第88話 どれが出てくるか、楽しみですわね
四日目には、何も起きなかった。
五日目にも、何も起きない。マリアンヌは使いに出るたびに、ほかの家の侍女たちの話に耳をそばだてて帰ってくる。
「今日も、何もございませんでした」
「そう」
「ボワシエ男爵家の首飾りの話は、まだ皆、しておりました。箱の蓋のところまで」
鏡台の上の小箱を拭きながら、侍女はもうひとつ訊いた。
「お嬢様。三つ目は、なぜ雷に」
「空が、そう決めましたの」
「……左様でございますか」
侍女の内側で、何かがひとつ言いかけて、引っこんだ。ヴィオレッタは、それを追わなかった。
◇
噂というのは、いったん育つと、なかなか枯れない。
首飾りは、もう質から出てこないだろう。それでも、蓋をあけたままの空の箱は、王都じゅうの鏡台の上に置かれ続ける。誰も見たことのない箱なのに、誰の頭の中にもある。
◇
五日目の午後、教会へ向かう馬車が、ボワシエ男爵家の前を通った。
門の脇に、見慣れない荷車が止まっている。運び出されているのは、古い長持であった。首飾りの次は、嫁入りの道具を手放すのであろう。
ヴィオレッタは、窓の帳を下ろさなかった。下ろす理由がない。見えるものを見ないようにするのは、見たうえで何もしないよりも、ずっと手間がかかるのである。
◇
六日目に、オードランの店から衣が届いた。
約束の七日より、一日早い。深い緑である。届けに来たのは、あの日、隅で待ち針を数えていた針子であった。
袖を通すと、左の肩に、薄い詰め物が入っている。鏡の前で、肩の線がまっすぐに揃った。
◇
「マダムから、言付けがあります」
針子は、膝を折ったまま言った。
「詰め物は、先月と同じにしました、と」
「先月と同じ」
「はい。それだけ伝えるように、と言われました」
◇
ヴィオレッタは、針子の内側を聞いた。
娘は、詰め物が何のためのものかを知らない。言付けの意味も知らない。知っているのは、衣を汚さずに届けることと、帰ったら袖口をかがることだけである。
それと、七日の約束を守るために、店の皆が三晩眠らなかったこと。
マダム・オードランは、弟子にも言っていないのであった。
◇
七日目には、ルグランの見習いの少年が、小箱をひとつ届けに来た。
耳飾りを入れていた古い小箱の天鵞絨が、擦り切れていたのを、老人は見ていたらしい。新しい箱の中は、仕切りがふたつに分かれている。右と左の区別は、つけていない。
「旦那様が、代はいらないそうです」
少年は、それだけ言って、帰りたそうに足を動かした。内側には、焼き栗の屋台が今日も出ているかどうかしかない。
◇
ヴィオレッタは、新しい小箱を鏡台に置いた。
二軒とも、主は口を閉じている。主のまわりの者も、何も知らされていない。
残るのは、一軒であった。
ファビアンの店からは、何も届かない。半分しか結わなかった髪の続きを、まだ誰も結いに来ていない。ヴィオレッタのほうも、呼んでいなかった。
◇
「お嬢様」
マリアンヌが、小箱を見ながら言った。
「髪結いでございましょうか」
「まだ、分かりませんわ」
「でも、二軒とも」
「二軒とも、今日までは、ですわ。噂というのは、すぐに出てくるものばかりではありませんもの」
◇
ドゥラージュ伯爵夫人の噂は、いつも茶会で出る。
それも、言われる当人のいる茶会で。ボワシエ男爵家の首飾りも、ソランジュが卓の端に座っている日に出た。
本人の前で、本当ですの、と誰かに訊かせるために、取っておくのである。だから、まだ出てこない。
◇
その日の夕方、マリアンヌが使いから戻って、珍しく自分から口を開いた。
「ドゥラージュ伯爵家の侍女に、市場で会いました」
「何か言っていて」
「何も申しません。それが、おかしゅうございます」
侍女は、籠を下ろしながら続けた。
「あの者は、いつもなら、まだ誰も知らない話をひとつは匂わせます。今日は口を結んだまま、わたくしの顔ばかり見ておりました。見て、笑っておりました」
◇
大きな話を抱えている者は、かえって黙る。小出しにすれば、値が下がるからである。
ヴィオレッタは、扇の先で掌を軽く打った。
「では、もうすぐですわね」
◇
八日目の晩、ベルナールが帳面を抱えて来た。
「ドゥラージュ伯爵家の払いでございますが」
「また、早いのかしら」
「早うございます。今月の分を、三軒とも、もう払っておいでです。いつもより、さらに色をつけて」
「三軒とも」
「三軒とも、でございます」
◇
ヴィオレッタは、扇を閉じた。
三軒に、同じだけ多く払う。どこから何を買ったのか、払いの帳面からは決して分からないように。
払いが増えたのは、何かを買ったからである。何を買ったのかは、もうすぐ分かる。
◇
「伯爵家の麦は、今年はどうなの」
「悪うございます。三年続けて」
「それで、どこからお金が」
「奥方様の持参金の、最後の残りだと聞いております。銀器を二揃い、手放されたとも」
◇
最後の残りで、悪女の噂をひとつ買った。
ヴィオレッタは、少しだけ、その夫人に感心した。感心したところで、手加減する理由にはならない。
◇
九日目の朝、シャトラン侯爵夫人から、また茶会の招きが来た。
客の名が添えてある。ドゥラージュ伯爵夫人の名も、ボワシエ男爵夫人と娘の名も、そこにあった。
「お出になりますか」
マリアンヌが、招き状を盆に載せたまま訊いた。
「出ますわ」
◇
「何をお召しに」
「緑の衣を。詰め物は、もう入っておりますもの」
マリアンヌの内側で、何かがこわばった。
「肩のことが出てまいりましたら、その衣では」
「出てきたら、ご覧になって、と申しますわ。まっすぐでしょう、と」
◇
「耳飾りは」
「つけていきますわ。どちらが作り直しか、当てていただきましょう」
侍女は、ため息をつきかけて、飲みこんだ。
肩なら、緑の衣を見せればいい。耳飾りなら、両の耳を見せればいい。雷なら、見せるものは何もない。本当です、と言うだけのことである。
どれが出てきても、答えはもう決まっていた。
ヴィオレッタは、招き状を受け取った。
「肩か、耳飾りか、雷か。どれが出てくるか、楽しみですわね」
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