第2話 まだ、君の番じゃない
天界の街は、どこまでも白かった。
石畳も、建物も、空へ伸びる柱も。
まるで世界そのものが色を失ってしまったように、淡い白に包まれている。
その中を、レオンハルトは足早に進んでいた。
アリッサの手を引いたまま。
背後には、まだ嫌な気配が残っている。
ヴェヒター。
白い巨塔の監視者たちは、完全に人間ではない。
意思を持ち、命令に従い、塔の秩序を守る存在。
そして、“異物”に敏感だ。
死ぬ資格のない者。
本来、塔に来るべきではない者。
そういう存在を見逃さない。
「……っ」
アリッサは小さく息を呑んだ。
走っているわけではないのに、胸が苦しい。
自分が追われている。
その感覚だけが、じわじわと背中を冷やしていく。
レオンハルトは振り返らなかった。
だが、繋いだ手から伝わる力が少し強くなる。
「大丈夫だ」
低い声が落ちてくる。
「まだ追いつかれていない」
「……まだ?」
思わず聞き返すと、レオンハルトはわずかに眉を寄せた。
「あいつらはしつこい。塔に紛れ込んだ存在を簡単には見逃さない」
「私……そんなに変なの?」
「変というより――」
レオンハルトは一瞬言葉を止めた。
青い瞳が横目でアリッサを見る。
「君は、あそこにいてはいけなかった」
また同じ言葉だった。
まだ君の番じゃない。
ここにいてはいけない。
その意味を、アリッサはまだ理解できない。
「……どうして?」
レオンハルトはすぐには答えなかった。
白い街路を曲がり、小さな橋を渡る。
橋の下には透明な水が流れていた。
魚の姿はない。
風もない。
静かすぎる。
生きている世界というより、夢の中みたいだった。
「レオンハルト?」
もう一度呼ぶと、彼は小さく息を吐いた。
「今は説明できない」
「どうして」
「君自身が、まだ何も思い出していないからだ」
アリッサは黙り込んだ。
思い出せない。
本当に、何も。
名前以外。
家族の顔も。
どこで生まれたのかも。
どうして天界にいるのかも。
なにも分からない。
ただ、白い巨塔を見た瞬間だけ、不思議と“行かなければ”と思った。
それが恐ろしかった。
自分の意思ではなかった気がするから。
「……私、本当に誰なの」
ぽつりと零す。
レオンハルトは少しだけ歩調を緩めた。
「アリッサ」
「それしか分からない」
「それで十分だ」
「十分じゃないよ……」
アリッサは唇を噛んだ。
「私、自分が怖い」
そう言った瞬間、レオンハルトの足が止まった。
アリッサもつられて立ち止まる。
二人がいるのは、細い裏路地だった。
白い壁に囲まれた狭い道。
誰もいない。
静かな場所。
レオンハルトはゆっくりと振り返った。
「怖がらなくていい」
その声は、不思議なくらい穏やかだった。
「記憶を失えば、不安になるのは当然だ」
「でも……私、自分で死の列に並んでた」
アリッサは震える声で言った。
「あれ、普通じゃない」
レオンハルトは少しだけ目を伏せた。
その横顔に、苦い影が落ちる。
「……そうだな」
否定はしなかった。
「だが、君が自分の意思だけで並んでいたとは限らない」
「え……?」
「記憶が曖昧なんだろう」
アリッサは頷く。
「霧がかかってるみたいで……思い出そうとすると、頭の中が真っ白になるの」
「そうか」
レオンハルトの瞳が僅かに険しくなる。
まるで、何かを確信したみたいに。
「やはり……」
「なに?」
「いや」
彼はそこで言葉を切った。
そして話を変えるように周囲へ視線を向ける。
「少し休む」
「追われてるんじゃないの?」
「隠蔽術を張っている。すぐには見つからない」
レオンハルトはそう言って、路地の奥にある古い建物へアリッサを連れていった。
小さな礼拝堂だった。
天界にしては珍しく、少し古びている。
白い壁には細かなひびが入り、蔦が絡まっていた。
けれど、その場所には妙な安心感があった。
「入れ」
レオンハルトが扉を押す。
中は薄暗かった。
古い木の椅子。
色褪せたステンドグラス。
祭壇には、翼を持つ女神像が静かに佇んでいる。
誰もいない。
しんと静まり返った空間に、アリッサはそっと息を吐いた。
「座って」
レオンハルトに言われ、前列の椅子へ腰掛ける。
その途端、全身から力が抜けた。
緊張していたのだと、今さら気づく。
レオンハルトは祭壇の近くへ歩き、指先に淡い金色の光を灯した。
空気が揺れる。
礼拝堂全体を包むように、光の膜が広がった。
「これで少しは安心できる」
「魔法……?」
「ああ」
レオンハルトは短く答える。
その横顔を、アリッサはぼんやり見つめた。
綺麗な人だと思った。
ただ顔立ちが整っているだけではない。
剣みたいな人だ。
強くて、真っ直ぐで、簡単には折れなさそうな。
なのに、時々ひどく優しい目をする。
どうしてだろう。
初めて会ったはずなのに、少しだけ安心してしまう。
「……見すぎだ」
不意に言われ、アリッサはびくっとした。
