第4話 王弟レオンハルト
白い路地に、緊張が張り詰める。
ヴェヒターは音もなく立っていた。
人の形をしているのに、人ではない。
白い布の奥に浮かぶ黒い一つ目だけが、異様な存在感を放っている。
その目が、じっとアリッサを見つめていた。
逃がさない、とでも言うように。
「……っ」
アリッサは息を呑む。
怖い。
理屈ではなく、本能がそう叫んでいた。
あれに捕まってはいけない。
白い巨塔へ戻される。
そうしたらきっと、自分はもう戻れない。
レオンハルトはアリッサを背後へ庇ったまま、静かに右手を掲げた。
空中に浮かぶ金色の魔法陣が、淡く回転している。
「離れるな」
低い声が落ちる。
アリッサは小さく頷いた。
ヴェヒターが一歩前へ出た。
足音はしない。
ただ、空気だけが冷えていく。
黒い一つ目が、ゆっくりと細められた。
次の瞬間。
白い布の内側から、黒い影のようなものが伸びた。
「きゃっ……!」
アリッサは思わず声を上げる。
それは槍のように鋭く変形し、一直線にこちらへ突き刺さってきた。
だが――。
「遅い」
レオンハルトが短く言った。
金色の光が弾ける。
魔法陣から放たれた光の刃が、黒い影を真っ二つに切り裂いた。
空気が震える。
切断された影は煙のように散り、消えた。
アリッサは目を見開く。
速すぎて、ほとんど見えなかった。
レオンハルトは一歩も動いていない。
それなのに、ヴェヒターの攻撃を完全に防いでいた。
「下がってろ」
そう言う声は落ち着いている。
けれど、その青い瞳は鋭かった。
戦う人の目だ。
さっきまで優しく笑っていた人とは別人みたいに。
ヴェヒターが再び動く。
今度は二体。
白い壁の向こうから、いつの間にか増えていた。
黒い一つ目が、同時にアリッサを捉える。
ぞわり、と寒気が走った。
「レオンハルト……!」
「大丈夫だ」
彼は即答した。
「俺がいる」
その言葉と同時に、レオンハルトの周囲に複数の光陣が展開される。
金色の魔法文字が空中を走り、眩い光が路地を照らした。
アリッサは息を呑む。
綺麗だった。
戦いの魔法なのに、まるで夜空の星みたいに。
「――穿て」
レオンハルトが低く唱える。
次の瞬間、光の槍が放たれた。
轟音。
金色の閃光が一直線に走り、ヴェヒターを貫く。
白い布が裂けた。
だが、中には肉体らしいものはない。
黒い霧が噴き出し、空中へ散る。
それでもヴェヒターは止まらない。
まるで痛みを知らないみたいに、再びこちらへ向かってくる。
「しつこいな……!」
レオンハルトが舌打ちする。
アリッサは震えながら彼の背を見つめた。
強い。
本当に強い。
けれど、同時に気づいてしまう。
レオンハルトは、本気で戦っていない。
周囲を壊さないように抑えている。
ここは天界だ。
派手に魔法を使えば、すぐに騒ぎになる。
だから制限している。
「レオンハルト!」
アリッサは思わず叫んだ。
「もっと強いの使えないの!?」
彼が一瞬だけこちらを見る。
「使える」
「じゃあ――」
「使えば君ごと吹き飛ぶ」
「えっ」
「だから却下だ」
さらっと言われ、アリッサは言葉に詰まった。
その間にもヴェヒターが迫る。
黒い影が足元を這い、アリッサへ伸びた。
「……っ!」
怖い。
触れられたくない。
その瞬間だった。
アリッサの胸の奥で、何かが熱を持つ。
どくん、と鼓動が跳ねた。
赤い光。
視界の端が赤く染まる。
レオンハルトがはっと目を見開いた。
「アリッサ、駄目だ!」
だが遅かった。
アリッサの足元から、赤い光が爆発する。
熱風。
空気が震え、黒い影を吹き飛ばした。
ヴェヒターが後退する。
アリッサ自身も驚いていた。
「え……?」
自分がやったの?
今のを?
