寝覚めの悪い夢
時計は、深夜を指していた。ジンはひとつ深く息をすると、ベッドから起きだす。
棚から酒瓶を取り、飲む。味を確かめるより先に、喉の奥にアルコールを入れる。
酔いが頭を巡らず、抑えつけたい感覚が余計に冴え冴えとしてくる。眠るのを諦め、作業場へ行く。
旧時代から、この地下造船ドックは使われており、『CASPER』という名称も当時のままだと、ドクが言っていた。
ジンは服を脱ぐと、その場でゆっくり体の力を抜く。手足を揺らして体をほぐすと、腕立て伏せを始めた。
筋トレは日課だった。毎朝起きると、必ずやっている。今日のように、ろくに眠れなかった日もだ。
別段、鍛える必要などない職業だが、何故かやめられない。若い頃からの癖のようなものだ。
百回ほどやり、さらに腹筋、背筋、スクワットと続ける。痩身ながら引き締まった肉体から、汗が噴き出してくる。
一通り終えると、もう2セット行う。
トレーニングを終え、荒い息をつきながら立ち上がると、今度はシャドウボクシングを始めた。
格闘技の経験など無い。体術のベースは、街のケンカだ。スラムなどで生まれてくれば、男も女も、嫌でも自分の体の使い方を覚える。
拳が空を切る音が耳に残る。その残響をかき消すように、次の拳を繰り出す。
しばらくそうしていると、ドアの開く音がした。
※※
「どうしたんだ?ヴォーレン」
ドアを開けると、ジンに手を回されたレンの背中が、目に飛び込んできた。そして、いつもとは全く違うジンの顔。
「え、ヴォーレン?ちょっとジン、離して。」
レンがジンを振りほどこうと身をよじらせる。
「何故だ?」
ジンが訊く。
「え?そんなの―――」
赤くなった顔で言葉を探すレン。
「構わない、好きにしろ。ジン、金は数え終わった。」
「そうか。」
ヴォーレンは、レンから手を放そうとしないジンの目を睨みつけると、言った。
「今日限りで、俺は抜ける。いいな?」
「ああ、分かった。」
即答。予想通りだった。
「用はそれだけだ。邪魔をしたな。」
言って、事務室から出ようとすると、声がかかった。
「ヴォーレン俺の取り分から5%持っていけ。餞別だ。」
「ふん。」
鼻を一つ鳴らすのを返事に、ヴォーレンは事務室と、『CASPER』を後にした。
※※
「どうしたんだ?ネル。」
荒い息を整えながらジンが言う。薄暗いライトの下でも、その褐色の肌と、すらりとした肢体でネルだと分かった。
「こっちのセリフなんだけど。真夜中に何してんの?」
寝起きなのか、くたびれた声が答える。
「眠り損なってな。」
「ガキか。」
ネルがせせら笑うように言う。作業場の隅の椅子に座った。
「そうだな。じゃあ、枕元で絵本でも読んでくれるか?」
「その本でアンタをぶっ叩くのならやってあげるよ。」
「それはよく眠れそうだ。」
ジンは微笑み、汗を拭き始めた。
「で、ガキのジン君はなんで寝そこなったの?」
ネルがタバコに火をつけながら訊く。
「なんてことは無い。ただの寝覚めの悪い夢さ」
「レンの夢?」
一呼吸の間があって「――ああ」と、ジンが言う。
「あたしも。」
「そうか。」
ネルは、ジンの顔をしばらく見ていた。物心ついたときからの付き合いで、何を考えているのかは、大体伝わる。
今日は、レンの命日。
「そういやアンタ、明日B4まで行くんだろ?」
さも今、思いついたかのように、ジンに言葉をぶつけてみた。
「ああ、お嬢さんからの招待でな。」
軽口が返って来た。ネルは紫煙を吐き出しながら「余計なことするなよ。」と言い含める。
「できる限り善処しよう。奴らがどう出るのかは分からないが。」
※※
まさか、こんな時間に目が覚めるとは思ってもみなかった。安眠とは程遠い生活も、不眠になることは無かった。
派手な装飾の施された部屋の中を見渡す。何故自分のような人間が、こんなところに居るのだろう。不釣り合いなことこの上ない。
だが、と、思い直す。どのような生物にも、その体内には多種多様の菌を飼っている。完全な無菌状態では、生命活動を続けることはできない。
電話の音がした。取る。
「どうした?」
≪起きていたのか。私だ。君に伝えねばならないことがあってな。≫
「会議では、話せないことか。」
≪君のいうところの『ペンギン』が、こちらに来るようだ。≫
一瞬、鼓動が大きく打ったが、意に介せず、言った。
「知っている。そんなことか。」
反応が相手にとって意外だったのだろう。沈黙がしばらく続いた。
「我らにとっての不安要素は、消す。それだけだ。」
≪ためらいは無いのか。元は、仲間だったのだろう?≫
笑みがこぼれた。失笑だ。
「仲間などいない。地表にいるのは、ただの飢えた獣だ。」
≪そうか。安心したよヴォーレン。それでは頼むよ。≫
余裕を見せようと必死になっているのが見え見えの虚勢だ。ヴォーレンはほくそ笑みながら言った。
「ジンは、俺にしか殺れない。下手に手を出すな。」
相手が返事をする前に、電話を切る。ベッドに仰向けになり、考える。
B5。地下の最下層であり最上層。ここにいるというだけで、この星から脱出する優先順位は一位となる。どんな仕事をしていてもだ。
特権階級の考えることはいつの時代も変わらない。自らの既得権益を脅かす恐れのあるものを神経質なほど嫌い、徹底的に潰す。
ヴォーレンの現在の仕事は、排除の実行部隊といったところだ。
「下らない。」
一人、呟きが洩れた。
地表の人間が獣なのではない。人間は皆、獣だ。ただ、捕食者か否かの違いがあるだけだ。
どんな地下深くに覆い隠そうとしても、その自己中心的で利己的な本性は決して消せない。
地下の悪玉菌たる自分も、先程の電話の相手も、程度は変わらない。
それを分かり切っているから、仕事にためらいは無かった。罪悪感も恐れも無い。今回もそうだ。
しかし、妙に胸騒ぎがする。恐らく、相手がジンだからだ。奴だけは違う。なぜなら、ジンもまた、ヴォーレンと同じ捕食者。
捕食者は捕食者で無ければ殺せない。
興奮している。恐らく、ジンも同じことを考えているはずだ。
「待ち遠しいな、ジン。」
ヴォーレンは滅多に変えることのない表情を歪ませ、呟いた。それはさながら、獣が牙を剥き出しにするようだった。
やや引き気味の終わり方で、#3.過去編終了です。