「え」
「そんなに警戒しなくても、取って食ったりしない」
「ち、違……!」
慌てるアリッサに、レオンハルトは小さく笑った。
初めて見る笑顔だった。
ほんの少し口元が緩んだだけなのに、空気がやわらかくなる。
アリッサは目を丸くした。
「……笑うんだ」
「失礼なことを言うな」
「なんか、ずっと怖い顔してたから」
「君を追いかけて塔から逃げてきたんだ。余裕があるわけないだろう」
「ご、ごめんなさい……」
「責めてない」
レオンハルトはそう言って、向かいの椅子へ腰掛けた。
距離は近すぎず、遠すぎず。
その気遣いが、アリッサには少し嬉しかった。
「……どうして助けてくれたの?」
静かな礼拝堂の中で、アリッサは尋ねた。
レオンハルトは少しだけ黙った。
ステンドグラスから差し込む淡い光が、彼の横顔を照らしている。
「君を探していたからだ」
「私を?」
「ああ」
「どうして」
「賢者の預言だ」
「よげん……?」
「人間界にいる賢者が言った。“数年後、この世界は滅びる”と」
アリッサは目を瞬いた。
世界が滅びる。
あまりにも大きすぎる言葉だった。
「その危機を止める鍵になる少女が、天界にいるとも言っていた」
レオンハルトの青い瞳が、まっすぐアリッサを見る。
「それが君だ」
「……私?」
思わず笑いそうになった。
だって、自分は何も覚えていない。
ただ死の行列に並んでいただけの少女だ。
世界を救う?
そんな大層な存在に見えない。
「間違ってるよ」
アリッサは小さく首を振った。
「私、何もできない」
「今はそうかもしれない」
「じゃあ――」
「だが、俺は預言を信じてここへ来た」
レオンハルトの声は揺らがなかった。
「そして、白い巨塔の列に並ぶ君を見た」
その瞬間、彼の瞳に怒りにも似た色が滲む。
「……冗談じゃないと思った」
アリッサは息を止めた。
「世界を救うかもしれない少女が、死の列に並んでいるなんてな」
静かな声だった。
けれど、その奥には確かな感情があった。
焦り。
怒り。
そして――安堵。
間に合った、と言うような。
「だから連れ出した」
レオンハルトは言う。
「それだけだ」
アリッサは、自分の胸をぎゅっと掴んだ。
変だった。
知らない人なのに。
出会ったばかりなのに。
その言葉が、胸の奥に深く落ちていく。
「……私、生きてていいのかな」
気づけば、そんな言葉が漏れていた。
レオンハルトの表情が変わる。
「どうしてそんなことを言う」
「だって、私、自分が何者かも分からないし……」
アリッサは俯いた。
「誰にも必要とされてない気がする」
礼拝堂の中が静かになる。
レオンハルトはすぐには答えなかった。
けれど、やがて低い声で言った。
「少なくとも、俺は必要だと思っている」
アリッサは顔を上げる。
「君には、生きていてもらわないと困る」
「……世界のため?」
そう聞くと、レオンハルトは少しだけ困ったように笑った。
「それもある」
「それも?」
「目の前で、まだ十五くらいの子供が死のうとしていたら、止めるだろ普通」
アリッサはぽかんとした。
それから、少しだけ笑ってしまう。
「……子供」
「子供だろ」
「十五だよ」
「十分子供だ」
「……レオンハルト、おじさんみたい」
「誰がおじさんだ」
即座に返され、アリッサはくすっと笑った。
その笑い声に、レオンハルトが一瞬だけ目を見開く。
アリッサ自身も驚いていた。
笑えると思わなかった。
さっきまで、死の塔にいたのに。
怖くて、寒くて、自分が空っぽみたいだったのに。
今は少しだけ、胸が軽い。
レオンハルトはそんな彼女を見つめ、静かに息を吐いた。
「……よかった」
「え?」
「いや」
彼は立ち上がった。
「そろそろ移動する」
「どこに?」
「人間界だ」
アリッサは目を瞬く。
「人間界……?」
「天界に君を置いておくのは危険だ」
レオンハルトは真っ直ぐ言った。
「俺の屋敷へ連れていく」
「……私を?」
「ああ」
「でも、知らない子なのに」
「放っておけない」
その言葉はあまりにも自然だった。
打算ではなく。
義務だけでもなく。
本当に、そう思っている声音だった。
アリッサは胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
知らない世界。
知らない人。
何も分からない。
それでも――。
白い巨塔へ戻るより、この人についていきたい。
そう思った。
レオンハルトは再び手を差し出す。
「来るか」
アリッサはその手を見つめたあと、小さく頷いた。
「……うん」
その手を取る。
あたたかかった。
礼拝堂の外では、白い風が静かに吹いている。
遠くで、鐘の音が鳴った。
まるで、死の塔から少女が逃げ出したことを、誰かに告げるように。
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