両手を見る。
指先に、赤い光が残っていた。
その瞬間、レオンハルトが強くアリッサの肩を掴む。
「瞳を閉じろ!」
「え……?」
「いいから!」
切羽詰まった声だった。
アリッサは反射的に目を閉じる。
すると、レオンハルトの手が額に触れた。
淡い金色の光。
熱かった身体が、少しずつ落ち着いていく。
荒れていた呼吸も静まった。
「……レオン、ハルト」
「落ち着け。力を暴走させるな」
「暴走……?」
ゆっくり目を開く。
レオンハルトの顔が、すぐ近くにあった。
真剣な青い瞳。
その奥に、焦りが見える。
「今、私の目……どうなってた?」
アリッサが尋ねると、レオンハルトは少しだけ黙った。
「赤くなってた」
「赤……」
「完全じゃない。だが、かなり強く反応していた」
アリッサは息を呑む。
赤い瞳。
どこかで聞いた気がする。
けれど思い出せない。
頭の奥がずきりと痛んだ。
「っ……!」
「無理に思い出そうとするな」
レオンハルトがすぐ支える。
「今は駄目だ」
「でも……!」
「アリッサ」
彼の声が低くなる。
「今は生き延びることだけ考えろ」
その言葉に、アリッサははっとした。
ヴェヒターはまだ消えていない。
白い布の監視者たちは、距離を取ったままこちらを見ている。
まるで観察しているみたいに。
そして次の瞬間。
彼らは突然、動きを止めた。
「……?」
アリッサが戸惑う。
ヴェヒターたちは数秒こちらを見つめたあと、音もなく後退した。
そのまま白い壁の向こうへ消えていく。
静寂。
路地に風だけが残る。
「逃げた……?」
アリッサが呟くと、レオンハルトは険しい顔をしたままだった。
「いや」
「え?」
「確認された」
「確認……?」
「君の力をな」
アリッサの背筋が冷える。
レオンハルトは舌打ちした。
「まずいな……」
「そんなに?」
「最悪に近い」
彼は周囲を見回した。
「こうなる前に天界を出るつもりだったんだが」
「……ごめんなさい」
「謝るな」
レオンハルトは即答する。
「君は何も分かってない状態だった」
「でも私、勝手に力を……」
「それでもだ」
彼は真っ直ぐアリッサを見る。
「君は悪くない」
その言葉が、胸に沁みた。
悪くない。
そう言われるだけで、少しだけ呼吸が楽になる。
レオンハルトは小さく息を吐いた。
「予定を変更する」
「へんこう?」
「急いで人間界へ移動する」
「そんなに危ないの?」
「ああ」
彼は頷く。
「天界王家に知られる前に、君を隠したい」
「王家……」
その言葉に、アリッサは目を瞬いた。
レオンハルトは少しだけ言いづらそうに眉を寄せる。
「ああ、その説明をしてなかったな」
「?」
「俺の身分の話だ」
アリッサは首を傾げた。
レオンハルトは強い。
魔法も使える。
服装もどこか上品だ。
普通の人ではないとは思っていた。
だが次の言葉は、アリッサの予想を超えていた。
「俺は人間界アストリア王国の第二王子だ」
アリッサは数秒固まった。
「…………え?」
「正確には王弟だな。兄が現国王だから」
「お、王族!?」
「そんな驚くか」
「だって!!」
アリッサは思わず後退った。
「え!? じゃあ、え!? 王子様!?」
「やめろ、その反応」
「いや無理でしょ!?」
レオンハルトは疲れたように額を押さえる。
「別に隠してたわけじゃない」
「言ってなかったじゃん!」
「聞かれなかったからな」
「普通最初に言わない!?」
「普通、最初に“俺は王族です”なんて言うか?」
「それはそうだけど……!」
アリッサは混乱した。
死の塔から助けてくれた人が、まさか王族だったなんて。
しかも、王弟。
そんな偉い人が、どうして自分なんかを助けるのだろう。
アリッサの不安を察したのか、レオンハルトは少しだけ困ったように笑った。
「そんな顔をするな」
「だって……」
「立場は関係ない」
彼は静かに言った。
「俺は君を助けたかった。それだけだ」
その言葉に、アリッサは何も言えなくなる。
胸の奥が、また少し熱くなった。
レオンハルトはそんな彼女を見つめ、それから空を仰ぐ。
「……急ぐぞ」
「え?」
「もう時間がない」
遠くで鐘の音が鳴る。
白い空に、不穏な気配が広がっていた。
「天界が、本格的に君を探し始める前にな」
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