第85話 ほかの方には、申しておりませんの
一日目の朝、ヴィオレッタは早くに目を覚ました。
寝台の上で、三つのことを選ぶ。屋敷の外の誰も知らないこと。屋敷の中でも、知っている者のほとんどいないこと。それでいて、噂になれば誰の耳にも残るくらいには小さく、可笑しいこと。
嘘なら、いくらでも作れる。本当のことは、持っているぶんしか使えない。
◇
候補は、いくつも浮かんだ。
父の書斎の鍵が、もう何年も壊れたままであること。これは父のことで、ヴィオレッタのことではない。使えば、噂は父のところへ行く。厨の料理番が、夜ごと料理酒に口をつけていること。これも、料理番のことである。
自分のことで、屋敷の外の誰も知らず、知られたところで笑われるだけで済むこと。そう絞ってみると、思いのほか少ない。悪女というのは、人に言えないことを、案外持っていないものらしい。
◇
ひとつ目は、すぐに決まった。
鏡の前に立つと、肩の線がわずかに傾いている。左が、右より指一本ぶんほど低い。衣を着れば分からない。分からないように、衣のほうで直してあるからである。
知っているのは、自分と、着替えを手伝うマリアンヌと、もうひとりくらいのものであろう。
◇
昼前に来たのは、マダム・オードランであった。
灰色の髪をきつく結い上げた、背の高い女である。後ろに、針箱を抱えた若い針子をひとり連れていた。
仕立屋は、部屋に入るなり、壁際に並べさせた布地の見本に目をやった。それから、ヴィオレッタの顔を見る。
「先月の衣に、何かお気に召さないところがございましたか」
「ございませんわ」
「では、なぜ」
「新しいのが、欲しくなりましたの」
◇
仕立屋は、それ以上は訊かなかった。
訊かない女だということは、前から知っている。母の代から、この屋敷の衣はオードランの店が縫ってきた。母の衣を縫ったのは先代の主で、今の主は、そのころ針子として後ろに控えていたのだという。
◇
寸法を取るあいだ、仕立屋はほとんど口をきかない。
巻き尺が、肩から腰へ、腰から裾へと動いていく。数字は口に出さず、針子の差し出す紙切れに、鉛筆で小さく書きつけるだけである。
巻き尺が左の肩にかかったとき、仕立屋の指が、ほんのわずかに長く止まった。紙切れに書きつける数字が、右のときとひとつ違う。針子は何も気づかずに、その紙を受け取っている。
仕立屋の内側は、静かであった。布と糸のことしかない。
◇
ヴィオレッタは、隅の針子の内側も聞いた。
十七、八の娘である。待ち針を、針山に一本ずつ戻している。内側にあるのは、針の数と、帰ってから縫う袖のことだけであった。
ここで、何か拾っている者はいない。少なくとも、今日のところは。
◇
「マダム」
「はい、お嬢様」
「わたくし、左の肩が、右より少し下がっておりますでしょう」
巻き尺が、止まった。
「……お気づきでございましたか」
「母も、そうでしたの。母の衣を誂えた方が、左だけ詰め物を入れておりましたわ。わたくしにも、そうなさって」
◇
仕立屋は、しばらく巻き尺を持ったまま立っていた。
「先代も、そういたしました」
低い声である。
「奥方様は、左の肩をお気になさって、鏡の前ではいつも右へ少し傾いておいででした。先代が詰め物を入れてから、まっすぐお立ちになるようになりました」
「存じませんでしたわ」
「わたくしも、今まで申し上げませんでした」
◇
内側にも、ずれはない。
この女は、二十年あまり、母の肩のことを誰にも言わずにきたのである。娘のヴィオレッタにさえ。
「先月の衣にも、詰め物は入っておりましたの」
「入れておりました。お嬢様がお気づきでないなら、申し上げることでもないと存じまして」
◇
ヴィオレッタは、扇の先で左の肩に触れた。
気づいていなかったわけではない。気づいていて、誰にも言わなかっただけである。言わずにきたことが、ここでひとつ、使える。
「このことは、お屋敷の外の方には、申しておりませんの」
「わたくしも、どなたにも申しません」
その言葉に、ずれはなかった。この女は、本当に誰にも言わないのであろう。
◇
布地を選ぶ段になって、仕立屋は紺を勧めた。
今年の王都では、深い緑は少し古いのだという。
「緑にいたしますわ」
「かしこまりました。ただ、紺のほうが」
「紺は、ドゥラージュ伯爵夫人のお好きな色ですもの。並んで座って、同じ色だと思われたくありませんわ」
◇
仕立屋は、かしこまりました、とだけ言った。
内側で、ほんの少し笑っている。笑いのほうにも、ずれはない。
「それから、七日で縫ってくださいな」
巻き尺を巻く手が、また止まった。
「七日、でございますか。ほかのお屋敷のご注文が」
「後に回しなさい。お代は、そのぶん色をつけますわ」
仕立屋は、少し考えてから頭を下げた。ほかの屋敷の誰かが、今月は待たされる。ヴィオレッタは、それが誰なのかを訊かなかった。
◇
帰りぎわ、仕立屋は扉の前で振り返った。
「奥方様は、先代にひとつだけお頼みになりました。娘の肩も、いずれ自分と同じになるから、そのときは黙って直してやってほしい、と」
「それで、黙っておりましたの」
「はい。黙って、と仰いましたので」
仕立屋は、深く頭を下げた。内側には、二十年前の針子部屋の灯りが、ひとつだけ浮かんでいる。それもすぐに、布と糸のことに戻っていった。
◇
仕立屋の後ろで、針子が思わず顔を上げる。
目が合うと、娘は慌てて針山に目を落とした。内側で、今夜は眠れない、と思っている。その声にも、ずれはなかった。
◇
夕方、ヴィオレッタは衣装部屋から先月の衣を出させた。
左の肩の裏地を、指で探る。薄い詰め物が、たしかに縫いこんであった。右の肩には、何もない。
ひと月のあいだ、何度も袖を通した衣である。肩が下がっていることは知っていても、衣のほうで直されていることには、少しも気づかなかった。気づかせないように縫うのが、あの店の仕事なのであろう。
母も、気づかないまま着ていたのかもしれない。
◇
仕立屋が帰ったあと、マリアンヌが布地の見本を片づけながら、何度もこちらを見た。
「お嬢様。肩のこと、ご自分から仰いましたのね」
「言いましたわ」
「これまで、わたくしにも仰ったことはございませんでした」
「あなたは、着替えのたびに見ているでしょう。言うまでもありませんもの」
◇
侍女の内側には、問いがひとつ浮かんでいる。
なぜ今日、あの女に。
浮かんだまま、口には出てこない。ヴィオレッタも、答えなかった。訊かれていないことには、答えなくてよい。
マリアンヌは、片づけた見本を抱えたまま、しばらく扉の前に立っていた。それから、何も言わずに出ていく。
黙っていることなら、この侍女は得意なほうである。それでも今日は、訊かずにおくほうを選んだらしい。主人の考えを先に知ってしまえば、明日の宝飾屋の前で、顔に出る。
◇
その夜、二つ目を決めた。
鏡台の引き出しから、耳飾りを出す。小さな真珠を金の台で留めた、ひと揃いである。右と左を並べて、灯りにかざした。
どちらがどちらなのか、ヴィオレッタにはもう分からない。分かるのは、片方が、母にもらったものではないということだけである。
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