第7話 森の館
木々のざわめきが、静かに耳へ届く。
人間界の森は、天界とはまるで違っていた。
風がある。
土の匂いがある。
葉が擦れ合う音がある。
生き物たちの気配が、あちこちに満ちている。
アリッサはぼんやりとその音を聞きながら、レオンハルトの腕の中で目を閉じていた。
身体が熱い。
頭がふわふわする。
けれど、不思議と怖くはなかった。
レオンハルトがいるからだろうか。
規則正しい足音と、胸越しに伝わる鼓動が、妙に安心した。
「……眠いか」
低い声が降ってくる。
アリッサはうっすら目を開けた。
「ちょっと……」
「無理に起きてなくていい」
「でも重い……」
「軽い」
即答だった。
アリッサは少しむっとする。
「それ、女の子に失礼」
「事実だ」
「……ひどい」
レオンハルトは小さく笑った。
その振動が近くで伝わってくる。
アリッサはなんだか悔しくなって、顔を逸らした。
けれど、本気で嫌なわけではない。
むしろ、こうして軽口を言い合えることが嬉しかった。
出会った時、自分は白い巨塔の列に並んでいた。
何も分からなくて、怖くて、寒かった。
それなのに今は、知らない森の中で、知らない男の人に抱えられているのに、少し安心している。
変なの、とアリッサは思う。
「……レオンハルト」
「なんだ」
「どうしてそんなに優しいの」
彼の足がわずかに止まった。
「優しいか?」
「うん」
「別に普通だ」
「普通じゃないと思う」
アリッサがそう言うと、レオンハルトは少しだけ困ったような顔をした。
「君は基準がおかしい」
「え?」
「そんな状態で死の塔に並んでた奴の“普通”は信用できない」
「う……」
言い返せない。
レオンハルトは小さく息を吐く。
「俺はただ、放っておけなかっただけだ」
「……」
「それに」
彼は少しだけ視線を逸らした。
「君、危なっかしい」
「そんなに?」
「かなり」
即答され、アリッサはまた頬を膨らませた。
その時だった。
森の奥に、大きな建物が見えてくる。
石造りの館だった。
深い森に囲まれた古い屋敷。
けれど荒れてはいない。
窓には灯りがあり、庭も綺麗に整えられていた。
「ここ……?」
「一時的な隠れ家だ」
レオンハルトは館の前で足を止める。
次の瞬間。
玄関の扉が勢いよく開いた。
「レオンハルト様!」
明るい茶髪の青年が慌てた様子で駆け込んできた。
二十代半ばくらいだろうか。
整った顔立ちをしているが、今はかなり慌てていた。
「ご無事ですか!? 天界が騒ぎになっていると――」
そこまで言って、青年の視線がアリッサへ向く。
ぴたり、と動きが止まった。
「……え」
数秒の沈黙。
それから彼は、ものすごく真顔で言った。
「レオンハルト様」
「なんだ」
「ついに誘拐まで始めたんですか?」
「違う」
即答だった。
アリッサは目をぱちぱちさせる。
青年は疑わしそうな顔をしていた。
「本当に?」
「本当にだ」
「でも女の子抱えて帰ってきてますよ?」
「事情がある」
「毎回そう言いますよね」
「今回は本当に事情がある」
「今回は?」
アリッサは思わず吹き出しそうになった。
レオンハルトが微妙に嫌そうな顔をする。
「コンラート」
「はい」
「余計なことを言うな」
「はぁ……」
コンラートと呼ばれた青年は、改めてアリッサを見る。
その視線は警戒というより、観察に近かった。
だがすぐに表情を和らげる。
「怖がらなくて大丈夫ですよ」
彼は柔らかく笑った。
「俺はコンラート。レオンハルト様の侍従兼、幼馴染です」
「……アリッサ」
「可愛い名前ですね」
さらっと言われ、アリッサは少し戸惑う。
レオンハルトとはまた違うタイプだ。
話しやすそうというか、人懐っこい。
「立ち話はあとだ」
レオンハルトが言う。
「アリッサの熱が高い」
その瞬間、コンラートの顔色が変わった。
「え!? 大丈夫ですか!?」
「境界越えの反動だと思う」
「すぐ部屋を用意します!」
コンラートは慌てて館の中へ駆け込んでいく。
その背を見送りながら、アリッサは小さく呟いた。
「……賑やかな人」
「うるさいだろ」
「ちょっとだけ」
レオンハルトが苦笑する。
「だが悪い奴じゃない」
「うん。なんとなく分かる」
館の中へ入る。
暖炉の熱。
木の匂い。
柔らかな灯り。
天界とは違う温かさがあった。
アリッサは少しだけ目を丸くする。
「……あったかい」
「寒かったのか?」
「分かんない。でも、なんか落ち着く」
レオンハルトはその言葉に静かに目を細めた。
人間界の空気は、アリッサによく馴染んでいる。
それが彼には少し気になった。
やはり彼女は、ただの天界人ではない。
その時。
奥から足音が聞こえる。
「レオン様!」
今度は年配の女性だった。
白髪混じりの髪を綺麗にまとめた、上品な老婦人。
彼女はアリッサを見るなり、目を見開いた。
「あらまあ……!」
次の瞬間。
「なんて可愛い子でしょう!」
アリッサはびくっとした。
老婦人は勢いよく近づいてくる。
「お名前は? お歳は? お腹は空いていませんか!?」
「サラ、落ち着け」
「落ち着いていられますか! レオン様が女の子を連れて帰ってくるなんて初めてですよ!?」
「語弊がある」
「ありません!」
アリッサは目をぱちぱちさせた。
レオンハルトは少し疲れた顔をしている。
「……いつもこんな感じなの?」
小声で尋ねると、レオンハルトは遠い目をした。
「まあな」
アリッサは思わずくすっと笑った。
するとサラが、はっとしたように目を輝かせる。
「笑った!」
「え?」
「レオン様! この子笑うともっと可愛いです!」
「聞こえてる」
「黒髪も素敵だわぁ……細いし、ちゃんと食べさせないと……!」
アリッサは圧倒される。
けれど、不思議と嫌じゃなかった。
サラの声には、純粋な優しさがある。
まるで本当に心配してくれているみたいに。
「……アリッサ」
レオンハルトが静かに名前を呼ぶ。
見ると、彼は少しだけ真面目な顔をしていた。
「ここなら安全だ」
その声は穏やかだった。
「しばらく休め」
アリッサはゆっくり周囲を見回した。
暖かな館。
騒がしいコンラート。
優しいサラ。
そして、まっすぐ自分を見るレオンハルト。
知らない場所。
知らない人たち。
それなのに。
胸の奥にあった冷たい空洞が、ほんの少し埋まった気がした。
「……うん」
アリッサは小さく頷いた。
その返事を聞いて、レオンハルトはようやく少しだけ肩の力を抜いた。
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