第6話 境界門
天界の空は、どこまでも静かだった。
白い雲がゆっくり流れ、風は穏やかで、街には争いの気配ひとつない。
なのに、アリッサの胸の中だけが騒がしかった。
――逃げて。
頭の奥で聞こえた女の声。
優しくて、泣きそうで、懐かしい声。
思い出そうとすると、胸が締めつけられる。
「……お母さん」
無意識に呟く。
けれど、顔も思い出せない。
声だけだ。
ぼんやりと、霧の向こうから聞こえてくるみたいに。
「無理に思い出さなくていい」
隣を歩くレオンハルトが静かに言った。
「記憶は急に戻そうとすると、負担になることがある」
「でも……」
「焦るな」
その声は落ち着いていた。
急かさない声。
責めない声。
アリッサは少しだけ肩の力を抜いた。
二人は細い石畳の道を進んでいく。
街並みは少しずつ古くなり、白い建物も減ってきていた。
代わりに、灰色の石壁や、蔦の絡まる古い遺跡のような建物が増えていく。
「ここ……天界なのに、ちょっと違う」
アリッサが辺りを見回すと、レオンハルトは頷いた。
「境界に近い場所だからな」
「境界……」
「世界と世界の狭間だ」
彼は歩きながら続ける。
「天界、人間界、魔界。その三つの世界は、完全に離れて存在しているわけじゃない」
「そうなの?」
「ああ。境界がある」
アリッサは首を傾げた。
「よく分からない」
「普通は分からなくていい」
レオンハルトは少し苦笑する。
「人間界で暮らしていれば、一生知らずに終わる知識だ」
「レオンハルトは詳しいんだね」
「兄上――セドリックが王になってから、色々学ばされた」
「王族って大変なんだ」
「かなりな」
即答だった。
アリッサは思わず小さく笑ってしまう。
レオンハルトは本当に王族らしくない。
もっと偉そうな人を想像していた。
けれど彼は、強いのに気取っていなくて、どこか普通の人みたいだった。
「……何だ」
視線に気づいたのか、レオンハルトがこちらを見る。
「ううん」
「変な顔してる」
「してない」
「してる」
少し意地悪そうに返され、アリッサはむっとした。
「レオンハルトって、意外とひどい」
「君が分かりやすすぎるんだ」
「そんなことないもん」
「ある」
即答される。
アリッサは言い返そうとして、結局何も言えなくなった。
少し悔しい。
けれど、こうして話していると、不思議と怖さが薄れる。
白い巨塔にいた時の、胸の冷たさが遠くなっていく。
その時だった。
レオンハルトの足が止まる。
アリッサもつられて立ち止まった。
「……着いた」
「え?」
顔を上げる。
そこには、大きな石造りの門があった。
古い門だった。
白ではなく、灰色に近い石。
表面には無数の文字が刻まれている。
天界の街並みとはどこか異質な空気を纏っていた。
門の中央には、淡く揺れる光の膜が広がっている。
水面みたいに、ゆらゆらと揺れていた。
「これが……境界門?」
「ああ」
レオンハルトは周囲を警戒しながら頷く。
「正式な門じゃない。古い抜け道だ」
「抜け道……」
「昔、人間界との交易で使われていた」
アリッサは門を見上げた。
近づくだけで、空気が変わる。
耳鳴りみたいな感覚。
体がふわふわする。
怖いような、懐かしいような、不思議な感じだった。
「……なんか変」
「何がだ」
「ここ、嫌じゃない」
レオンハルトの眉が僅かに動く。
「嫌じゃない?」
「うん……むしろ落ち着く」
そう言った瞬間。
門の光がふわりと揺れた。
まるでアリッサに反応したみたいに。
レオンハルトの表情が変わる。
「……やはり」
「え?」
「いや」
彼は何かを考えるように門を見る。
アリッサは不安になった。
「また私、変なことした?」
「違う」
レオンハルトはすぐに否定する。
「ただ、君が“境界”に近い存在だという証拠だ」
「境界に近い……?」
「普通の人間は、境界に強い拒絶反応を示す」
「そうなの?」
