第87話 今日は、ここまでで結構ですわ
三日目は、髪結いのファビアンであった。
王都でいちばん腕がよいと言われる男である。この屋敷へ来るようになって、もう八年になる。指が長く、口数が少ない。王都の夫人や令嬢で、この男に髪を結わせたことのない者はまずいない。シャトラン侯爵夫人も、ドゥラージュ伯爵夫人も、毎週この男を呼んでいる。
今日は、弟子の娘をひとり連れていた。ルイーズという、十五、六の娘で、櫛とピンの入った籠を抱えている。
ファビアンの店には、弟子が何人もいる。客の家へ連れていくのは、いつもひとりだけで、ピンと櫛を渡す役である。口をきくことは、まずない。客のほうも、弟子の顔などいちいち覚えていない。鏡台の前の女たちが見ているのは、鏡の中の自分と、後ろの髪結いの手だけなのである。
◇
「お弟子を、お連れになりましたのね」
「この春から、奥のお客様のところへも連れてまいります。ピンを渡す手がひとつ増えれば、そのぶん早く済みますので」
ルイーズは、深く頭を下げた。顔を上げると、そばかすの多い、目の大きな娘である。
「よろしくお願いいたします」
声は小さく、言葉は丁寧であった。
◇
鏡台の前に座ると、ファビアンが髪をほどいていく。
窓の外で、雲が低くなっていた。昨日の夕方から溜まっていた雲が、朝になっても動かない。秋の終わりにしては、空が暗い。
「ドゥラージュ伯爵夫人も、あなたをお呼びになるそうですわね」
「毎週、お呼びいただいております」
「あの方の髪は、どんなふうに結いますの」
「お客様のことは、申し上げないことにしております」
ルグランの老人と、同じ答えである。内側にも、ずれはない。
「鼈甲を」
「はい」
ルイーズの手が籠に入り、迷わず一本を選び出す。銀、鼈甲、銀、銀。娘の内側に並んでいるとおりの順である。
降りそうですわね、とヴィオレッタが言うと、夕方には雷になるかもしれない、と髪結いは答えた。答えながらも、指は少しも止まらない。
◇
三つ目は、それで決まった。
◇
「わたくし、雷の晩は眠れませんの」
鏡の中で、髪結いの目がわずかに動いた。
「子どものころからですわ。灯りを消すと、窓が白く光るでしょう。光ってから、鳴るまでを数えてしまいますの。数えはじめると、朝まで止まりません」
ファビアンは、黙ってうなずいた。
「このことは、お屋敷の外の方には、申しておりませんの」
「はい」
◇
本当のことである。
いつからなのかも、覚えている。母の具合が悪くなった年の秋であった。雷の晩、窓が光るたびに、廊下の向こうで誰かが走った。走っていく先は、決まって母の部屋。
それきり、雷は眠りの邪魔をするものになっている。
そこまでは、髪結いにも言わない。言わなくても、本当であることに変わりはない。
◇
髪結いの内側も、静かであった。毛の流れと、ピンを打つ角度のことしかない。
ルイーズは、籠からピンを一本ずつ差し出していた。娘の内側には、ピンの順番が並んでいる。それと、窓の外の雲。
ヴィオレッタは、少しだけ待った。娘の内側に、ほかのものが浮かんでこないかと。
浮かんではこない。ピンの順番と、雲だけである。
◇
ファビアンが、黙って手を後ろへ出した。
ルイーズが、ピンを一本、その掌に載せる。髪結いの指が、ほんのわずかに迷った。迷ったまま、ピンを打つ。
次の櫛が、ひと筋、毛を引っぱった。
ほんのわずかである。普通の令嬢なら、気づきもしない。
「今日は、ここまでで結構ですわ」
◇
髪結いの手が、止まった。
まだ半分しか結い上がっていない。後ろの髪は、ほどいたまま肩に落ちている。
「お嬢様。何か、お気に召さないことが」
「いいえ。今日は、ここまでで結構ですの」
理由は、言わない。
◇
ファビアンは、それ以上は訊かなかった。
ひと筋のことに思い当たったのかどうかは、分からない。この男の内側は、手を止めてもなお、毛の流れのことでいっぱいなのである。
櫛をしまい、深く頭を下げて、弟子を連れて出ていく。ルイーズの籠の中で、ピンがかすかに鳴った。
窓から見下ろすと、門のところで、娘がいちど振り返った。見ていたのは屋敷ではない。西の空の、重たい雲である。
◇
ひと筋である。痛かったわけではない。
けれども、王都でいちばん腕のいい髪結いが、ひと筋を引っぱった。腕のいい者ほど、ひと筋を許してはならない。許せば、次は二筋になる。二筋を許す家だと、髪結いのほうが覚える。
悪女の家は、ひと筋で帰す。そう覚えてもらうほうが、ずっと楽なのであった。
◇
残りの髪を結ったのは、マリアンヌである。
侍女の指は、ファビアンほど速くない。けれども、一度も引っぱらない。ピンを打つたびに、鏡の中の主人の顔をうかがっている。
あの者の櫛が引っぱったのは、ひと筋だけでございました、と侍女は小さく言った。
「ひと筋ですわ」
マリアンヌは、それきり何も言わない。言わずに、最後のピンを、少しだけ強く打った。
◇
昼過ぎに、ベルナールが顔を出した。
「ファビアンの店から、使いが参りました。今日の代は、いただかないと申しております」
「半分しか結っておりませんもの」
「いえ。半分のぶんも、いただかないと」
「では、全部払いなさい。途中で帰したのは、わたくしの都合ですもの」
◇
ベルナールは、わずかに眉を上げた。
「よろしいので」
「ひと筋は、ひと筋ですわ。腕のほうは、王都でいちばんですもの」
執事は、かしこまりました、と下がっていく。内側で、帳面のどの欄に書くかを考えていた。気に入らないので帰した髪結いへの払い、という欄は、この屋敷の帳面にはない。
◇
マリアンヌが、鏡台の上のピンを箱に戻しながら言った。
「お嬢様。三つとも、お済みになりましたのね」
「済みましたわ」
「肩と、耳飾りと、雷」
「ええ」
侍女は、雷のところだけ、少し声を落とした。それきり、何も訊かない。
ヴィオレッタも、それ以上は言わなかった。
鏡の中で、マリアンヌの結った半分は、ファビアンの半分と見分けがつかない。見分けがつかないように結ったのであろう。首を回して確かめると、ピンの頭が、ひとつ残らず内側へ向けてあった。
◇
その晩、雷は鳴らなかった。
雲は夜のうちに北へ流れて、朝には晴れ渡っている。
ヴィオレッタは、明るくなった窓をしばらく眺めていた。三つとも、もう屋敷の外へ出ていった。
あとは、どれが戻ってくるかを待つだけである。
雷の鳴らなかった晩は、よく眠れる。その晩も、ヴィオレッタはよく眠った。
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