第86話 違う、本当のことを
二日目は、ルグランの宝飾屋である。
小柄な老人で、黒い天鵞絨を張った箱を三つ、見習いの少年に持たせて来た。箱をあけると、首飾りが並んでいる。
ボワシエ男爵家の娘が質に入れたのも、たぶんこの店で誂えた首飾りであろう。
◇
「ボワシエ男爵家の首飾りも、こちらでお作りになったのかしら」
老人は、箱の留め金をかけ直しながら答えた。
「どちら様のお品も、お作りしたかどうかは申し上げないことにしております」
「質に入ったそうですわね」
「存じません。存じておりましても、申しません」
内側を探ってみたが、そこには何も浮かんでこない。本当に知らないのである。知らないうえに、知っていても言わない。言葉と内側とが、ぴたりと重なっていた。
◇
ヴィオレッタは、首飾りには目もくれず、自分の耳飾りを外した。
「これを、磨いてくださいな」
老人が、ルーペを目にあてる。
ひとつ目を見て、ふたつ目を見て、それからもう一度、ひとつ目に戻る。
「お嬢様。こちらは」
「片方は、作り直させたものですの」
◇
ヴィオレッタは、窓のほうを見た。
「本物は、五つのとき、庭の池に落としましたわ。母にもらったばかりでしたの。誰にも言えなくて、父の出入りの細工師に、こっそり同じものを作らせました」
「五つのお子に、細工師が」
「わたくしの珊瑚の腕輪と、引き換えに。腕輪のほうは、誰も気にしませんでしたもの」
◇
池は、屋敷の東の庭にある。
五つの夏、耳飾りをつけてもらったのが嬉しくて、水面に顔を映しに行った。身を乗り出した拍子に、片方が落ちる。小さな音がして、波紋がひとつ広がり、それきりであった。
庭師に頼めば、池の水を抜いてもらえたかもしれない。けれども、頼めば母の耳に入る。五つの娘は、母の悲しむ顔を見たくなかった。見たくないから、腕輪を細工師に差し出したのである。
◇
老人は、ルーペを外した。
「よい細工でございます。わたくしでも、二度見なければ分かりませんでした」
「母も、分かりませんでしたわ」
言ってから、ヴィオレッタは少しだけ黙った。
「母は、一度も訊きませんでしたの。片方が違うのではないか、とは。訊かれていたら、言っておりましたわ。訊かれないまま、母は亡くなりましたけれど」
◇
老人は、何も言わなかった。
言わずに、耳飾りを柔らかい布の上に並べる。右と左を、きっちり同じ向きに。
「このことは、お屋敷の外の方には、申しておりませんの」
「心得ております」
◇
老人の内側も、静かであった。石の色と、留め金の形のことしかない。
見習いの少年は、箱の鍵を落とさないように握りしめている。十二、三であろう。少年の内側には、鍵と、帰りに寄る屋台の焼き栗のことしかなかった。
◇
磨き上がった耳飾りを、老人は自分の手でヴィオレッタの掌に載せた。
「どちらが作り直しか、わたくしは覚えておきません」
「覚えておいてくださって、結構ですわ」
「いいえ。磨くたびに、二度見ればよいことでございますから」
この老人も、本当に誰にも言わないのであろう。ずれは、どこにも見えない。
ルグランの店は、王都の宝飾屋の中でいちばん古く、この老人で四代目になる。客の宝石箱の中身を覚えておかないことで、四代続いてきた店なのだと、父が昔言っていた。
◇
老人は、見習いの少年に箱を持たせて帰っていった。少年は、門を出たところで走り出す。焼き栗の屋台は、まだ出ているのであろう。
◇
宝飾屋のあいだ、マリアンヌは隣の間に控えていた。扉は、細くあけてある。主人が、そう言いつけておいたのである。
宝飾屋が帰ったあと、マリアンヌが部屋に入ってきた。
入ってくるなり、扉を閉める。
「お嬢様。池の話は、わたくしも存じませんでした」
「申しておりませんもの」
「なぜ、あの者に」
◇
「昨日の方も、同じですわ」
マリアンヌの手が、扉の把手にかかったまま止まった。
「三軒のうち、どこから出るのか、知りたいの」
侍女は、しばらく黙っていた。
それから、ようやく分かったという顔になる。
「……それぞれに、違うことを」
「違う、本当のことを。ひとつずつ」
◇
ほかの家の令嬢なら、違う嘘をひとつずつ流せば済む。どの嘘が出てきたかで、店が知れる。
ヴィオレッタには、それができない。だから、本当のことを使うしかなかった。肩も、耳飾りも、どちらも本当である。出てきたときに、否むことはできない。
だから、選ぶものを間違えてはならなかった。誰かを巻きこむ本当のことなら、出てきたとき、巻きこまれた誰かまで一緒に笑われる。肩も耳飾りも、笑われるのはヴィオレッタひとりで済む。悪女が笑われるぶんには、誰も困らない。
◇
「お嬢様。出てまいりましたら」
「訊かれますわね。本当ですの、と」
「お答えに」
「なりますわ。本当ですもの」
◇
マリアンヌは、唇を噛んだ。
「肩は、まだよろしゅうございます。けれど耳飾りは、奥方様の」
「母の形見ですわね。半分だけ」
「半分でも、でございます。茶会で笑われでもしたら」
「笑われますわ。きっと」
◇
ヴィオレッタは、耳飾りを片方ずつ耳に戻した。
「笑われるくらいのことでなければ、噂にはなりませんもの。可笑しくて、本当で、少しだけ気の毒な話。あの夫人は、そういうのが好きでしょう」
侍女の内側で、ソランジュの顔と、蓋のあいた空の箱が重なっている。
「ボワシエ男爵家のあの娘も、笑いものでございました」
「そうね」
「お助けになるのでは、ございませんのね」
◇
「助けませんわ」
ヴィオレッタは、鏡の中で耳飾りの向きを直した。
「わたくしは、わたくしの肩と耳飾りのことで、手いっぱいですもの」
マリアンヌは、それ以上は言わなかった。言わないかわりに、明日の髪結いのために、鏡台の上を念入りに拭きはじめる。拭く手に、いつもより力が入っている。
侍女の内側には、ソランジュの白い顔がまだ残っていた。助けてほしいと思っているわけではない。主人が助けないことを、この侍女はとうに知っている。
ただ、主人が笑われる側に回ったときの顔を、見たくないのである。
◇
三つ目は、まだ決まっていない。
髪結いの前で口にすること。鏡台の前の、いちばん無防備な顔で言うこと。肩よりも耳飾りよりも、人が面白がりそうなこと。
候補は、いくつかある。どれも本当で、どれも、屋敷の外の誰にも言ったことがない。
◇
夕方、窓の外の空が、低く垂れこめてきた。
西のほうに、重たい雲が溜まりはじめている。風が止んで、庭の木の葉が一枚も動かない。
ヴィオレッタは、しばらくその雲を見ていた。
三つ目は、明日の空に選ばせることにする。
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