第3話 連れ帰られた場所
意識が戻ってくるとき、最初に感じたのは――やわらかさだった。
沈み込むような感覚。
体を支えているものが、冷たい石ではない。
温かくて、やさしい。
それだけで、ここがあの白い巨塔の近くではないことがわかる。
「……ん……」
小さく声が漏れた。
まぶたが重い。
けれど、ゆっくりと開く。
視界に入ったのは、見慣れない天井だった。
高くはない。
白一色でもない。
木の梁が走り、淡い色の布が垂らされている。
どこか落ち着く、静かな空間。
「……ここ……」
体を起こそうとして、わずかに力が入らないことに気づく。
指先が震える。
腕が重い。
呼吸も浅い。
けれど、先ほどのような苦しさはない。
むしろ――
楽だった。
不思議なくらいに。
そのとき。
「お目覚めですか」
穏やかな声が、すぐ近くから聞こえた。
アリッサはゆっくりと顔を向ける。
そこに立っていたのは、白い髪の老人だった。
背筋はまっすぐで、年齢を感じさせないほど整った所作。
黒い燕尾服に身を包み、手袋をはめたその姿は、まるで絵の中の人物のようだった。
だが、その目はとても優しい。
「……だれ?」
かすれた声で問いかける。
老人は、わずかに微笑んだ。
「ロルフと申します」
ゆっくりと一礼する。
「レオンハルト様にお仕えしている家令でございます」
「……レオン、ハルト……」
名前を口にした瞬間、あの手の温もりがよみがえる。
白い巨塔から連れ出してくれた人。
自分を抱き上げた人。
「……あの人は?」
ロルフは、少しだけ表情を和らげた。
「現在は別室にて、報告と手配を行っております」
「……報告」
「はい」
静かに頷く。
「お嬢様をお連れになった以上、説明が必要ですので」
その言葉に、アリッサは少しだけ不安を覚えた。
「……迷惑、だった?」
ぽつりと漏れる。
ロルフは一瞬だけ目を細めた。
そして、すぐにやわらかな声で答える。
「とんでもございません」
はっきりと。
「レオンハルト様は、ご自身の意思でお嬢様をお連れになりました」
「……でも」
「お嬢様」
言葉を遮るように、静かに呼ばれる。
その声音には、責める響きはなかった。
ただ、まっすぐだった。
「ここにいらっしゃることを、迷惑だと思う者はおりません」
断言だった。
それがあまりにも自然で、揺るぎなかったから。
アリッサは、何も言えなくなった。
迷惑ではない。
その言葉が、胸の奥で小さく響く。
今まで、そう言われたことがあっただろうか。
思い出せない。
けれど――
その言葉は、少しだけ、温かかった。
「……水、飲めますか」
ロルフが優しく問う。
アリッサは小さく頷いた。
喉が渇いていることに、ようやく気づく。
ロルフはすぐに、ガラスのコップを差し出した。
透明な水。
揺れる光。
恐る恐る口をつける。
一口。
冷たい。
けれど、痛くない。
むしろ、すっと体に染みていく。
「……おいしい」
思わず、そう呟いていた。
ロルフは、ほんのわずかに微笑んだ。
「それはよろしゅうございました」
そのとき。
部屋の扉が、静かに開いた。
足音。
規則正しく、迷いのない歩み。
アリッサは顔を上げる。
そこにいたのは――
「……起きたか」
レオンハルトだった。
薄い金の髪。
空のような青い瞳。
あのときと同じ姿。
けれど、ここではどこか落ち着いて見える。
アリッサは、少しだけ息を止めた。
なぜか、少し緊張する。
「……うん」
小さく答える。
レオンハルトは数歩近づき、ベッドのそばに立った。
じっと、アリッサの様子を見る。
その視線は鋭いが、冷たくはない。
むしろ、確かめるようだった。
「気分はどうだ」
「……さっきより、いい」
「そうか」
短く頷く。
それだけのやり取り。
けれど、そこに無駄はなかった。
ロルフが静かに一歩下がる。
「お食事の用意を進めてよろしいでしょうか」
「ああ」
レオンハルトは答えた。
「消化のいいものを」
「かしこまりました」
一礼して、ロルフは部屋を出ていく。
扉が閉まる。
静けさが戻る。
アリッサとレオンハルト、二人きり。
少しだけ、空気が変わった。
「……どうして」
アリッサが、ぽつりと口を開く。
「どうして、助けたの」
まっすぐな問いだった。
レオンハルトは、少しだけ目を細めた。
「……理由が必要か」
「……わからないから」
正直に答える。
「私、何も持ってない」
言葉が、すっと出てくる。
「弱いし、覚えてないし、迷惑かけるし」
淡々とした口調。
感情は薄い。
けれど、それは事実として認識している。
「だから」
一度、言葉を区切る。
「どうしてって思う」
レオンハルトは、しばらく黙っていた。
視線を逸らさず、アリッサを見る。
そして――
「……あの場所にいるべきじゃないと思った」
そう言った。
「それだけだ」
簡潔な答え。
だが――
嘘ではない。
アリッサには、それがわかった。
「……それだけ?」
「ああ」
迷いなく頷く。
その言葉は、飾られていなかった。
同情でも、義務でもない。
ただ――
そう思ったから、そうした。
それだけ。
それが、逆に不思議だった。
「……変なの」
ぽつりと漏れる。
レオンハルトはわずかに眉をひそめた。
「何がだ」
「そんな理由で、人助けるの」
「……悪いか」
「わかんない」
首を小さく振る。
「でも、初めて見た」
そう言って、少しだけ目を伏せる。
レオンハルトは何も言わなかった。
ただ、その言葉を受け止める。
やがて、静かに言った。
「……ここにいろ」
短い言葉。
だが、重みがある。
「え?」
「行く場所がないなら、ここにいればいい」
アリッサは、驚いたように目を見開いた。
「……いいの?」
「構わない」
即答だった。
「ロルフも了承している」
「……でも」
「条件は一つだけだ」
言葉を重ねる。
アリッサは少し身を固くする。
「……なに?」
「勝手にいなくなるな」
それだけだった。
予想していたものとは違う。
もっと厳しい条件を想像していた。
働け、とか。
役に立て、とか。
そういうものを。
けれど――
「……それだけ?」
「ああ」
レオンハルトは頷く。
「それだけだ」
その言葉に。
アリッサの胸の奥が、少しだけ揺れた。
勝手にいなくなるな。
それは、ここにいていい、という意味でもある。
どこにも行かなくていい。
ここにいていい。
その許可。
その言葉が――
なぜか、少しだけ怖かった。
そして同時に。
ほんの少しだけ。
嬉しかった。
「……わかった」
小さく答える。
レオンハルトは、それ以上何も言わなかった。
ただ一度だけ、確かめるように頷く。
それで、この話は終わりだった。
だが――
その日。
名前も記憶も曖昧な少女は。
初めて「いてもいい場所」を与えられた。
それがどれほど大きな意味を持つのか。
まだ、本人は知らなかった。




