を、柔らかな桃色の輝きが揺らしている。

 けれどその奥には、やはりまだ、拭いきれない黄色が潜んでいた。


 僕は、どうしても問いかけることができなかった。

 

 その黄色の正体を。

 絵美が本当に、僕と同じ欠け方をしているのかという疑念を。


 聞かなければ、嘘は嘘にならない。

 ずっと、そうやって自分を守ってきたつもりだった。

 

 でも、聞かなかった言葉は消えない。

 喉の奥に残り、飲み込んだはずなのに、何度も同じ場所で引っかかる。

 

 絵美の「おはよう」が、すぐ隣で響いている。


 僕は「おはよう」と返した。

 ちゃんと声にできた。

 それなのに、本当に言いたいことだけは、今日も声にならなかった。


 教室の白い光の中で、彼女の黄色だけが、静かに揺れていた。


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