「ああ。気分が悪くなったり、恐怖を感じたりな」
けれどアリッサは違った。
むしろ、どこか安心する。
その事実に、レオンハルトは複雑そうな顔をしていた。
「……行けるか」
「うん」
「通る時、少し気持ち悪くなるかもしれない」
「頑張る」
レオンハルトは小さく息を吐いた。
「頑張らなくていい。無理そうなら支える」
そう言って、自然に手を差し出してくる。
アリッサは少しだけ迷った。
けれど、その手を取る。
あたたかかった。
「行くぞ」
レオンハルトが光の膜へ足を踏み入れる。
アリッサも続いた。
瞬間。
世界が歪む。
「……っ!」
視界が白く染まる。
耳鳴り。
浮遊感。
体がどこかへ引っ張られる。
怖い。
でも、同時に懐かしい。
頭の奥で、誰かの声が響く。
『アリッサ』
優しい男の声。
知らないはずなのに、涙が出そうになる。
『必ず、生きろ』
「……っ」
次の瞬間。
身体が強く引かれた。
アリッサは思わずレオンハルトへしがみつく。
「アリッサ!」
彼の声が聞こえる。
その瞬間、白い光が弾けた。
風。
匂い。
温度。
さっきまでとは違う空気。
アリッサはゆっくり目を開いた。
そこに広がっていたのは、深い森だった。
青々とした木々。
湿った土の匂い。
鳥の鳴き声。
風に揺れる葉音。
天界にはなかった、“生きている世界”の気配。
「……きれい」
思わず呟く。
レオンハルトはそんなアリッサを見て、少しだけ表情を緩めた。
「人間界だ」
アリッサは目を見開く。
空を見上げる。
青かった。
天界よりずっと鮮やかな青。
雲が流れ、風が吹き、木々が揺れている。
世界が動いている。
そんな感じがした。
「これが……人間界」
「ああ」
レオンハルトは周囲を確認しながら答える。
「まだ安心はできないがな」
「追ってくる?」
「可能性はある」
彼は空を見上げた。
「だが、天界側も簡単には境界を越えられない」
アリッサは胸を撫で下ろす。
その時。
突然、足元がふらついた。
「っ……」
「アリッサ!」
レオンハルトがすぐ支える。
視界がぐらぐら揺れる。
頭が熱い。
息苦しい。
「ご、ごめ……」
「謝るな」
レオンハルトは真剣な顔でアリッサの額へ触れた。
「熱がある」
「え……?」
「境界を越えた反動か」
アリッサの身体は小刻みに震えていた。
怖いわけじゃない。
なのに、涙が滲む。
頭の奥で、いくつもの声が響いている。
『逃げて』
『生きろ』
『見つけた』
知らない記憶。
知らない感情。
それが一気に押し寄せてくる。
「やだ……」
アリッサは震える声で呟いた。
「怖い……」
レオンハルトは一瞬だけ目を細める。
それから迷いなく、アリッサを抱き上げた。
「えっ!?」
「喋るな」
「で、でも……!」
「今は休め」
アリッサは真っ赤になる。
近い。
近すぎる。
けれどレオンハルトは気にした様子もなく、森の奥へ歩き出した。
「少し先に休める場所がある」
「……お、降りる」
「駄目だ」
「恥ずかしい」
「倒れるよりましだ」
真顔で返され、アリッサは言葉を失う。
そのままレオンハルトの胸元へ顔を埋めると、心臓の音が聞こえた。
規則正しく、落ち着いた音。
不思議と安心する音だった。
森の風が二人の間を通り抜ける。
そしてその時。
遠く離れた天界で。
白銀の髪を持つ一人の青年が、静かに目を細めていた。
「……見つからなかった?」
低い声。
黄金の瞳が、冷たく揺れる。
彼の前では、白い布を纏ったヴェヒターが膝をついていた。
「黒髪の少女。赤い力。……なるほど」
青年は静かに立ち上がる。
その姿は、まるで白銀の月のように美しかった。
「面白い」
口元が僅かに緩む。
「探してみようか」
――ユリウス・ルシェル。
天界王家第二王子。
彼もまた、“境界の少女”へ辿り着こうとしていた。
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