第5話 森の賢者の預言
天界の空は静かだった。
白い雲。
白い街。
白い塔。
どこまでも美しいはずなのに、アリッサにはその景色が少し怖く見えた。
まるで、この世界には“終わり”というものが存在しないみたいで。
だからこそ、人は白い巨塔へ並ぶのだろうか。
永遠に疲れてしまった人たちが。
「……アリッサ」
不意に名前を呼ばれ、アリッサは顔を上げた。
レオンハルトがこちらを見ている。
「歩けるか」
「え? う、うん」
気づけば足が止まっていた。
レオンハルトは少しだけ眉を寄せる。
「無理はするな」
「大丈夫」
アリッサは慌てて頷いた。
心配をかけたくなかった。
助けてもらったばかりなのに、これ以上迷惑をかけたくない。
だが、レオンハルトはそんなアリッサをじっと見つめたあと、小さく息を吐いた。
「……君は、“大丈夫”と言うのが癖か?」
「え?」
「本当は不安そうな顔をしてる」
アリッサは言葉に詰まった。
そんな顔をしていただろうか。
自分では普通のつもりだった。
「……ごめんなさい」
「だから謝るな」
レオンハルトは少し呆れたように言う。
「君はもっと人に頼っていい年齢だ」
「でも……」
「でも、じゃない」
ぴしゃりと言われ、アリッサは口を閉じた。
その反応が面白かったのか、レオンハルトが少しだけ笑う。
「素直だな」
「……からかわれてる?」
「半分くらいは」
「ひどい」
アリッサがむっとすると、レオンハルトは肩を竦めた。
そのやり取りが、不思議と自然だった。
出会ってまだ少ししか経っていないのに。
けれど、アリッサの中にある緊張は、少しずつ解け始めていた。
二人は再び歩き出す。
白い街を抜け、人気の少ない区域へ入っていく。
建物は古くなり、道幅も狭い。
時折、遠くにヴェヒターの姿が見えたが、レオンハルトが張っている隠蔽術のせいか、こちらへ来る様子はなかった。
「……レオンハルト」
「なんだ」
「さっき言ってた“預言”って、本当なの?」
レオンハルトは少しだけ視線を細めた。
「信じられないか」
「だって、世界が滅びるって……」
そんなの、物語みたいだ。
けれどレオンハルトは真剣だった。
「俺も最初は半信半疑だった」
「じゃあ、どうして天界まで来たの?」
「預言をしたのが、“森の賢者エルダン”だからだ」
「有名な人?」
「ああ」
レオンハルトは頷く。
「人間界では知らない者はいない」
その声には、深い信頼が滲んでいた。
「エルダンは預言者だ。未来を視る」
「未来……」
「ただし、何でも分かるわけじゃない」
レオンハルトは歩きながら続ける。
「断片的だ。曖昧で、象徴的で、解釈が難しいことも多い」
「それでも当たるの?」
「ああ」
その返事は迷いがなかった。
「兄上――国王セドリックも、何度もエルダンの預言に助けられている」
「兄上って……」
「ああ、今の王だ」
さらっと言われ、アリッサは改めてこの人が王族なのだと思い出した。
なんだか未だに実感が湧かない。
レオンハルトは剣を持って戦っていたし、魔法も使う。
王族というより、騎士のように見える。
そんなことを考えていると、レオンハルトがこちらを見た。
「何だその顔は」
「いや……」
アリッサは少し迷ってから言う。
「王子様っぽくないなって」
「喧嘩を売ってるのか?」
「ち、違うよ!」
「安心しろ。俺もよく言われる」
「言われるんだ……」
「兄上の方が王族らしい」
その声はどこか苦笑混じりだった。
アリッサは少しだけ気になった。
「お兄さん、どんな人なの?」
「真面目で優秀だ」
即答だった。
「責任感が強くて、優しくて……少し心配性だな」
「レオンハルトのこと心配してるの?」
「よく分かったな」
「なんとなく」
アリッサがそう言うと、レオンハルトは少しだけ目を細めた。
「兄上は、俺が危険なことをするたびに顔をしかめる」
「じゃあ今回も?」
「ああ。かなり反対された」
「……それでも来たの?」
「来る必要があった」
レオンハルトの青い瞳が、まっすぐ前を向く。
「世界が滅ぶかもしれないと言われて、黙っていられるほど器用じゃない」
アリッサはその横顔を見つめた。
本当に真っ直ぐな人だと思う。
危険でも、自分で決めて動く人。
「エルダンは言ったんだ」
レオンハルトの声が低くなる。
「“境界に立つ少女が、世界を救う鍵になる”と」
「境界……」
その言葉に、胸の奥がざわついた。
なぜだろう。
聞いた瞬間、心が反応した。
「その少女は、黒髪で、赤い瞳を持つとも言っていた」
アリッサの呼吸が止まる。
赤い瞳。
さっき、自分の目は赤くなっていた。
「まさか……」
「君だと思った」
レオンハルトは静かに言う。
「だから天界へ来た」
アリッサは唇を噛んだ。
「でも、違ったら?」
「違わない」
「どうして言い切れるの」
「君を見たからだ」
レオンハルトの目は真剣だった。
「ヴェヒターが君に反応した」
「……」
「君の力も見た」
アリッサは自分の手を見下ろす。
赤い光。
あれはまだ指先に残っている気がした。
「君は普通じゃない」
その言葉に、アリッサの肩が僅かに震える。
だがレオンハルトは続けた。
「だが、それは悪い意味じゃない」
「……」
「君には意味がある」
意味。
その言葉が胸に刺さる。
アリッサは、自分が空っぽだと思っていた。
記憶もない。
帰る場所もない。
何者かも分からない。
そんな自分に、“意味がある”と言われるなんて思わなかった。
「どうして……そんなふうに言えるの」
レオンハルトは少しだけ黙った。
それから、小さく笑う。
「預言を信じてるから、というのもある」
「それだけ?」
「……あとは」
彼は一瞬だけ言葉を止めた。
「君が、生きていてほしいと思った」
アリッサの胸がどくんと鳴る。
風が吹いた。
白い髪が揺れる。
レオンハルトは前を向いたままだった。
まるで今の言葉を、深い意味なく言ったみたいに。
けれどアリッサは、胸の奥が熱くなるのを止められなかった。
その時だった。
空気が変わる。
レオンハルトの表情が一瞬で鋭くなった。
「……っ」
「え?」
「静かに」
彼はアリッサの肩を引き寄せる。
二人は咄嗟に路地裏へ身を隠した。
数秒後。
白い装束を纏った天界兵たちが、通りを横切っていく。
銀色の槍。
白い鎧。
その胸元には、金の紋章が刻まれていた。
「……探してる」
アリッサが小さく呟く。
「早いな」
レオンハルトの声が低い。
「ヴェヒターから情報が回ったか」
兵士たちは何かを話しながら通り過ぎていく。
その中の一人が言った。
『黒髪の少女を探せ。赤い魔力反応あり』
アリッサの身体が強張る。
レオンハルトがすぐに口元へ指を当てた。
静かにしろ、という合図。
兵士たちの足音が遠ざかる。
やがて完全に聞こえなくなってから、レオンハルトは小さく息を吐いた。
「……思った以上にまずいな」
「ご、ごめんなさい……」
「だから謝るな」
彼は少し困ったように言った。
「君のせいじゃない」
「でも、私のせいで追われてる」
「最初から覚悟してた」
レオンハルトは淡々としていた。
その顔に迷いはない。
「人間界へ急ぐ」
「うん……」
「境界門まではあと少しだ」
アリッサは頷く。
けれど、その胸には不安が広がっていた。
世界を救う鍵。
赤い瞳。
追われる理由。
何もかも分からない。
それなのに、運命だけが勝手に動き始めている気がした。
アリッサはそっと、自分の胸元を握る。
その時。
頭の奥で、誰かの声がした。
『――逃げて』
優しい女の声。
懐かしい声。
アリッサははっと顔を上げる。
「……お母さん?」
思わず零れた言葉に、レオンハルトが振り返った。
「今、何か思い出したのか」
アリッサは混乱したまま、小さく頷く。
「声が……聞こえた気がしたの」
レオンハルトの青い瞳が静かに細められる。
「……そうか」
その表情は、どこか確信に近かった。
まるで彼だけが、アリッサの記憶の意味を知っているかのように。
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